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第1話 聖人メーカーと、強欲な司教

 聖教国の中枢で、まことしやかに囁かれる噂があった。


『辺境から来たピア修道女。彼女の補佐を受けた者は、例外なく歴史に残る“聖人”へと出世する』

『ただし、二度と俗世には戻ってこない』


 後半の警告は、欲望に目の眩んだ者には届かない。今日もまた一人、哀れな子羊が自ら虎の尾を踏みにやってきた。



 大聖堂の奥まった一室。豪奢な調度品に囲まれた部屋で、ボルゴス司教はふんぞり返っていた。

 彼は金銀細工の杖を弄びながら、目の前の少女を値踏みする。


「――よく来た、ピア修道女。今日から私の補佐についてもらう」


「光栄です、ボルゴス司教様。この身の全てを捧げ、神とあなた様に仕えます」


 ピアは深く頭を下げた。


 質素な修道服に、色素の薄い髪。見た目は従順で、無垢な田舎娘そのものだ。ボルゴスは下卑た笑みを浮かべる。これならどうとでも扱える、と。


「うむ。単刀直入に言おう。私は将来、枢機卿ひいては教皇の座を目指している」


 彼は身を乗り出し、欲望を隠そうともせずに続けた。


「お前には『聖人メーカー』の異名があるそうだな?その手腕で、私を民衆が崇める『生き神様』……すなわち『聖人』に仕立て上げろ。もちろん、それ相応の見返りを与えてやる」


 ピアは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳が、ステンドグラス越しの日差しを受けて、奇妙なほど澄んだ光を宿す。


「……ボルゴス様。今、なんと仰いましたか?」


「だから、聖人になりたいと言ったのだ。聞こえなかったのか?」


 ピアが一歩、詰め寄る。


「それは……修辞や譬え話ではなく?人の身でありながら欲を捨て、肉を削ぎ、魂一つで神と向き合う……あの『聖人』になりたいと、本気で仰るのですか?」


 ボルゴスは鼻を鳴らした。


 何を大げさなことを。聖人など、政治力と寄付金で買う称号に過ぎないだろうに。だが、この娘をやる気にさせるなら、調子を合わせておくのが上策か。


「くどいぞ。そうだと言っている。私は全てを捨ててでも、聖なる高みへと至りたいのだ。私の覚悟は揺るがんよ」


 その瞬間だった。


「――あああああああっ!!」


 ピアが、大聖堂の鐘のような大声を上げて崩れ落ちた。両手で顔を覆い、指の隙間からボロボロと大粒の涙を流している。


「なんという……なんという高潔な魂!私、誤解しておりました!あなたは俗物にまみれた豚のようなお方だとばかり……っ!申し訳ありません!ああ、神よ!」


「おい、誰が豚だ」


 不快げに眉を寄せるボルゴスを無視し、ピアはガバッと顔を上げた。その表情は、恍惚そのものだった。


「承知いたしました。このピア、命を賭してボルゴス様を『聖域』へ押し上げてみせます!!」


 ボルゴスは満足げに頷いた。しかし彼は知らなかったのだ。彼女にとっての「聖人」とは、称号ラベルではなく、生態モードのことであると。


 誤解という名の契約が結ばれた、その翌朝のことである。朝霧が石畳を濡らす刻限、食堂に情けない声が響いた。


「……なんだ、これは」


 ボルゴス司教は、目の前の皿を見て絶句した。


 本来なら、極上のベーコンと焼き立てのパン、葡萄酒が並ぶはずのテーブル。そこには、路傍の草を煮たような青臭いスープと、一杯の水だけが置かれていた。


「朝食です、ボルゴス様」


 給仕に下がらせたピアが、うっとりとした表情で答える。


「馬鹿な。厨房には最高級の食材を発注してあるはずだ!」


「ええ。ですが、教皇を目指す方が、そのような『汚濁』を口にしてはなりません」


 ピアは、組んだ両手を祈るように頬に添えた。


「美食は怠惰の源。教典第三章にも『聖なる魂は飢えにて磨かれる』とあります。ですので、届いた食材はすべて、貧民街へ寄付してまいりました。さあ、共に飢えを愛しましょう」


