32) 執政官イサベル・アルシェ
外交問題でだいたい話がこじれるのは『国境紛争』である。
経済格差是正や金銀相場・通貨の均衡調整などが議論に挙げられると、各国の代表が引き連れて来た経済専門の官僚たちがすぐに別室へと移って合意を形成するのだが、紛争事だけはそうはいかない。互いの面子を賭けて引くに引けない舌戦が毎回繰り広げられる。
"国境線の杭を勝手に抜いて移動させた!”
"国境パトロール中の警備隊員に罵声を浴びせて挑発した!”
"闇夜に紛れて国境線を突破し、農作物を盗んだ!”
"国境線を突破して逃走した容疑者を引き渡せ!”
境界連絡会議は毎回毎回この手の問題で紛糾する。自分たちに非があったとしても、相手国に対して素直に頭を下げたくないのか、言い訳はったり恫喝のオンパレード。議長だけでなく第三国の代表たちが割って入ったとしても、言い争いは簡単には終わらないのだ。
――だが、今回だけは違った。境界連絡会議の主たる意義である紛争解決はあっという間に終わった。どの国も「特に無し」と宣言したまま、議長に向かって次の議事に移れと無言のプレッシャーをかけ始めたのだ。
もちろん次の議事など無い。つまりは、会議のレジュメなどの項目の最後に良くある「その他」である。オーガ戦争の後、各国各種族の垣根を越えて共通認識を持とうと始まった境界連絡会議は、前代未聞の二日目で終了する予定となってしまったのである。……毎回議長が「その他」で何かあるかと各国代表に問うも、既に懸案事項は解決されており、その他イコール終了と言う既成事実が成立していたのだ。
だが今回の境界連絡会議は、「その他」にこそ本質があった。人間種の伯爵が議決権の無い傍観者……オブザーバーとして参加させた農奴の少年、ラルフレイン・ベイルの存在に対して、議場にいる全ての異種族が焦点をバッチリ合わせていたのだ。
「え〜それでは、紛争等解決すべき問題は無いようなので、最後の項目に移りたいと存じます。それではその他……」
その他について何かありますか?と言う、ドワーフの議長の言葉は途中であっさりと遮られた。ホーデリーフ皇導国、エルフ族の代表である真紅の髪なびかせる褐色のエルフが、凛とした声を張り上げて議長を呼んだのだ。
「議長!その他の議題について、いささか当方からの発言の許可をいただきたい」
「イサベル・アルシェ殿、発言は許可しますが、当会の議事は終了しております故、政治的発言はお控えいただきますよう」
「あはは、それは無いので安心していただきたい。私はちょっと気になった事があって、一つ二つ質問したいだけなのだ」
(来た!) ラルフレインや伯爵も含めて、この場にいる誰もがそう思った。ドワーフの国、魔族の国、獣人の国など、その国その国の代表たち全てがエルフが質問しなかったら自分が手を挙げようと、待ち望んでいたのである。
(エルフ族代表、イサベル・アルシェ。伯爵の話ではダークエルフで初めて女王補佐の執政官に上り詰めた人だとか……)
昨晩、一日目の会議が終わった後、ラルフレインはオーストレム伯爵からレクチャーを受けた。境界連絡会議に出席した各国の状況や相関関係、また代表者たちの人となりなど事細かに教わったのだが、当然のことこのイサベル・アルシェについても細かな言及があった。
(エルフ族の歴史は民族紛争そのもの。その中で他の部族に絶滅寸前まで追い込まれ敗北しても、女王の鶴の一声で同盟を締結して筆頭執政官となったダークエルフ。勇猛と知略の人だったかな)
実のところ、エルフ族は単一民族ではなく、様々な類似種族によって構成されている。エルフの特徴的な長く尖った耳も何種類もあり、更には耳の短い種類のエルフも存在する。長耳、短耳、ノームなどの妖精種、そしてダークエルフなど、その一つ一つが独立氏族を形成して生活して来たのである。つまり氏族が複数あれば必ずいさかいが起きる。総じてエルフ族と表現するが、彼らは古き時代から氏族の生存をかけて骨肉の争いを繰り広げて来たのだ。
この執政官イサベル・アルシェについては、境界連絡会議に参加する各国代表者たちの中でも一番の切れ者であると、伯爵から教えられている。常に攻撃的な視線や言動で他国を威嚇しながらも、その腹の内で柔軟な対応策や解決策を練り続ける恐怖のエルフだとも評していた。
(いずれにしても、質問されても俺は一切口を開かない、余計な事は言わない。伯爵が助けてくれる)
膝に置いた拳を握り締め、背筋を伸ばすラルフレイン。僕が守るから、君は心配しなくて良いよとは言われているが、やはりこの特別な空気は彼を極端に緊張させる。
「オーストレム伯爵、ちょっと良いかな?」
「いかがしました?執政官殿」
「伯爵の後ろに座る少年、昨日から気になっているのだが素性を教えてくれないか?」
テーブルの下、または水面下で火花をバチバチ散らすような、伯爵と執政官の静かな静かな闘いが始まった。




