6) まことに不憫
――日本酒は元々苦手だったけど、冷たくて美味かったな――
自治会役員たちに挨拶し、帰路につく博貴。氷点下の外気に晒された日本酒は程良く甘くて喉越しもさっぱりしており、博貴の食道と胃をキンキンに冷やしながらも、あっという間に血の巡りを早めさせた。
「こりゃあ明日に残るかも。いくら除雪機の助手で運転しなくて良くっても、酒臭い息吐いてたら怒られるよ」
独り言を呟きながら、参道の長い階段を下り出した。
酷く酔ってしまった。家で宴会が始まってからは、ビールにサワーにウイスキーの水割りにと、親戚のおじさんたちに勧められて半ば無理矢理飲まされ、この二年参りでは茶碗に目一杯注がれた冷や酒を二杯も飲んだ。近年稀に見る飲みっぷりだと自分でも苦笑している。
しかし、確かに……確かにアルコールを摂取して身体は反応を示しているのだが、博貴には気持ち良く酔い潰れる事の出来ない理由が二つほどあった。せっかく酔ったとしても、その理由が博貴の脳裏を暗雲たらしめていたのだ。
理由の一つは兄の息子である雅之の口から発せられた言葉……『底辺』である。
底辺と言う言葉だけでなく、あの幼い子供は「おじさんハケンやめたの?」で口火を切っている。言葉の真意を持って他人を攻撃する悪意などは抱いていないだろうが、決して許される言葉ではない。
では何が問題かと言うと、意味も知らずに雅之が発言した事が問題なのではなく、雅之にその単語を教えた存在……つまり雅之の母である涼子が普段から口にしている事が、博貴の不快感を刺激していたのだ。
「藤間家の者は田舎者だが、一応は村で名士の家柄で通っている。旦那の善美は東大出でキャリア官僚間違い無しの出世コース。それなのにあの弟は派遣社員で今は土建屋……」
はばかる事無くそう言ってるのだろう、それも息子の前で。それが原因となって雅之も残酷な言葉を無意識に吐き出しているのだろう。
【ただ、兄さんには悪いことをした】
もともと涼子の視線は苛烈な厳しさを持っていたから、自分に対して負の感情を持っているのは覚悟出来たが、まさか……まさかあの自信に溢れ常に威風堂々としていた兄が、あんな表情を見せるなんて。――これが二つ目の理由である。
一度兄と二人だけで話す機会を作ろうか。だが雅之に暴力を振るった件は詫びるとしても、それ以外に何を話せば良い?むしろ有耶無耶にした方が兄も蒸し返されずに溜飲を下げるのでは?
これら博貴が懸念していた事に決着がつく事は無かった。何故ならば、千鳥足で降りていた参道の階段が凍っており、博貴は盛大に足を滑らせて転落してしまったのである。
「……がっ!」
目の前の景色がぐるぐると回り、これはマズイと思った時はもう手遅れ。長い石階段をゴロゴロと転げ落ち、身体のあちこちに激痛が走る中、突如後頭部に激しい衝撃を覚えたのである。
――あっ、これはダメなやつかも――
これを最後に、藤間博貴の意識は途切れた。階段落下時の後頭部痛打が原因となり、彼の意識だけでなく人生そのものが終わってしまったのである。
藤間博貴、享年二十八歳
尊敬する者の背中を追い続けようと努力し、やがて夢破れた青年。彼は自分の人生を振り返って省みる事も無く逝ったのだが、自意識が消え去る瞬間に謎の声を聞く。
“不憫な童よ、まことに不憫なり。願わくばそなたの輪廻の先に陽が昇らん事を願うなり”
その声の主の正体は分かず、ましてや意味など理解出来る訳もない。いずれにしても藤間博貴の人生はここに終わった。
◆ 前世:藤間博貴 終わり




