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妹が妊娠しました。相手は私の婚約者のようです。

作者: 藍川みいな



「私ね、キール様の子を妊娠したみたいなの」


妹のデイジーは、大きな緑色の瞳を輝かせながら、悪びれもせずにそう言って来た。


デイジーが口にした名は、私の婚約者の名だ。


「デイジー……何を言っているのか、分かっているの? 冗談でも、笑えないわ」


私の名前は、ハンナ・グラッドレイ。十九歳。伯爵令嬢。クーパー伯爵家の嫡男である一つ年上のキール様と婚約して、十年が経った。


「冗談なんかじゃないわ。私はハンナとキール様を応援していたのよ? だけど、キール様に相談されたの……ハンナを愛せないって」


だから、私の婚約者と寝たと言いたいの?

キール様が、私を愛していないことくらいとっくに知っていたわ。それでも私は、キール様を愛していた。


「キール様は、知っているの? あなたに、子が出来たことを……」


デイジー、あなたは勘違いしている。

私はキール様を愛してはいたけれど、信じてはいなかった。このままキール様と結婚してもいいのか、ずっと悩んで来た。



キール様に、初めてお会いしたのは十一年前。父に連れられて行った、クーパー伯爵家の邸の中庭だった。


「君は、誰? 迷子になったの?」


クーパー伯爵家で迷子になり、泣きそうになっていた私に声をかけてきたキール様。金色の髪に、薄茶色の瞳の彼は、優しく微笑んでくれた。


「私は、ハンナ。お父様と一緒に来たのだけれど、迷子になってしまったの」


それが、キール様との出会いだった。


私は物心ついた時から、一つ歳下のデイジーと比べられて来た。明るくて、何でもそつなくこなすデイジー。人見知りで、何をやってもダメな落ちこぼれの私。父も母もデイジーばかり可愛がり、いつも『お前は必要ない』と言われて来た。そんな私に、キール様は優しくしてくださった。彼に出会い、初めて人の温かさを知った。


キール様は、とても優しい人……そう、誰にでも優しかった。私との婚約も、私が可哀想だからという理由だったのだろう。それに気付いたのは、そんなに後のことではない。

彼はデイジー以外の女性とも、体の関係を持っている。


「これから話すわ。私に子が出来たのだから、キール様との結婚は諦めてちょうだい」


私一人では、どんなに考えても決断出来なかった。デイジーの()()()で、私は自由になれそうだ。



その日の夕食の時間、食事をしながらデイジーは妊娠したことを両親に告げた。


「それは、どういうことだ!?」


親として、怒るのは普通の反応だと思う。仮にも伯爵令嬢が、婚姻もしていない男性の子を身篭ったのだから。しかも、相手は姉の婚約者。デイジーにも、婚約を約束している相手がいるというのに……


「お父様、お母様、私はキール様と結婚するわ! 認めてくれるわよね?」


「……子が出来てしまったものは、仕方がない。結婚式は、早めに挙げるぞ」


「デイジーが結婚だなんて! しかも、孫が出来るのね! お祝いしなくちゃ!」


この家族は、頭がおかしい……

妹が姉の婚約者と関係を持ち、妊娠しただなんてことをすぐに受け入れた。しかも、彼はまだ私の婚約者なのに、両親は妹を叱りもしない。

家族にとって私は、必要ないどころか最初から存在さえしていないのだと思い知らされた。


翌日、両親はキール様を夕食に招待した。

キール様は、まだ何も知らなかったこともあり、私の婚約者として邸を訪れていた。


「キール様、お話があるの。私、キール様の子を身ごもりました!」


デイジーはキール様の方を向き、照れながらも笑顔で妊娠の話を告げた。


「…………」


予想していなかった告白に、彼は青ざめたまま固まってしまった。いくら優しくても、さすがに受け入れるのには時間がかかるようだ。


「…………」


長すぎる沈黙。キール様はデイジーが妊娠を伝えてから、一言も言葉を発していない。言葉どころか、スープが冷めてしまうくらいの時間、身動きひとつしていない。


「キール様? 大丈夫ですか?」


デイジーは沈黙に耐えられなくなり、キール様の顔を覗き込んだ。


「あ、ああ……」


返ってきた言葉は、それだけだった。婚約もしていない複数の女性と身体の関係を持ち続けていたのに、いつかはこんなことになるかもしれないという覚悟は出来ていなかったのだろうか。責任を取りたくないという彼の態度に、幻滅する気持ちが抑えきれない。私は彼の、上辺だけの優しさに惹かれていたようだ。

煮え切らない彼に、イライラして来た。


「キール様、デイジーは妊娠しました。もちろん、キール様との子です。潔く、デイジーと結婚してください」


「ハンナ!? 僕は、君の婚約者だぞ!?」


私に助けを求めるのは、やめて欲しい。自業自得。婚約者である私を裏切ったのはキール様なのに、縋るような目で私を見ている。


「キール様、お姉様のことは気にすることはありません! シュバルツ伯爵家のアーロン様との縁談が、まとまりそうなのです!」


アーロン様は、デイジーと婚約するはずだった。これではまるで、お互いの婚約者を入れ替えたみたいになっている。アーロン様のことはあまり知らないけれど、妊娠を聞いて真っ青になるキール様よりは素敵な方だろう。そんな方よりも、キール様を選んだデイジーに同情する。


「これで、丸くおさまったということだな! デイジーとキール君の婚約を祝おうではないか!」


非常識な父親に、言葉が出て来ない。

婚約する相手をかえてほしいなどと、シュバルツ伯爵家の方々が受け入れてくれるとは思えない。


「二人とも、幸せそう! 結婚式は、早めに挙げなければ、お腹が目立ってしまうわ! 明日から、忙しくなるわね!」


「私、ドレスはもう決めているの!」


どう見ても、幸せそうには見えないキール様を置き去りにして、結婚式の話で盛り上がる三人。キール様は、青ざめたままずっと下を向いていた。


食事が終わると、デイジーや両親が引きとめる手を振り払い、キール様は一目散に逃げ帰って行った。そんなに嫌なら、なぜデイジーに手を出したのか……


「ハンナ! キール様に、何か言ったでしょ!?」


キール様が逃げるように帰って行ったからか、デイジーは苛立ちを私に向けて来た。


「たとえ私が何か言ったとしても、あなたに非難される覚えはないわ」


婚約者を奪ったのはデイジーだ。自分がしたことを棚に上げて、平然と文句を言える神経が分からない。


「ハンナのくせに生意気よ! キール様は、私の婚約者よ! ハンナに魅力がないから、私を抱いたのよ! 自分が悪いんじゃない!!」


確かに、私に魅力がないからキール様は他の女性と関係を持っていたのかもしれない。だとしても、姉の婚約者と関係を持つような人間にそんなことを言われたくはない。


「そんなにキール様が好きだったの?」


答えは分かっている。デイジーは、キール様を好きなわけじゃない。私の婚約者を、奪いたかっただけだ。それでも、デイジーの口から聞いておきたかった。


「何を言っているの!? ありえないわ! 私が好きなわけではなく、キール様が私を好きなのよ。ハンナは、キール様を愛しているのよね? 可哀想」


可哀想だなんて、全く思っていないと顔に書いてある。

これから先、何があってもあなたに同情なんてしない。


「そうね、愛していたわ」


「そうよね! だけどもう、私のものよ!」


嬉しそうに部屋に戻って行くデイジー。まるで、子供みたい。欲しいオモチャを、手に入れられて良かったわね。



翌日、アーロン様に事情を説明する為に、シュバルツ伯爵邸を一人で訪れた。両親は責められるのが嫌だったのだろう……昨日まで元気だったのに、急に二人とも体調を崩したと言い出したのだ。


