私の引き出し
「私はなんなのだろう」
現代を生きる若者たちは特に、自己を定義するのが難しい世の中なっている。
何かになれている人、何かに憧れ突き進む人というのはすごく美しい。
幼い時は何かになろう、なりたいということを無限の可能性から大人は肯定してくれる。だが今はどうだろうか。肯定も否定もせずに当たり障りのない言葉を並べて回答を有耶無耶にする。できると思っているのから言うことがないのか、できないと思っているけど夢を潰すのは申し訳ないという思いからだろうか、おそらく後者が多いだろうがその相手の意図を組み込むのは非常に難しい。そんなこんなで自己を理解できないのとさらに他人をも理解することが難しくなっている。本当に生きるのだけで一苦労である。
話を戻すが自己はどう定義されるか、だ。最近の現代文の問題を読んでいると自己は他人によって定義されるとしている。自己という存在は多くの人によって変わりうるだろう。ひとまず自分を知ると言ったところから始めてみるとする。
例えば私も先生、友達、両親、兄弟それぞれで接し方が違う。私の友達にはまったく態度を変えず自分を貫く人もいるがそう言った存在はみんなから受け入れられるかが難しくとても自分はそれではいられない。
私は明らかに人によって態度を変える。先生の前なら少しいい子ちゃん風になる。仲の良い友達の前ならおちゃらけて少しオタクになったり冗談も多くなる。また、それ以外の多くの友達に対しては自分が上に立たないようにすることを意識しながら下に下にでてヘコヘコしている。
今あげた三つの中でも似てるものと全く違う人格が存在している。先生と多くの友達に接する態度というのは似ているだろう。下に下に出るのだから相手に不快な思いをさせてはいけないため、必然的にいい子ちゃんに似る。
私の性格は非常に厄介であると自分でも思う。下に出るから多くの人間に対してのあたりの的にもなるし、無害認定されているため多くの情報や関係を得ることができる。無論度が過ぎる弄りなどはムカついたり怒ったりすることもある。だがそれを顔だったり言葉に出してはいけない。損得を考えた時自分が我慢をすることによりその弄りによってみんなが笑うかもしれない。やりすぎだと言って擁護してくれる人がいるかもしれない。だけどそれは自分を傷つけ続けている。知らぬ間に溜まっていき解放しなければおそらく爆発してそれこそ多くの関係に支障が出るかもしれない。
ほんとうにめんどうくさいせいかくだ。
様々なことを考える必要があるこの性格だが私は案外好きである。小さい頃からこの性格を貫いているが新しい関係に出会えた時や友達から信頼されさまざまなことを教えてもらったりなどそういったときに達成感を感じる。
今自分の性格を分析してみたが自分と他者の関わり方を主観的にではあるが考えることはできた。この主観的な感想だけでも自分一人では自分の性格を推し量ることを難しいと感じる。他者がいなければ自己というものはきっと確立することはできないだろう。その中でも自分とはなんなのかと迷うことがあるのはきっとさまざまな自分の一面に自分自身が惑わされているからではないだろうか。多くの人格があるのは現代ではごく自然なことであるにも関わらず自分という存在は一人しかいないから人格の存在までも一つと捉えてしまっている。私の場合はまだまだ多くの人格を多く挙げることができるがきっと一つにまとまっているのではないかと思う。その一つから無数にある引き出しを開いてその場面にあった人格というものが出てくる。近くの引き出しなら似ているし遠ければ全く違うのかもしれない。
だから私の結論として自分がわからないのであればまずは他人を通しての自分を知るところから始めた方がいいのではいだろうか。きっと自分がどういった人格を持っているかなど知ることのきっかけとなりそれが何のためになされていることなのかということに気づけるかもしれない。そうすれば私たちの悩む自己というものに少し触れることができるのではないだろうか。自分がわからないと悩む気持ちは私もすごくわかる。だからこそすぐに解き明かそうとするのではなく、友達と仲良くなるまで時間がかかるように自分という存在にもじっくり時間をかけて向き合う必要があるのではないだろうか。
間違えた引き出しを開けてしまい周りの視線が冷たかった今日の私が言えることなのかはわからないが。