「ふざけるな!私は美食が楽しみで……いや、力の源なのだ!」


 ボルゴスはテーブルを叩き、隠し持っていた葡萄酒の瓶を取り出した。せめてこれだけでも飲まねばやってられない。


「まあ……そこまで『悪食の悪魔』に憑かれているとは」


 ピアは憐れむように首を振る。彼女の指先が光った。修道女の高等魔法『聖別サンクチュアリ』である。


 パリン、と小気味よい音がして、瓶の中身が白く発光した。


「ああっ!?私のヴィンテージワインが!」


「お喜びください。ただの真水に変えておきました」


「貴様ァッ!!」


「まずは三日、断食しましょう。魂が洗われますよ」


 その言葉に、一切の悪意はない。あるのは純度100%の、狂気的な信仰心だけだった。


 しかし、彼女の指導は食事制限ごときでは終わらない。祭壇の蝋燭が燃え尽きかける深夜、礼拝堂は異様な空気に包まれていた。


「ぐ、うううう……っ!?」


 ボルゴスは、祭壇の前で膝をついたまま、微動だにできなくなっていた。彼の全身には、白い光の鎖が幾重にも巻き付いている。


 ピアが得意とする聖魔法『慈悲の戒め(マーシー・バインド)』である。


「素晴らしい姿勢です、ボルゴス様」


 背後で、ピアがうっとりと囁く。


「背筋は垂直に。手は祈りの形に固定。膝は床に密着。この姿勢こそ、天の声を聴くためのアンテナなのです」


「い、痛い……足が、痺れて……感覚が……」


「ええ、それが『肉体の脱却』ですわ」


 ピアは、脂汗を流すボルゴスの額をハンカチで優しく拭った。逃げ出そうとした彼を、彼女は問答無用で縛り上げたのだ。


「本来なら、眠気や痛みに負けて姿勢が崩れてしまうところを、この魔法が支えてくれます。おかげで24時間、一睡もせずに祈り続けられますね」


「し、死ぬ!死んでしまう!」


「ご安心ください。死にそうになったら回復魔法ヒールをかけます。回復すれば、また一から祈れますから」


 完全なる無限ループだった。ボルゴスの悲鳴は、魔法による防音結界で、誰にも届かない。


「さあ、あと三万回、感謝の聖句せいくを捧げましょう。夜はまだ長いですわ」



 そんな狂気の日々が日常となり、大聖堂の庭木が色づく頃。教皇庁から、枢機卿が視察に訪れた。

ボルゴス司教の部屋を訪れた枢機卿は、息を呑んだ。


 そこには、やせ細り、眼光だけがギラギラと輝くボルゴスがいた。彼は光の鎖に縛られたまま、高速で聖句を呟き続けていた。


 もはや本人の意思はない。魔法による強制的な駆動と、極限状態のトランス状態が混ざり合い、全身から神々しい魔力光が溢れ出ている。


「……ボルゴス司教?」


 枢機卿が恐る恐る声をかける。ボルゴスは、焦点の合わない目で枢機卿を見つめ、掠れた声で言った。


「……か、神よ……わたしを……ころ、して……」


 その言葉を聞いたピアが、サッと枢機卿の前に出る。彼女は感動に打ち震えていた。


「お聞きになりましたか、猊下!『神よ、私を愛して』と!この身が朽ち果てるほどに!」


「い、いや、今『殺して』と聞こえたような……」


「いいえ!あれは『現世の肉体を滅ぼし、純粋な魂になりたい』という究極の祈願!見てください、この魔法の鎖を。彼は『祈りを止めるのが惜しいから、無理やり固定してくれ』と自ら懇願したのです!」