「それで? 君が妹の代わりに、アーロンと婚約をするということか?」


応接室に通された私は、シュバルツ伯爵夫妻とアーロン様に事情を話した。

シュバルツ伯爵は怒りを抑えながらも、鋭い目で私を睨んでいる。息が詰まりそうなほどの張り詰めた空気を、必死に耐える。悪いのは、100パーセントこちらなのだから……


「申し訳ありません。そうしていただければ、幸いです」


あまりに勝手な話なのは、分かっている。婚約の話を進めながらも、デイジーは他の男性と関係を持っていた。しかも、選んだのは他の男性の方。それだけではなく、婚約者が居た姉と婚約をして欲しいなどと都合のいいことを言っている。こんな非常識な家との縁談など、破談にしたいと思うのは当然だ。


「ハンナ嬢は、それでよろしいのですか?」


アーロン様は、大きな青い瞳で私の目をまっすぐに見つめてそう聞いた。

私の気持ちなんて、聞かれると思っていなかった。


「アーロン様さえ、よろしければ」


素直にそう思えた。

アーロン様のことは、どんな方なのか全く知らなかった。デイジーからは、『つまらない人』としか聞いたことがない。だけど私には、彼がつまらない人だとは思えなかった。


「そうですか。それならば、これからは婚約者としてお願いします」


目を細めて、優しい笑顔を見せてくれた。


「アーロンが決めたのなら、私達は何も言うつもりはない。だが、次はないと思って欲しい」


「肝に銘じます」


迷惑をかけたというのに、責められることはなかった。アーロン様が、こんな私を受け入れてくれたからだろう。妹に婚約者を寝盗られた私を、彼は笑顔で受け入れてくれた。子供が出来て慌てていたキール様とは、大違いだ。


シュバルツ伯爵邸での話し合いを終えて邸に戻ると、キール様が邸の前で待っていて、私の乗った馬車の前に飛び出して来た。

馬車はキール様の目の前で止まり、キール様が立ちはだかっていて邸に入ることが出来ない。


「ハンナ! 話があるんだ!」


キール様は馬車の前に立ちはだかったまま、人目も気にせずに大声で叫んだ。私には、話すことなどない。だが、馬車から降りなければ、彼は退いてくれそうにない。

困り果てていると、後ろから馬車がやって来て止まった。降りて来たのは、アーロン様だった。


アーロン様は、私が乗っている馬車のドアを開け、手を差し出した。


「やはりお送りするべきだと思い、追いかけて来て正解でした」


優しく微笑んでくれている彼の手を掴むと、ギュッと手を握り馬車から降ろしてくれた。握った手を離そうとはせず、邸へ向かってそのまま歩き出すアーロン様。


「アーロン! 俺の婚約者から離れろ!!」


手を繋いでいることが気に食わないのか、アーロン様がここにいることが許せないのか、キール様はまるで野犬のように歯をむき出しにして怒っている。


「お前は、デイジー嬢の婚約者のはずだが? ハンナ嬢は、僕の婚約者だ。それとも、まだ婚約前だったとはいえ、シュバルツ伯爵家との縁談が進んでいたデイジーと関係を持っていたことを世間に広めたいのか?」


激怒しているキール様に、冷静に言葉を返すアーロン様。


「ハンナがいないなら、もうどうだっていいんだ! 俺はハンナを愛している!」


目にいっぱい涙をためながらの愛の告白。彼が私を愛しているとは、思っていなかった。

だけどもう、私の心が動くことはないようだ。

彼は、私との約束を守ってくれたことなど一度もない。私よりも、常に他の女性を優先して来た。

そして、デイジーの妊娠。それを聞いた時の彼の反応。責任感のない態度。


彼への想いが消え去るには、十分だった。


「デイジーと関係を持つ前に、私達がどうなるのか考えなかったのですか? 口先だけの愛などいりません。十年も婚約者だったのに、あなたはいつだって、私ではない誰かと一緒にいた。ほんの少しでも、私のことを考えてくださるなら、もうこのようなことはおやめください。私達は、終わったのです」


ずっと、言いたくて言えなかった。やっと自由になれた気がした。




私の本音に、彼はショックを受けていた。

彼が他の女性と過ごすのは、私を愛していないからだと思っていたから、彼からの愛の告白は意外だった。さらに意外だったのは、その告白をされても彼への気持ちが戻らなかったことだ。

彼と過ごす時間があまりなかったせいか、勝手に美化していたのかもしれない。初めて会ったあの日の彼に、恋し続けていた。


「分かったなら、帰れ」


ショックを受けたまま立ち尽くすキール様を置き去りにして、アーロン様に手を引かれながら邸へと入って行く。

どうしてアーロン様は、こんな私に優しくしてくれるのだろうか。酷い目に合わされたのは、アーロン様も同じ……もしかしたら、同じ立場の私に同情してくれているのだろうか。


「ありがとうございました」


玄関まで送ってもらったところで、彼の手を離しお礼を言う。


「着いてしまいましたか。もう少し、一緒に居たかったのですが残念です」


その言葉に、私は首を傾げた。


「デイジーを、好きだったわけではないのですか?」


デイジーからは、『アーロン様から、愛され過ぎて困る』と聞いていた。デイジーの言うことだから、私に自慢したかっただけかもしれない。それでも、婚約者に裏切られたばかりだというのに、彼からは悲しみや怒りを全く感じない。


「実は、父が誤解していたのです。僕が好きなのは、デイジー嬢だと。ですが、僕が好きな人は別の人だった」


好きな人は別の人だと言いながら、私の目をまっすぐ見つめてくる。こんなにまっすぐ見つめられたら、勘違いしてしまいそうになってしまう。


「好きな人が居るのに、どうして私と婚約したのですか?」


別にいるのなら、デイジーがしたことで婚約の話はなかったことに出来たはず。


「意外と鈍いですね。君が好きだからに、決まっているではないですか」


ゆっくり、目を逸らさずに、彼の顔が近付いてくる。今にも唇が触れてしまいそうになり、慌てて彼の身体を押し戻す。


「……からかうのはおやめください」


アーロン様の考えていることが分からない。

急に好きだなんて言われて、信じられるわけがない。


「少し焦り過ぎましたね。今日は帰ります。ゆっくり休んで」


爽やかな笑顔を残して、彼はそのまま帰って行った。彼の姿が見えなくなるまで、私はその場から動くことが出来なかった。


気持ちを落ち着けてから、玄関を開けて中に入る。部屋に戻っても、考えるのはアーロン様のことばかりだった。

キール様は、私の目を見ることさえなかったから、男性にあんなに近付いたのは、初めてだった。十年間キール様のことしか見ていなかった私には、男性への免疫が皆無だ。思い出しただけで、恥ずかしくて顔が火を噴きそうなくらい熱くなる。

