さるかに合戦、撤退命令
「さるかに合戦」の現代版である「さるかにばなし」。仇討ちの話が、誰も死なない和解の話へと変わっています。
金曜の夜、息子の机で一枚の感想文を見つけました。月曜日提出の宿題。授業で読んだという『さるかにばなし』について、次のように書かれていました。
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『さるかにばなしを読んで』
今日、学校で「さるかにばなし」を読みました。最初はこわい話かと思ったけど、とても勉強になりました。
この話から、三つのことを学びました。
一つ目は、悪い人には仕返しをすることです。猿は柿をカニのお母さんに投げました。そのせいで、お母さんは気を失ってしまいました。とても意地悪です。でも、子どものカニの仲間たちは、みんなで力を合わせて猿に仕返しをしました。
二つ目は、困っている人を見かけたら、すぐに助けに行くことです。仲間のうすやハチは、カニが困っているのを見て、すぐに手伝いに来てくれました。ぼくも、いじめられている人がいたら、急いでクラスのみんなを集めて、いじめっ子をこらしめたいと思います。いじめはいけないことです。
三つ目は、あやまれば許してもらえるということです。猿は最後に反省して「ごめんなさい」と言いました。すると、それまで怒っていたカニたちは、すぐに許してくれました。それだけじゃなく、毎年一緒に柿を取るほどの仲良しになれました。ぼくも、悪いことをしたら、すぐにあやまることにします。そうすれば、相手は許してくれるはずです。
ぼくは「悪い人には仕返しをする」「その時はみんなで力を合わせる」「あやまれば許してくれる」ということを学びました。
これからは、困っている友だちがいたら、すぐに味方になって、いじめっ子をこらしめてあげたいと思います。そして、もし自分が悪いことをしてしまったら、すぐにあやまって許してもらおうと思います。
さるかにばなしは、とてもいい話だと思いました。
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読み終えて、私は愕然としました。「悪い人には仕返しをする」「その時はみんなで力を合わせる」「謝れば許される」。これが物語から受け取ったメッセージだというのです。
息子と話さなければ。私はそう思いました。ですが、このような問題に向き合うには、準備が必要です。そういう考え方はいけないよ、と頭ごなしに言うようなことはしたくありません。
あらためて『さるかに合戦』の現代版、『さるかにばなし』を手に取ってみます。猿が投げた柿で気絶した母カニ。カニの仲間たちが猿を懲らしめます。そして猿が改心し、最後はみんなで仲良く柿を食べる――。教育的な配慮が随所に見られます。かつての仇討ち話ではなくなり、残酷な描写は避けられ、「人の嫌がることはやめましょう」という穏やかな教訓に置き換えられています。
しかし、この物語には別の顔があるようにも思えます。息子の感想文は、図らずもそちらの顔を露わにしているように思いました。
まず気になるのは、発端の事件の大きさです。カニの身長の数十倍もある高さから、カニの体重ほどもある硬い柿を投げつけられるのです。気絶したとありますが、これは重度の傷害事件、場合によっては殺人未遂です。
次に、集団での懲らしめが「正義」として描かれている点です。みんなで力を合わせて猿を懲らしめたという、チームワークを称賛するような内容です。このような組織的対応を、無条件に正当化していることは見過ごせません。
そして憂慮すべきは、謝罪と許しの軽さです。殺人未遂のような重大事件であっても、謝まれば許してもらえるという展開。これは、加害者の責任の重さも、被害者の気持ちも、どちらも見過ごすことになりはしないでしょうか。
私は、これらをどのように解釈すればよいのか迷いました。そして、ネットで検索できる情報だけでは飽き足らず、土曜の朝一番で図書館に向かいました。法や倫理、心理学に関する本を片っ端から借り出し、読み漁りました。
法哲学の本は興味深い内容でした。カニの仲間たちによる私刑の問題性。確かに猿は悪いことをしました。しかし、法治社会において、私刑は決して許されない。それが「懲らしめ」という言葉で「正義の味方」であるかのように美化され、正当化されているのです。
心理学の本も読み進めます。トラウマの概念、PTSDの理解……。「めでたしめでたし」で終わる結末の危うさが見えてきました。被害者の心の傷は? 暴力を目撃した子どもの恐怖は? そして毎年、事件現場で加害者と顔を合わせることの残酷さは? 事件後、猿とカニは、毎年一緒に協力して柿を収穫するようになるのです。
妻が心配そうに覗き込みます。
「あなた、まだ起きてたの?」
「いや、これは問題なんだ。こんな価値観は……」
「でも、あなたが読んでる本、難しすぎるんじゃない?」
はっと我に返ります。現代的で無難な教訓に改変した『さるかにばなし』の作者と私は、本質的に同じことをしているのではないかと。
私は「正しい物語」や「正しい解釈」を押しつけようとしていたのです。その「正しさ」自体が、実は特定の時代の、特定の価値観なのです。さっき読んだ法の歴史の本に書いてありました。古代ギリシャやバビロニアと現在では、思想そのものが異なります。
昔の『さるかに合戦』は仇討ちの物語でした。現代版『さるかにばなし』は和解を描きます。でも、それぞれの「正しさ」は、その時代や立場が求めた一つの答えに過ぎないのかもしれません。
明日、息子と一緒に『さるかに合戦』を読んでみよう、そう考えていたら、息子が起きてきました。
「パパ、その本の山なに?」
「ああ、これはね……」
説明に詰まる私に、息子が言います。
「感想文、書き直す。だって、やっぱり暴力はよくないもん」
単純なようで、しかし本質的な答え。私は、構築した本の要塞を見つめました。ですが、息子の一言は、撤退命令です。結局、この大掛かりな陣地構築は、全くの無駄足だったのかもしれません。
私は本の山を見つめ、苦笑するしかありませんでした。
最近話題なので、ネタにしてみました。物語が時代や地域によって姿を変えることは、事実として受け止めています。変わることは別に良いとも悪いとも思いませんが、古い『さるかに合戦』の方が好きです。