 枢機卿は目を見開いた。


 自ら拘束を願い出るほどの、狂気的な信仰心。薄汚れた麻布一枚を纏い、床に這いつくばるその姿は、確かに伝説の聖人が回心した瞬間の絵画にそっくりだった。


「……本物だ。本物の聖者が、ここにいた」


 枢機卿は震え、その場に跪いた。


「ボルゴス殿!貴殿こそ、教団の光だ!」


「あ……あ……?」


「これほどの聖性せいせいを示された方を、こんな俗世に置いてはおけん!直ちに『断食の塔』へ入ってもらう!あそこなら、窓のない石壁の中で、誰にも邪魔されず死ぬまで祈り続けられるぞ!」


 断食の塔。罪人を幽閉するための塔だが、今回は「聖人の隠棲地」として使われる。

ボルゴスが絶望に白目を剥く。だが、ピアは満面の笑みで、彼の手を取った。


「やりましたね、ボルゴス様!私が担当した中で、最短記録での『栄転』です!」

ボルゴスは、聖騎士たちに担がれ、天へと運ばれていく。その体は、まだ光の鎖で縛られたままだった。



 騒動が去り、主のいなくなった執務室に、新たな来訪者が現れた。


「……素晴らしい手腕だ、ピア修道女」


 ノックもなく入ってきたのは、教団の最高権力者に近い、大司教であった。


 彼もまた、豪華な指輪をジャラジャラとつけた、強欲そうな老人だ。彼はボルゴスの末路を詳しく知らず、ただ「ピアが彼を聖人に変えた」という結果だけを見て、利用価値があると考えたのだ。


「君を昇格させよう。私の直属として、さらに多くの神官を指導してほしい」


 ピアは、あどけない笑顔で振り返った。


「はい!光栄です、大司教猊下!」


 そして、彼女は一歩、大司教に歩み寄った。その澄んだ瞳が、大司教の指にある、贅肉に食い込むほどの巨大な宝石の指輪に釘付けになる。


「……まあ。猊下も、大変お辛いのでしょう?」


「ん?辛いとは?」


 大司教が怪訝な顔をする。ピアは、慈母のような表情で彼の手を取った。


「無理になさらなくて良いのです。その指輪……まるで『現世の欲』という鎖が、あなた様の高潔な魂を縛り付けているようですわ。それに、その豊かなお腹周りも……『暴食』という重りを、あえて背負っておられるのですね?」


「い、いや、これは単に美食が……」


「わかります。私にはわかりますわ」


 ピアは、ぎゅっと大司教の手を握りしめた。その力は、修道女とは思えぬほど強かった。


「ボルゴス様もそうでした。でも、もう大丈夫です。私が側にお仕えするからには、その重たい宝石も、余分な脂肪も、すべて削ぎ落として差し上げます」


 彼女は、うっとりと宣言した。


「骨と皮だけの、軽やかな『聖なる魂』になれるまで――わたくし、決して見捨てたりいたしませんから」


 ゾクリ。


 大司教の背筋を、冷たいものが駆け抜けた。脳裏に、やせ細って白目を剥いていたボルゴスの姿がフラッシュバックする。


 あれは「聖人」ではない。あれは――「搾りカス」だ。

 大司教の長年の政治的勘が、けたたましい警鐘を鳴らした。


(――まずい。この女は、劇薬だ)

(直属になどしたら、次はワシが骨にされる……!)


 大司教は冷や汗を隠し、大げさに咳払いをして、握られた手を振りほどいた。


「コ、コホン!い、いや!私は既に『信仰の極致』に達しているのでね!これ以上の修行は不要なのだよ」


「まあ。左様でございますか?」


 ピアが残念そうに眉を下げる。大司教は、慌てて彼女の視線を自分から逸らすべく、早口でまくし立てた。


「そ、それよりもだ。教皇庁の決定により、ボルゴス司教は『不在』となる。だが、聖人がいつ奇跡を起こすか分からん。誰かが彼の意思を管理せねばならん」


 大司教は、ボルゴスの机に残された「司教の印章スタンプ」を手に取った。


 本来なら、次の司教が選ばれるはずだ。だが、ボルゴスはまだ死んでいない。「現役の司教が、修行に入っただけ」という扱いなのだ。これを口実に、この女を遠ざけるしかない。