アーロン様のことは、ほとんど何も知らない。ちゃんと話したのも、今日が初めてだ。そんな相手に、私の心は乱されまくっている。



翌朝、朝食の時間に食堂に行くと、父と母が私のことをじっと見て来た。


……婚約のことを、報告するのを忘れていた。


父も母も、私の婚約の心配をしているわけではない。シュバルツ伯爵家との関係を心配している。

デイジーの妊娠のことがあってから、両親には何も期待していない。私が嫌いでも、いらない子でも気にしないことにした。


「シュバルツ伯爵は、アーロン様と私の婚約を受け入れてくださいました」


そう話した瞬間、二人は笑顔になり、朝食を食べ始めた。それだけ聞けば、十分のようだ。


「それ、どういうこと? 私の代わりに、ハンナなんかを受け入れたの!?」


どれだけわがままなのだろうか。


「いいじゃないか。これで何の問題もなく、お前とキールの結婚式を挙げることが出来るな!」


何の問題もなく……とは、いかないかもしれない。キール様は、デイジーと結婚することを望んでいない。昨日のことで、覚悟を決めてくれたらいいけれど……


朝食を終えて部屋に戻ると、デイジーが追いかけて来て無理やり部屋に入って来た。


「分かっていると思うけど、アーロン様が愛しているのは私よ。私を愛している男性と婚約した気分はどう?」


デイジーは、私のものを欲しがる。だから、キール様を私から奪った。自分が手放したアーロン様まで、私と婚約したから惜しくなったのかもしれない。


「そんな話をする為に、わざわざ追いかけて来たの? これからアーロン様がいらっしゃるから、支度したいの。出て行ってくれる?」


デイジーは、私に何を望んでいるのか分からない。何を望んでいたとしても、それに応えるつもりなどない。


「そう……今から、アーロン様がいらっしゃるのね。せいぜい嫌われないように、頑張りなさい」


あからさまに悪巧みを思い付いた顔をしながら、デイジーはドアも閉めずに部屋から出て行った。

母親になるというのに、あんな調子で大丈夫なのだろうか。私のものを欲しがるより、自分の幸せを考えればいいのに……。


支度を終えたところで、執事がアーロン様を庭園に案内したと言いに来た。待ち合わせの時間よりも少し早い到着に、慌てて庭園へと走り出す。


彼の後ろ姿を見つけ、息を整えてから声をかける。


「お待たせしてしまい、申し訳ありません」


「あら、大丈夫よ。お姉様は時間にルーズだから、私がお相手していたの」


振り返った彼の後ろには、デイジーが立っていた。


「デイジー……」


婚約するはずのアーロン様を裏切り、他の人と関係を持ち、子供まで作ったというのに、反省の色も見せずに笑顔で彼に接している。私の方が、彼に罪悪感を抱いているみたいだ。


「お姉様は何をやってもダメだから、アーロン様も苦労すると思いますけど、許してくださいね?」


自分がしたことの謝罪をしていないデイジーが、なぜそんなことを言えるのか……

自分は特別で、何をしても許されると思っている。あんなことをしておきながら、アーロン様の腕や肩をベタベタと触っている。


「いい加減、汚い手でベタベタ触るのはやめてくれ」


彼がデイジーの手を払い除けた。

昨日とは別人のような彼に驚く。


「アーロン様……? どうされたのですか?」


デイジーも驚いているようだ。自分を愛していると思っていたアーロン様に、拒絶されるとは思っていなかったようだ。


「何をやってもダメなのは、お前の方だ。だから、姉のものばかり欲しがるのだろう? これ以上、ハンナを傷付けるようなことをしたら、僕が許さない」


デイジーに向けた視線があまりにも冷たくて、背筋が凍りそうになる。


「アーロン様は、私を愛しているのですよね? 私が他の男性を選んだから、怒っているのですか?」


冷たい視線に怯えながらも、そう問いかけるデイジー。そんなことを言える神経が分からない。どれだけ自分に自信があるのだろうか。


「お前を愛したことなど、一度もない。僕はハンナのことを、愛しているんだ。お前には、感謝している。あの最低最悪の女好きキールを、ハンナから遠ざけてくれたのだから」


蔑むように冷めきった目で見ながら、デイジーに向かって放たれた言葉を聞いて、昨日の彼の言葉が真実だったのだと理解した。理解はしたけど、目の前にいる人が、昨日の優しいアーロン様だとはとても思えない。彼の印象が変わり過ぎて、二人の会話に入っていくことも出来ずに、私はただ見ていることしか出来なかった。


「どういうつもりですか!? 私をバカにしてっ……ただですむと思わないで!!」


怯えていたデイジーが、今度は顔を真っ赤にして激怒し、捨て台詞をはいて逃げるようにその場から去って行った。


「婚約、解消したくなりました?」


彼は振り返らずに、そう聞いて来た。

確かに、先程のアーロン様はお世辞にも素敵だったとは言えない。


だけど私は……


「いいえ、婚約を解消するつもりはありません」


私の返事を聞いて振り返った彼は、泣きそうな顔をしていた。


「嫌われてしまったかと……」


私に嫌われるのが怖くて、そんな顔をしているの? そんな人を、嫌いになったりしない。

確かにデイジーと話していた彼は、昨日とはまるで別人だったけれど、私に見せる顔は穏やかで優しい。


「嫌いになったりしません。婚約者を妹に奪われるようなダメな私を、アーロン様は快く受け入れてくださいました。何があっても、私はアーロン様の婚約者です」


婚約をしたのが、アーロン様で良かったと思えた。彼は決して、デイジーに誘惑されたりはしない。


「僕はハンナに出会えて、ハンナと婚約することが出来て幸せです!」


先程までの冷たい表情がまるで嘘のように、屈託のない笑顔でそう言われ、胸の鼓動が大きく脈打った。それを誤魔化すように、彼から目を逸らす。


「か、買い物に行くのですよね! 遅くなってしまうので、行きましょう!」


出会ったばかりの彼に、私の心は乱れまくっている。だけど、嫌な気持ちではない。


街に買い物に出かけた私達は、歩いて街を見て回ることにした。


「こんな風に街を歩くなんて、子供の頃以来です」


歩きながらお店を見て回るなんて、なんだかワクワクする。人気のカフェでお茶をしながら、アーロン様の話を聞いたり、私の話をしたり……人見知りのはずの私が、彼とは普通に話せていた。


「喜んでいただけて、良かったです。やっぱり、ハンナは可愛いですね」


「え……!? 可愛くなんて……」


一気に顔が熱くなる。可愛いなんて言われたのは、生まれて初めてだった。キール様には、そんなことを言われたことはない。もっというと、キール様とは一緒に出かけたりすることは一度もなかった。婚約した頃は、何度か邸でお茶をしたけれど、最近はほとんど会うこともなくなっていた。


