29) パンドラの箱の底 後編
「しっかしお前、良くこんなところまで忍び込めるよな」
西棟三階のベランダからラルフレインの夜空に染み入るような呆れた声。言われた本人のリィリはどこ吹く風でラルフレインのいるベランダに飛び移り、柵に腰掛けながらマジマジと顔を見詰める。
「……ラルフって変な子。泣きそうだったり急に笑い出したり」
(見てたんかい)と、喉まで言葉が出掛かったが、そのまま飲み込んで沈黙する。見られていたのはあまり人には見せたくない自分の恥ずかしい部分。嘆きや嫉妬に苛まれるネガティブな感情など、とっとと腹の底で処分すべきものが、誰も見ていないのを良い事についつい身体で表現してしまったのだ。もうそれについて深掘りする気も失せていたのである。
だがここで、辺りの沈黙を打ち消すかの様な大きさで、リィリの腹の虫が「ぐううう!」と鳴る。本人はそれを恥じらいもせずに、いきなり話題を変えてラルフレインに要求を突き付けたのだ。
「……ラルフ、お腹空いた。お腹空いたよ」
「何だよ、夕飯食べてないのかよ」
「だって夜会に出れば会えると思ってたのに、ラルフいないんだもん。夜会抜け出してずっと探してたんだよ」
この部屋での軟禁状態は伯爵からの指示であり、進んで自分から隠れた訳ではない。別段謝る必要も無いのだが、思惑は掴めないもののリィリが自分を探してくれていたのも事実。ラルフレインは「そりゃあすまなかった」と謝罪の意を示しつつ一旦室内に戻る。夕飯の残りのパンと、皿いっぱいに盛られたウェルカムフルーツを彼女にあげるためだ。
「ふがっ、ふがっ!美味い、美味いよラルフ!」
「そんなに慌てなくてもいいだろ、ボロボロこぼしてるぞ」
パンや果物を一心不乱の勢いで食べるリィリを見詰めていると、不思議と負の感情が薄れて行く。彼女はエルフ族だから、見た目と年齢の差異がかけ離れているだろうと推察出来るが、必死になって食べ物にかぶりつく姿や、これ以上無いほどに破顔して美味いを連呼する姿を見ていると、前世の生活と今の生活……そして農奴とドワーフの文明の差に嘆く自分が恥ずかしく思えてくる。
「……リィリ、食べながらで良いから、俺の話を聞いてくれ」
彼女になら話せる、いや話したいのだと言う感情にかき立てられ、ラルフレインは全て話した。前世の記憶を持ってこの世界に生まれて来た事から、リスタル村での生活、そして村を盛り上げる事と農奴に課された制約で苦しんでいる事。ドワーフの国に来てその文明差に愕然とした事だけでなく、ドワーフから『祝福されし者』と言われた事まで、一切の嘘や隠しなく彼女に語ったのである。
最初は目を点にしながら難しい顔をしていたリィリも、やがては口元に微笑をたたえながら優しく彼を見詰めるようになる。ラルフレインの言葉に嘘が感じられない事、そして秘匿すべき秘密まで吐露してくれた事がやがて、彼に対する信頼へと変化を始めたのだ。
「祝福されし者だって言うのはね……えへへ、知ってた」
「何だよ、知ってたのかよ」
「だってラルフの回りでは精霊たちがいつも喜んでる。あなたがいる事を喜んでるのよ」
「ドワーフのおっさんも確か……そんな事言ってた」
「あんなヒゲモジャ連中と一緒にしちゃダメ。ドワーフは感じる事は出来ても、エルフみたいに見たり使役する事は出来ないの」
鼻息荒く胸を張り、えっへん!と自慢するリィリ。
「こう見えても精霊世界と一番近いのはエルフ。草木など万物の一つ一つに精霊がいて、精霊と一緒に生活するのがエルフ族。他の種族は大地母神アルフリーダって言うけど、エルフ族は精霊王アルフリーデと呼んでる」
「なるほど、なんか日本人の【八百万の神々】と感覚が似てるな」
「ふえ?やよおろず?」
「いやいやこっちの話だ」
ちんぷんかんぷんな単語の羅列に苦しむリィリだったが、祝福されし者について言及する以上に、ラルフレインに伝えたかった事を思い出す。精霊の話に逸れてしまったが、どうやら本当にリィリが話したかった本題は、こちらの方らしい。
「ラルフ、何かと自分を比べて勝った負けたは良くない、比べると必ず勝者と敗者が生まれるから。自分や回りの人たちが幸せになればと思うなら、比べちゃダメ。勝ったり負けたりはするのは……その内心が痛くなるよ」
抽象的な言葉の羅列だったが、心当たりのあるラルフレインにはその意味が分かった。これは今の自分自身の在り方を心配した、リィリの精一杯の忠告だと理解出来たのだ。
「リィリの言う通りだ、無い物ねだりで不貞腐れたところで心が病むだけなんだよな。そう、比べちゃダメだ、自分なりの努力の結果がみんなの幸せであるべきなんだ」
「そうだそうだ!だからドワーフの技術見てトホホしてるくらいなら、金でも何でも用意して自分のものにしちゃえば良いのよ」
「そうだよな!親ガチャ子ガチャで嘆く暇あったら、ガンガン課金したりレベルアップ重ねたり最強装備手に入れた方が強くなるよな」
「あわわ、ラルフ何言ってるか分かんないよう!」
――えっ?
――えっ?
半分ノリの良さで賑やかな会話を重ねてしまったが、この会話の中に重要なポイントを見つけた気がしたラルフレインは、ピタリと動きを止めてリィリをまじまじと見詰める。対するリィリは、急に動きを止めたラルフレインを不思議に思い、こちらも動きを完全に止めていた。
「自分のものにする……金でも何でも用意して……みんなのために欲しい物を手に入れる……」
「ラルフ、目が怖い」
――伯爵からは、農奴の行動には限界があると聞いた。旅人も行き交う事の無い寒村で、近くに国境のある戦略的拠点としか存在意義の無い村。その村を繁栄させようとしても、自治領政府側には方策が無いなら……他の四カ国と国境を重ねる立地を活かして、貿易による【外貨獲得】は有効な方法ではないのか?
「リィリ!」
「ひゃ!……は、はい」
「リィリありがとう!君が、君が教えてくれたんだ!ありがとう」
「な、何?ラルフなんでご機嫌なの?」
「ご機嫌に決まってるじゃないか、君が未来を教えてくれたんだぞ」
「ぎゃあああ!耳触るな、こそばゆい!」
満天の星空の下、夜会が催されている大ホールからはオーケストラの優雅な旋律が流れ、そして上階からはラルフレインの軽快な笑い声とリィリの戸惑う声が聞こえて来る。
伯爵と言葉を交わし、そして洗練されたドワーフ社会を見て落胆に落胆を重ねたラルフレインであったが、落ちるところまで落ちたところに実は、最後の希望が光り輝いていたのである。彼の言うところの外貨獲得がどれほど有効なのかは今後の推移を見守るとしても、停滞して俯く時間は終わったのだ。
――彼にそれをもたらしたのはエルフ族のリィリ。後に「リスタルの五傑」と讃えられる者にして、『殺戮の凍姫』の異名を持つ者であった。




