その62 「七日目/商談成立」
やっとドイツ編が終わりに近づいてきた
七日目。
ドイツの朝は、妙に静かだった。
昨日の爆弾が嘘のように。
廊下も平穏。
ロビーも平穏。
噂も――沈んでいる。
表面上は。
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悠馬は資料をめくっていた。
数字。
契約条項。
譲歩できる線。
譲れない線。
言葉より確かなものだけが並ぶ。
(仕事だ)
仕事は裏切らない。
感情より単純で、
噂より合理的で、
爆弾より安全だ。
少なくとも、悠馬はそう信じている。
会議室は長かった。
磨かれたテーブル。
整然と並ぶグラス。
ドイツ側の役員たち。
書類。
沈黙。
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本来、この席に座るのはノア・ハミルトンだ。
現場を回し、社交をこなし、笑顔で握手をして、
最後に「伯爵」としてまとめる役。
それがノアの仕事だ。
佐伯悠馬は、出てこない側の人間だった。
頂点にいるのに、表に立たない。
噂にも社交にも興味がない。
必要な時だけ、最終承認の印を押す。
そういう男だ。
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――なのに。
今日ここにいる。
それが異例だった。
異例であることを、本人だけが理解していない。
悠馬はそこに座っているだけで頂点だった。
細い肩。
派手さのない顔。
なのに視線が集まる。
肩書が、空気を支配している。
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隣に立つのはエレノア。
完璧なスーツ。
完璧な所作。
完璧な部下。
感情を挟まず、淡々と補足する。
「こちらが最終案です」
「この条件であれば、双方に利益があります」
声は静かだ。
だが揺れない。
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レオン・フォン・ヴァイスハルトは、それを見ていた。
取引先の頂点。
調べ尽くした男。
オックスフォード。
PPE。
卒業と同時にグループを仕切った怪物。
――そういう男だと知っていた。
知っていたはずだった。
(……違うな)
実物は、もっと静かだった。
威圧しない。
声を荒げない。
だが一歩も譲らない。
水面の下で岩のように動かない。
(噂の“ウサギ”は、これか?)
レオンは内心で首を傾げた。
確かに柔らかい。
しかし。
弱いわけではない。
沈黙が続く。
大人の沈黙。
計算の沈黙。
最後の一手を探る沈黙。
やがて。
ドイツ側の代表が、ゆっくり口を開いた。
「……承知しました」
一拍。
「この条件で進めましょう」
空気が変わる。
拍手が起こる。
握手が交わされる。
笑顔が貼り付く。
成立。
商談という名の儀式が終わった。
悠馬は立ち上がり、手を差し出した。
「ありがとうございます」
声は静かだった。
だが確かだった。
レオンはその手を握り返しながら思う。
(面白い)
(この男は本来、ここにいない)
(それでも出てきた)
(理由があるはずだ)
噂か。
火消しか。
それとも。
”エリー”か。
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会議室を出る。
廊下の光が白い。
エレノアが淡々と言った。
「お疲れさまでした、佐伯さん」
「お疲れさまでした」
平常心。
仕事の顔。
アンドロイド悠馬。
レオンがふと口を開いた。
「佐伯氏」
「はい」
「あなたは噂と違う」
悠馬の胃が反応する。
「……噂?」
「ええ」
レオンは微笑んだ。
「くだらない噂です」
悠馬は即答した。
「くだらないです」
早い。
早すぎる。
動揺の速度が早い。
レオンは楽しそうに目を細めた。
「ですが」
一拍。
「世界は噂で動く」
悠馬は理解できない顔をした。
「意味がわかりません」
「でしょうね」
その時。
遠くで小さな声が響いた。
「叔父上!」
ルイスの声。
礼儀正しい。
無垢。
『爆弾の中心』
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悠馬の背筋が凍る。
エレノアは目を細める。
レオンは静かに視線を移す。
悠馬。
ルイス。
悠馬。
ルイス。
(似すぎだろ)
噂はくだらない。
でも。
噂が育つ土壌は確かにある。
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世界は早い。
悠馬は遅い。
『そして最終日――八日目が近づいていた』
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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