「顔が赤いですね……熱でもあるのですか?」


向かいの席から手を伸ばしてオデコに触れられ、さらに顔が熱くなる。


「な、な、な、ないです! 熱なんてありません!! そろそろ行きましょう!!」


触れられた手から逃れようと、慌ててイスから立ち上がる。彼は心配してくれているのに、感じの悪い態度をとってしまった。


「行きたい店があるのですが、付き合っていただけますか?」


気を悪くしたのではと思ったけれど、全く気にしていないようだ。歳は彼がひとつ上なだけであまり変わらないけど、すごく大人なのではないかと思えた。


「行きたかったお店って、ここですか?」


彼が行きたかったお店とは、アクセサリー店だった。


「さあ、入りましょう」


さり気なく手を繋がれて、そのまま中に入る。

アクセサリー店は苦手だ。私も女の子だから、可愛いものや綺麗なものを見ると素敵だと思うし欲しいとも思ってしまう。何かを欲しいと思うことから、ずっと逃げて来た。全てを、デイジーが奪って行くからだ。


「これをお願いします」


居心地悪くてソワソワしているうちに、アーロン様は何かを買っていた。


「もうお決めになったのですか?」


彼が買ったのは、綺麗な宝石が散りばめられた可愛らしいブレスレット。


「最初から、これを買うと決めていたのです。このブレスレットは、絶対ハンナに似合うと思っていたので」


店員さんからブレスレットを受け取ると、私の腕につけてくれた。


「あの……」


戸惑っていると、彼は満足そうに頷いて、


「やっぱり、とても良く似合っています!」


そう言って、満面の笑顔になった。

初めての贈り物は、すごく嬉しい。嬉しいけれど、受け取ってもいいのか悩む。


「こんなに素敵なものを、私がいただいてもよろしいのでしょうか……」


アーロン様には、迷惑ばかりかけている。デイジーのこともそうだし、キール様が邸の前で待っていた時も助けていただいた。


「僕はハンナの婚約者です。婚約者に贈り物をしてはいけませんか?」


婚約者……キール様からは、贈り物をいただいたことは一度もない。こんな風に扱われることに、戸惑ってしまう……けれど、素直に嬉しい。


「……すごく、嬉しいです。ありがとうございます」


このブレスレットだけは、デイジーに奪われたくない。必ず守ると、心に決めた。


「実は、お願いがあるのですが……」


少し照れくさそうに頭をかきながら、彼はそう言った。


「お願いですか?」


「三日後に王城で開かれる夜会に、婚約者として共に出席して欲しいのです」


三日後の夜会は、パートナー同伴だとデイジーが話していた。

両親とデイジーは社交の場によく出席しているけど、私は苦手だった。キール様に誘われたこともなかったからか、自然と出席しなくなっていた。そんな私を、婚約者として夜会に誘っていただけるなんて、思ってもみなかった。


「私で、いいのですか?」


正直、私と一緒でいいのか不安になる。

私がキール様と婚約していたことは、ほとんどの貴族が知っている。そんな私と一緒に居れば、彼も変な目で見られてしまうかもしれない。


「そんな不安そうな顔をしないでください。あなたは何も悪いことなどしていないのだから、堂々としていればいいのです」


何も悪いことなどしていない……

そんなことを言ってもらえるとは、思っていなかった。物心ついた時から、デイジーがしたことは全部私のせいにされて来た。

アーロン様の言葉で、心が救われた気がした。


「ありがとうございます。私で良かったら、ご一緒します」


彼の言う通り、堂々としていようと決めた。三日後の夜会には、キール様もデイジーに無理やり出席させられるだろう。会いたくなかったけれど、デイジーと結婚するのだからこの先会わないというわけにもいかない。

アーロン様が言うように、夜会に堂々と出席しようと思う。



あっという間に、夜会の日が訪れた。

支度をしていると、乱暴にドアが開き、デイジーが入って来た。


「何をしているの? まさか、夜会に行くつもりじゃないわよね?」


夜会に行くことは、両親にもデイジーにも話していなかった。使用人に聞いたようだ。


「ええ、行くわ」


私がアーロン様のパートナーなのが、納得いかないのだろう。


「やめてくれない? アーロン様と一緒に来たら、まるで私の婚約者をハンナが奪ったみたいに見えるじゃない」


どこまでもプライドだけは高いようだ。私からキール様を奪ったのだと周りに見せつけたいのに、私とアーロン様が出席したら迷惑なのだろう。


「それを聞かなければならない理由はないわ。悪いけど、出て行って」


「そう、そっちがその気なら……。やりなさい!」


デイジーが侍女に何かをするように命令した。


「ですがお嬢様、このようなことは……」


侍女はその命令を聞きたくないのか、懇願するような目でデイジーを見ている。


「使えないわね! いいわ、私がやる!」


侍女が隠し持っていたハサミを奪い、夜会に着ていく予定のドレスに手をかけた……


「やめて!!」


何をしようとしているのか、気付いて止めようとした時には遅かった。ドレスはハサミでビリビリに切り裂かれ、床に散らばった。


「言うことを聞かないから悪いのよ。私は支度があるから行くわ」


何事もなかったように部屋から出て行くデイジー。私には、このドレスしかなかった。私が持っていたドレスは、全部デイジーが持って行ってしまったからだ。このドレスだけは、色が気に入らないからと残されていた。