「そこでだ、ピア修道女。君をボルゴス司教の『総代理(Vicar)』に任命する」


「……代理、ですか?」


「そうだ。本来、修道女の君に、司教の位階は与えられん。規定が違うのでな。だが、聖人の声を代弁することはできる。この印章を預ける。教区の運営は、全て君が代行したまえ」


 それは、実質的な追放だった。面倒な実務と責任を押し付け、関わりを断とうという魂胆だ。

 だが、ピアは印章を胸に抱き、瞳を輝かせた。


「素晴らしい……!大司教様は、ご自身の権力を分け与えるだけでなく、私のような端女はしためにまで試練をお与えになるのですね!なんという無私の心!」


 彼女は深くお辞儀をした。


「承知いたしました。ボルゴス様が塔から戻られるその日まで、この教区は私が清貧に守り抜きます!」


「う、うむ。頼んだぞ!」


 大司教は逃げるように部屋を出て行った。扉の向こうで、「あの女には絶対近づくな」と護衛に命じる声が微かに聞こえる。



 嵐が去った執務室に、遠慮がちな声がかかった。


「……あ、あの。ピア様」


 書類の山から顔を出したのは、若い男性神官のテオだった。


 彼はこの教区の書記官であり、今回の騒動の一部始終を目撃してしまった唯一の証人である。彼の顔色は、幽霊を見たかのように青ざめていた。


「これ、本当に引き受けるんですか?『代理』だなんて……実質的な責任の押し付けですよ?」


「あら、テオさん。何を仰るのです」


 ピアは、ボルゴスの印章を愛おしげに磨きながら微笑んだ。


「これは責任ではなく、信頼の証です。それに、これで教会の予算や人事を、私の判断(ボルゴス様の意思)で自由に動かせるようになりました」


「ひっ……」


 テオの喉が鳴る。つまりそれは、「いつでも合法的に、次の標的を聖人送りにできる権限」を得たに等しい。テオは震える手で、一枚の羊皮紙を差し出した。


「そ、そういえば、北の塔へ送られたボルゴス様から、至急の連絡が届いております」


 そこには、血文字のような震える筆跡で、たった一言だけ記されていた。


『タスケテ』


 ピアはそれを読み、頬を染めて胸に抱きしめた。


「まあ……!『タスケテ(もっと厳しく導いて)』ですって。あんな極限状態でも、ご自身の甘えを律するために、さらなる試練を求められるなんて……!やはりボルゴス様は本物の聖人ですわ!」


「違います!絶対そういう意味じゃありませんって!命乞いですって!」


 テオの悲痛なツッコミは、ピアの耳には届かない。彼女は嬉々として指示を飛ばした。


「テオさん、すぐに塔へ伝令を。『祈りの時間を倍に増やします』と伝えて差し上げて」


「鬼かアンタは……!」


 ピアは懐から、一冊の手帳を取り出した。


「ふふ。まずは一人、救済完了ですね」


 彼女は羽ペンを取り、一番上にあった『ボルゴス司教』の名前に、満足げに二重線を引いた。


 テオは、うっかりその手帳の表紙を見てしまい――凍りついた。


 そこには、可愛らしい丸文字で、こう書かれていたのだ。


『救済を待つ子羊リスト♡』


 そのファンシーな表紙の下には、この国の中枢を担う重鎮たちの名前がずらりと並んでいた。


 次の行には、有名な色男『ジュリアン司祭』。そのずっと下には、先ほど逃げ帰った『大司教』。さらには――『教皇』や、『国王陛下』の名前まで。


「ピ、ピア様……?そのリストは……?」


「これですか?私のウィッシュリストです」


 ピアは窓を開け放ち、聖都の街並みを見下ろした。その笑顔は、どこまでも純粋で、慈愛に満ちていて――そして、底知れぬほど恐ろしかった。


「さあ、忙しくなりますよ、テオさん。この国すべてを、清貧の楽園にするまでは」


 テオはその場に崩れ落ちた。聖都に吹き抜ける風が、心なしか悲鳴のように聞こえた。

 司教代理・ピア。無自覚な怪物による国盗り(救済)の物語は、まだ始まったばかりである。

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