着ていくドレスを失い、呆然としながら床に散らばったドレスの切れ端を集めていると、部屋のドアがノックされた。

入って来たのは、執事のパイソン。パイソンは、大きな箱をテーブルの上に置いた。


「こちらは、アーロン・シュバルツ様からの贈り物です。デイジー様には気付かれぬよう、お渡しするようにとお預かりしておりました」


「アーロン様から?」


箱を開けてみると、綺麗な空色の可愛らしいドレスが入っていた。ドレスに合わせたネックレスと指輪、そして靴まで用意されていた。


「アーロン様は、素晴らしい方ですね。こんなにも、お嬢様のことを考えてくださっている」


彼はデイジーが何かをすることを分かっていたのかもしれない。だから、一緒に出かけた日にではなく、当日に渡すように執事に頼んでいた。


「本当ね。私にはもったいないくらいに素敵な方だわ」


「お嬢様、ご自分を下げるようなことを仰るのはおやめ下さい。お嬢様は、とても素敵な方です。私ども使用人のことまで、考えてくださる優しい方です」


パイソンの本音を、初めて聞いた。

そんなふうに思ってくれていたことに、嬉しくなった。


「ありがとう、パイソン」


「デイジー様は出発されました。アーロン様がお待ちです。お急ぎください」


アーロン様が用意してくれたドレスを着て、アクセサリーを身につけた後、先日いただいたブレスレットをつけると、全身がアーロン様に包まれているような感覚になった。


「お待たせしてしまい、申し訳ありません」


かなり待たせてしまったというのに、彼は優しい笑顔で迎えてくれた。


「すごくすごく綺麗です!! 普段も綺麗ですが、ドレスアップしたハンナも素敵ですね」


全力で褒めてくれる彼に、恥ずかしくなり頬が熱くなる。また違った彼を見られた気がする。


「ありがとうございます。ドレスやアクセサリーまで用意していただき、感謝いたします」


「僕がお誘いしたのですから、用意するのは当然です。さあ、行きましょう」


差し出された手を素直に取り、馬車に乗り込んで、夜会の開かれる王城へと出発した。



王城に到着すると、たくさんの貴族達が煌びやかな衣装に身を包み、談笑したりダンスをしたりしていた。


「このような集まりに参加するのは久しぶりで、何だか違う世界に足を踏み入れたような感じです」


少しだけ気後れしている私の手を、彼はギュッと握った。


「これからは、僕がそばに居ます。どんな時でも、離れたりしません」


彼の笑顔は、どこまでも優しい。彼がそばに居てくれたら、何でも出来そうな気さえしてくる。


「不思議です。まだ知り合ったばかりなのに、アーロン様が居てくれると安心します」


そんな言葉を、自然に言えたことにも驚いた。自分自身が、変わって来ていることを実感していた。


「あの方、グラッドレイ伯爵の……」

「姉妹で婚約者を取り合ったと噂の?」

「確か、ハンナ様の婚約者はクーパー伯爵家のキール様だったのでは?」


会場に足を踏み入れた瞬間から、噂の的になっている。前の私なら、ここに居たくないと思っていただろう。だけど今は、全く気にならない。


「その噂、少し訂正がありますね。ハンナは僕の婚約者です。誰にも渡すつもりはありません」


アーロン様は、堂々と噂話をしている貴族達の前で私を婚約者だと宣言した。噂の的にされることは気にならなかったけれど、彼が私を婚約者だとはっきり言ってくれたのは嬉しかった。


「どうして居るのよ!?」


アーロン様と楽しく過ごしていると、デイジーが私に気付いて驚いた様子でそう言った。

唯一のドレスをビリビリに切り裂いたのだから、私が居るとは思っていなかったのだろう。

デイジーの隣には、キール様が立っている。


「ハンナ……」


何か言いたそうに、私の名前を呼ぶキール様。

キール様の様子に、デイジーはさらに苛立つ。


「出席すると言ったはずよ。このドレス、素敵でしょう? アーロン様が用意してくださっていたの」


挑発する気はなかったけれど、ドレスを破られたことが許せなかった。


「ドレスに着られてるみたい。全然似合っていないわ!」


「全然似合っていないのは、デイジー嬢の方だ。そのドレス、ハンナの方が似合う。ハンナから奪ったのか?」


アーロン様は鋭い目つきで、デイジーを睨みつける。

彼の言う通り、デイジーが着ているドレスは私のドレスだった。父が買ってくれたものではなく、叔父が買ってくれたものだ。


「デイジー? そのドレス、ハンナのものなのか!?」


今更、キール様は気付いたようだ。

今まで私は、アクセサリーも身に着けたことがない。全部デイジーが持って行ってしまうからだ。デイジーはいつだって着飾っているのに、私はいつも地味だった。そうしたいからではなく、何も持っていないから。十年もの間、キール様は何も気付くことはなかった。それだけ私に、興味を示してはいなかったということだ。


「十年も婚約していたというのに、お前はハンナの何を見ていたんだ? もう二度と、ハンナを愛しているだなどと言うな」


アーロン様は、私の気持ちを理解してくれる。何も言わなくても、分かってくれる。今まで我慢していたことを、我慢しなくてもいいと言ってくれる。彼に出会えて、私はやっと本当の自分になれた気がした。


「アーロン様、お言葉が過ぎます。キール様はハンナのことなんて愛していません! 彼は私の婚約者です! 気分が悪いわ! 行きましょう、キール様」


キール様が私を愛しているかのように言われ、デイジーの苛立ちは頂点に達したようだ。キール様の手を掴み、私を見つめていた彼を無理やり連れて行った。

デイジーだけが、キール様の気持ちを知らない。デイジーがキール様を本当に愛していたなら、少しは同情したかもしれないけど、私の婚約者を奪う為にキール様と関係を持ち、子供まで作ったデイジーに同情はしない。


夜会の間中、デイジーはずっと私を睨んでいた。

それでも、アーロン様と一緒に過ごした時間は楽しかった。



デイジーとキール様の結婚式は、妊娠していると両親に告げた日から三週間後に行われた。急な結婚式になり、出席者は少なく、地味な式。自分の幸せを自慢したかったデイジーは、終始不機嫌だった。


結婚式も終わり、デイジーはクーパー伯爵邸の敷地内にある離れで暮らすことになった。お父様に、別邸を用意して欲しいと必死で頼んでいたけれど、グラッドレイ伯爵家にそんなお金はない。

元婚約者だった私は、クーパー伯爵のことも夫人のこともよく知っている。伯爵はお優しい方だけど、夫人はとても厳しい方だ。この邸でわがまま放題で暮らして来たデイジーには、これからの生活は大変だろう。


デイジーが邸から出て行き、両親は前にも増して私に冷たくなった。愛する娘が邸から居なくなり、顔を合わせる度に『なぜお前が残っている?』という顔で私を見る。両親の愛情を求めることも、期待することもやめた私は、傷付くこともなかった。


アーロン様は、毎日のように時間を作って会いに来てくれた。


「お会い出来るのは嬉しいのですが、あまり無理はしないでください」


会えるのは嬉しいけれど、彼の身体が心配だった。


「僕にとってハンナとの時間は、癒しの時間なんです。無理はしていないので、そのようなことを言わないでください」


私の言葉に、悲しげな表情を見せるアーロン様。


「アーロン様が、心配なのです」


「……それなら、一緒に住んでしまえばいいと思いませんか? 婚約したばかりなので、ハンナの気持ちが落ち着くまでは待とうと思っていたのですが、一緒にいればいるほど欲張りになってしまう。

ハンナ、僕と結婚してください!」


まっすぐ見つめて来る彼の青い瞳から、目が逸らせない。

差し出された彼の手をしっかりと握り……


「はい!」


力強く返事をした。


私達の結婚式は、三ヶ月後に行われることになった。式の準備で忙しくなり、三ヶ月はあっという間に過ぎて行った。


そして、結婚式の日が訪れた。


「デイジーの結婚式とは大違いだな。なぜお前がこんな立派な結婚式を……」

「デイジーが可哀想。妹を気遣う気持ちはないの? ハンナにこんなにお金を使うなんて、もったいないわ」


両親は、デイジーの時とは違う盛大な結婚式に文句を言っている。お金は全て、シュバルツ伯爵が出してくれた。自分達は全くお金を出していないのに、口を開けば嫌味ばかり。

そもそも、デイジーの結婚式が地味になったのは、私の婚約者と関係を持ち、妊娠までしたからだ。自業自得でしかない。結婚前に妊娠していることを世間に知られたくないからと、準備期間もほとんどなかった。

これは、私の結婚式ではあるけれど、シュバルツ伯爵家の結婚式でもある。デイジーに配慮しろだなんて、シュバルツ伯爵に失礼だ。


「お嬢様、デイジー様がいらっしゃいました」


結婚してから、何の音沙汰もなかったデイジーが、結婚式には出席して来た。

控え室に姿を現したデイジーは、別人のように変わり果てていた。




三ヶ月と少し前に、時は遡る。

デイジーは結婚式を終え、クーパー伯爵邸に到着した。


「ここが、今日から私達が住む離れですか? 思っていたよりも、小さくて狭いのですね。まるで、使用人が使う家みたい……」


本邸からだいぶ離れた敷地内に、ひっそりと建つ離れ。新しくもなければ、広くもない。


「お前は文句ばかりだな。ハンナなら、そのようなことは言わない」


「なぜ、ハンナの話をするのですか!? 私を愛しているから、キール様は私を抱いたのでしょう!? 早く中を案内してください!」


キールはなぜか、玄関で立ち止まったまま中に入ろうとはしない。


「お前を愛したことなど一度もない! 何を勘違いしているのかは知らないが、子が出来たから仕方なくお前と結婚しただけだ!!」


そう言うと、中には入らずにそのまま去って行く。


「キール様!? どちらに行かれるのですか!? 愛していないとは、どういうことなの!!?」


去って行くキールを追いかけようとすると、


「お待ちなさい。どこへ行くの?」


入れかわるように、クーパー伯爵夫人が離れの邸に入って来た。


「お、お義母様……!? どうしてこちらに!?」


夫人はデイジーを上から下まで見ると、大きなため息をついた。


「お前のような女は、このクーパー伯爵家に相応しくない。お腹の子は、本当にキールの子なのかも怪しいわ。仕方なく結婚はさせたが、お前の好きにさせたりはしない。この離れから出てはならない。分かったか?」


蔑むような目でデイジーを見ている夫人の後ろには、男性二人と女性一人の使用人が立っている。夫人が右手を上げて合図をすると、後ろに控えていた女性が前に出て挨拶をした。


「今日からデイジー様の身の回りのお世話をさせていただく、カイアと申します」


「後ろの二人は、お前を見張る。お前が守らなければならないことは三つ。一つ、ここから出てはならない。二つ、男の子を産まなければ離縁しなければならない。三つ、キールのことは好きにさせること。質問は受け付けないわ。お前の顔は見たくないから、私を煩わせないでちょうだい」


「そんなこと、了承出来ません! お父様が黙っていないわ!」


デイジーが大人しく言うことを聞くはずがなかった。


「グラッドレイ伯爵も了承済みよ。お前、分かっていないのね。結婚前の令嬢が男性と関係を持って妊娠したのだから、他の貴族との結婚など出来ない。お前はここで暮らすか、平民になるかの道しか残されていないのよ」


グラッドレイ伯爵夫妻は、クーパー伯爵との話し合いで、この条件を受け入れていた。受け入れなければ、結婚はしないと言われていたからだ。夫人の言う通り、クーパー伯爵家に嫁がなければ、デイジーはこの先、貴族との結婚は見込めない。どんな扱いをされても、デイジーを嫁がせなければならなかった。デイジーが結婚した後、ハンナに余計に冷たくなったのは、辛い思いをしているデイジーのことが心配だったからだ。


「そんなことないわ! 私は、みんなに愛されているの! 結婚相手くらい、いくらでもいるわ!」


みんなに愛されていると思っているのは、デイジーだけだ。アーロンも、キールも、誰一人デイジーを愛していなかった。唯一愛してくれている両親も、デイジーを助けてはくれない。


「もう行くわ。あなた達、あとはお願いね」


「かしこまりました」


あまりにも状況を理解出来ていないデイジーと話すのは、時間の無駄だと考えた夫人は、使用人達にあとを任せて本邸へと戻って行った。


「こんなところ、出て行ってやるわ!」


玄関から出て行こうとするデイジーの腕を、使用人が乱暴に掴む。


「痛っ! 離しなさいよ! こんなことをして、ただですむと思っているの!?」


使用人を鋭い目付きで睨めつけながら、掴まれている腕をブンブンと振る。どんなに暴れても、使用人は離そうとはしない。


「デイジー様、大人しくしていただかないと困ります。乱暴なマネはしたくないのですが、ここから出ようとするなら容赦はするなと命じられております」


デイジーは、すぐに抵抗をやめた。

ここから逃げ出したとしても、グラッドレイ伯爵がこの条件を了承しているなら行く場所などない。今は、子供を産むことだけを考えようと思っていた。


離れでの生活は、子供を一番に考えられたもので、デイジーには苦痛でしかなかった。結婚してから一ヶ月、キールは一度も会いに来てはいない。キールは他の女性と遊び歩いていると、使用人達が話しているのを聞くだけ。そんな生活に、耐えられなくなっていた。


「……キール様は、どこにいらっしゃるの? 私は妻よ。それなのに、どうして会いに来てくれないの?」


カイアに何を言っても、答えてはくれない。必要最低限の会話しか、彼女はしない。

カイアが居ても、見張りの使用人が居ても、デイジーは一人ぼっちのような気がしていた。


そんな生活を三ヶ月我慢した頃、夫人が離れに姿を現した。


「デイジー、ハンナの結婚式に出なさい」



***



「ハンナ……」


控え室に入って来たデイジーは、私を恨めしそうな目で見ている。デイジーが結婚してから三ヶ月ちょっとで、いったい何があったというのか。肌はボロボロで髪はボサボサ……元気いっぱいだったあのデイジーが、ずいぶん老けたように見える。

あんなにデイジーを可愛がっていた両親は、なぜかデイジーのことを見ようとはしない。先程まで、デイジーの話をしていたのに……。


「デイジー、久しぶりね」


三ヶ月、あのデイジーが全く実家に姿を現さなかった。キール様は私と婚約していた時と違って、たくさんの女性達と遊び回っていることを隠そうともしていないらしく、貴族の間だけでなく国中で噂になっていた。そんなキール様を、プライドの高いデイジーが放っておいたのも違和感があった。この三ヶ月、デイジーがどんな暮らしをして来たのかは分からないけど、キール様の女性好きが原因で容姿が変わってしまったのかもしれない。


「そのドレス、似合っていないわ。そんなに似合わないドレスを着て結婚するなんて、恥ずかしくないの? アーロン様が、本当にハンナを愛しているはずないじゃない。心の中で、ずっとバカにしてるわ」


私を不安にさせようとするデイジーは、前と何も変わっていなかった。


「デイジーには、もう何も奪わせたりしない。私は今、大切な人に出会えて最高に幸せなの。あなたが何を言おうと、この気持ちは揺るがない」


アーロン様が、私を強くしてくれた。

悔しそうに唇を噛みしめながら、何も言わずにデイジーは控え室から出て行った。



式は盛大に行われ、大勢の貴族達が祝福してくれた。キール様が式に姿を現すことはなく、デイジーは私の結婚式でも終始不機嫌な顔をしていて、式が終わるとすぐにクーパー伯爵夫妻と共に帰って行った。



シュバルツ伯爵の用意してくださった別邸で、 新婚生活を二人で送ることになった。私に対して最初の印象は、最悪だったと思う。それでも今では、シュバルツ伯爵も夫人も良くしてくれる。


「ようやく、君を手に入れられた」


彼との初めての夜、寝室で二人きり。彼の長くて細い指が、私の頬に優しく触れる。心臓の音が、彼に聞こえてしまうのではと思うほどに大きくなる。


「これからは、ずっとおそばに居ます」


私の言葉に、彼は優しく微笑む。


「……君に、話さなければならないことがある。全てを話したら、君に愛される自信がないんだ。だから、今まで話せなかった。もしも君が、僕から逃げたくなったとしても、手放すつもりはない。君を幸せにするのは僕だから」


今までに見たことがないくらいに真剣な顔で、話があると彼は言った。

彼が話したいこととは何なのか、私には分からないけれど、話の内容がどんなことでも、彼から離れるつもりはない。


アーロン様は、意を決して話し出した。



ーアーロン視点ー

三年前、僕は恋をした。

だが、その相手には婚約者がいた。

彼女は、婚約者を愛している。初めて誰かを好きになり、すぐに失恋した。


グラッドレイ伯爵に、父から頼まれた書類を持って行った時に、彼女と出会った。出会ったといっても、彼女は僕を知らない。

伯爵を待っている間、庭園から声が聞こえ、その声の方へと自然に歩き出していた。声の主は、グラッドレイ伯爵の長女、ハンナ嬢だった。ハンナ嬢は、ケガをした小鳥を手当しながら、『大丈夫、きっと飛べるから』と声をかけていた。彼女の想いが通じたのか、小鳥は大空に羽ばたいて行った。その様子を見ながら、彼女は優しい笑みを浮かべた。まるで、天使のような穢れのない純粋な笑顔に、僕は一瞬で心を奪われていた。


彼女に婚約者がいると知ったのは、それからすぐのことだった。彼女は幸せなのだから、想いを封印しようと心に決めた。


だが……


「キールもよくやるな。婚約者が居るのに、何人の女と関係を持つ気だよ」


()()()という名に、足を止める。


「ただの噂だろう? キールは、婚約者を愛していると聞いているぞ?」


よく知らない令息達の話に、無理やり割り込む。


「婚約者には手を出すことが出来ないから、他で発散しているんだそうだ。それ聞いて、俺はキールを見る目が変わったよ」


無理やり割り込んだのに、話を続けてくれたことに感謝しつつ、キールに怒りを覚えた。

彼女を傷つける奴は許さない。真実を知る為に、キールに近付くことにした。

何度か話しているうちに、キールは彼女の話をし始めた。愛してはいても、女遊びをやめられないと言っていた。それを聞いた時、キールにハンナ嬢を任せることは出来ないと思った。そして僕は、彼女を守る為に、行動に出ることにした。


調べているうちに、色々なことが分かった。

ハンナ嬢は今まで、妹のデイジーに何もかも奪われてきていた。両親も、ハンナ嬢のことを愛してはいない。そんな目にあっていたなんて、あの日の笑顔からは想像すら出来なかった。

彼女が幸せになってくれたら、それでいいと思って来たが、僕の手で彼女を幸せにしたいと心底思った。


父に、デイジーと婚約をしたいと話した。

もちろん、デイジーになど全く興味はない。キールをハンナ嬢から遠ざけ、デイジーに今まで彼女を苦しめた罪を償わせる為の計画だった。


婚約の話が進んだ頃、やっと計画が進む時が訪れた。


「君に、聞きたいことがあるんだ。キールのことを、どう思う?」


「キール様ですか? 姉にはもったいない方だと思います」


デイジーは、ハンナ嬢を褒めたことなど一度もない。どんな話をしていても、所々で彼女を悪く言う。怒りを抑えるのも、そろそろ限界だった。


「実は、キールが君に気があるみたいなんだ。僕の婚約者だというのに、許せない!」


「キール様が……ですか?」


喜びが顔に出ている。

デイジーがキールを好きなわけではないことは、分かっている。ハンナ嬢の婚約者だから、奪えると思ったのだろう。


「僕は君を信じている。裏切ったりは、しないよね?」


デイジーは必ず、僕を裏切る。


「もちろんです!」


返事が単調になり、キールのことを考えているのだと分かる。


「良かった。君を疑うわけではないけど、証が欲しい。婚約の誓約書に、サインをして欲しい」


話を早く切り上げて、キールの元に行きたいのだろう。デイジーは、すぐにサインをしてくれた。

そして、デイジーはキールと関係を持ち、妊娠までしてくれた。


ハンナ嬢を傷付けることになるのは分かっていたが、この先一生苦しむよりは、今終わらせた方がいいと思った。


デイジーが妊娠し、キールをハンナ嬢から奪った。デイジーがキールと婚約したことで、デイジーと婚約するはずだった僕とハンナが婚約することになった。

全ては計画通りだった。僕は彼女を守る為なら、何だって出来る。悪魔にだって、魂を売ってやる。

だけど、僕がしたことを彼女が知ってしまったら、僕は嫌われるだろう。

僕のせいで、愛する婚約者を妹に奪われたのだから……


彼女との時間は、感じたことのないほどの幸せをもたらしてくれていた。幸せになればなるほど、後ろめたい気持ちが増していく。


だけどまだ、終わりではない。

最後の攻撃を、開始する。



***



話をしている間、彼は小さく震えていた。

三年も前から私を想って居てくれたこと、私の為にして来てくれたことを聞いて、気付いたら涙が溢れ出していた。


「確かに、私はキール様を愛していました。ですが、キール様とあのまま結婚していいのか悩んでいました。あの日、デイジーから妊娠の話を聞いた時、私の心はショックを受けるよりも安堵していました。だから、感謝しています」


アーロン様は、たくさんの人を欺いた。それは、分かっている。全ては私の為……罪があるというのなら、私も同罪だ。

愛している人と婚約していたはずなのに、幸せだと感じることはほとんどなかった。アーロン様と出会った時から、この幸せな日々が始まった。彼が何をして来たかなんて関係ない。


私は、アーロン様を愛している。


彼は安堵の表情を浮かべると、優しく私を抱きしめた。


「僕は、狡い人間だ。君の為と言いながら、僕が君を離したくなかっただけかもしれない。それでも……僕でいいのか?」


「他の誰かじゃ、ダメです。私は、アーロン様でなければダメなのです」


彼と初めての夜。

本当の意味で、繋がれた気がした。



彼が言っていた最後の攻撃とは……

クーパー伯爵には私達の結婚式の前日、お父様には結婚式が終わってから、アーロン様は書状を出していた。書状は、二つの伯爵家に慰謝料を請求するという内容だった。


デイジーとの婚約は、慰謝料請求をする為。

アーロン様の婚約者を奪ったクーパー伯爵家と、婚約者を裏切り妊娠までして婚約を破棄したグラッドレイ伯爵家に、莫大な慰謝料が請求された。



ー書状が届いたクーパー伯爵邸ー


「これは、いったいどういうことだ!? デイジーは、すでに婚約していただと!?」


書状を見たクーパー伯爵は、怒り狂っていた。慰謝料を払う余裕などない。財産どころか、借金がある有り様だ。


「全部、デイジーのせいよ! こんなことになるなら、結婚なんてさせるんじゃなかったわ!」


デイジーが悪いのは当然だが、自分の息子も悪いということを認めようとはしない。


「……明日の結婚式に、デイジーを連れて行こう。あの惨めな姿を見れば、この額を考え直してくれるかもしれない」


デイジーが結婚式に姿を現したのは、元凶であるデイジーが惨めな生活をしていると、アーロンに見せる為だった。他の貴族の目など、気にしていられないほど切羽詰まっていた。だが、アーロンの気持ちは変わることはなかった。



ー書状が届いたグラッドレイ伯爵邸ー


「何なんだこれは!?」


ハンナの結婚式を終えて邸に帰って来たグラッドレイ伯爵は、アーロンからの書状を読んで激怒した。


「こんな額、払えないわ! デイジーは、どうして誓約書にサインなんてしたのよ……」


グラッドレイ伯爵に借金はないが、とても払える額ではない。だが、デイジーがしたことを考えると、妥当な額だった。


「どうにかしなければ、グラッドレイ伯爵家は終わりだ! 明日、ハンナに会いに行こう! ハンナに、慰謝料をなかったことにしてもらえるように頼むんだ!」


散々いらない子だと言っていたハンナを、頼ることにしたグラッドレイ伯爵。

翌日、ハンナとアーロンの住む邸に、グラッドレイ伯爵夫妻が訪ねてきた。



「僕が行こうか?」


両親が訪ねてきたことを聞き、アーロン様はそう言ってくれた。


「いいえ、私に任せてもらえませんか?」


「分かった」


彼に全てを背負わせるわけにはいかない。ここからは、私がやる。

深呼吸をしてから、両親が待つ応接室のドアを開けて中に入る。


「ハンナ! 会いたかった!」


父は私を見た瞬間、笑顔でそう言った。昨日、会ったばかりだというのに、媚びを売るにしてもお粗末すぎる。


「肌がツヤツヤしているわね。幸せそうで嬉しいわ」


母の方がまともなことを言ったけれど、その言葉を信じるには両親に冷遇され過ぎていた。


「話とは、なんですか?」


二人が、大嫌いな私に会いに来た理由は分かっている。お前はいらないと言っていた両親が、私に媚びる理由はそれしかない。


「実はだな……アーロンから、書状が届いたんだ。デイジーの愚かな行為に対しての、慰謝料を請求された。私達は、もう家族だ。それなのに、慰謝料を請求するなど、やり過ぎだとは思わないか?」


アーロン様が仕向けたことではあるけれど、両親の対応は不誠実極まりなかった。デイジー同様、両親もアーロン様やシュバルツ伯爵に謝罪していない。やり過ぎだとは、これっぽっちも思わない。

二人の顔は、私が何とかするだろうと確信している顔だ。今まで、両親に逆らったことなど一度もなかったからだ。アーロン様からは、慰謝料の件は私の好きにして構わないと言われている。だから、好きにしようと思う。


「それだけのことをしたのだと、反省はしないのですか? デイジーが愚かな行為をしたと仰いましたが、お父様もお母様も叱らなかったではありませんか。慰謝料は、払っていただきます」


「ハンナ!? お前っ! どういうつもりだ!?」


先程までの笑顔が、一瞬で消えた。

私が逆らうなんて、思っていなかったのだろう。


「お話は、それだけですか? それなら、お帰りください」


「待て! ハンナ!!」


お父様の声に振り返ることなく、応接室を出る。ドアを閉めたあとも、お父様が私を呼ぶ声と、お母様が泣き叫ぶ声が聞こえていた。


この国の爵位は、男性でなければ継ぐことが出来ない。グラッドレイ伯爵家には、私と妹しか生まれなかった。グラッドレイ伯爵家を継ぐことになるのは、叔父か叔父の息子のジョナサンになるだろう。その時、アーロン様はお金を返すおつもりだ。お金が欲しいわけではなく、彼は私を苦しめた両親に償いをさせようとしてくれたのだろう。


「大丈夫か?」


私が心配だったのか、アーロン様が廊下で待っていてくれた。


「大丈夫です。両親に逆らったのはこれが初めてだったのですが、意外と平気でした」


私の様子を見て、胸を撫で下ろすアーロン様。


「そういえば、父と母が近いうちに一緒に食事をしたいと言っていたのだが」


「嬉しいです! いつにしますか?」


本当の家族は失ってしまったけれど、私には優しい家族が出来た。


「明日なんてどうだ? 母がハンナに渡したい物があるから早く会わせろとしつこいんだ」


「渡したい物? 楽しみです!」


「ハンナに似合いそうな服を見つけたと言っていたから、それだろうな。気に入らなくても、着てやって欲しい」


「もちろんです! 」


お義父様もお義母様も、私を本当の娘のように可愛がってくれている。

幸せな日々を送れる毎日を、アーロン様に感謝していた。




ーデイジー視点ー

結婚なんて、するんじゃなかった。

キール様と結婚してから、三ヶ月以上が経った。彼はあれから一度も会いに来ないばかりか、色々な女と浮気をしていると、見張りの使用人達が話していた。あの男は、ただの女好きだったということだ。

私があの男と関係を持たなければ、この生活を送るのはハンナのはずだったのに……



「デイジー、ハンナの結婚式に出なさい」


三ヶ月以上放置していたくせに、いきなり離れにやって来てそう言ったクーパー伯爵夫人。

なぜ私がその命令を聞かなければならないの? そうは思ったけれど、やっと外に出られるのだから、拒否する理由などない。


結婚式当日、渡されたドレスはあまりにもみすぼらしい。ドレスを着て鏡の前に立つと、自分の姿を見て驚愕した。

ボロボロの肌、ボサボサの髪、生気のない顔。


この三ヶ月間は、鏡なんて見ることがなかった。朝早く起こされ、子供の為の勉強をさせられる。食事は全て、お腹の子の為に用意されたメニュー。化粧をすることも、オシャレをすることも禁じられ、外の空気を吸うことも許されない。息が詰まりそうなこの邸で、会話出来る人間もいない。ここから逃げ出したとしても、お父様もお母様も助けてはくれないという現実に、私の心は壊れかけていた。


支度が終わると、クーパー伯爵が迎えに来た。言われるがまま馬車に乗り込むと、クーパー伯爵が一枚の書状を手渡して来た。

書状はアーロン様からのもので、私とクーパー伯爵家に慰謝料を請求するというものだった。


「これは……?」


こんな物を見せられたところで、私に払うお金などない。邸に軟禁され、自由を奪われ、さらにお金を払えというのか。


「お前が誓約書にサインなどしたから、慰謝料を請求されるようなことになった。お前など追い出してしまいたいところだが、腹にキールの子がいるのだからそうもいかない。ハンナを説得し、アーロンに慰謝料請求をなかったことにしてもらえ。出来なかったら、分かっているな?」


冗談じゃない……

ハンナに頼むなんて、絶対に嫌だ!!

そうは思っても、私は頷くことしか出来なかった。



式場に到着すると、沢山の貴族達がハンナの結婚を祝福する為に集まっていた。

私とキール様の結婚式とは全然違う。私がやりたかった結婚式を、ハンナがしていることに怒りが込み上げて来た。

控え室に行くと、あまりにも素敵なドレスに目眩がした。


許せない……許せない……許せない! 許せないっ!!


なぜハンナが、こんなに幸せそうなの!?

いつだって私が、ハンナよりも幸せだった。ハンナのものは、全部私のものだった。誰からも愛されているのは、私だったのに!!


両親は、私を見ようとはしない。当たり前よね!? 私がどんな目にあっているのか知っているのに、助けてくれなかったのだから。


ハンナを説得? 絶対に嫌よ!!


いつものようにハンナをバカにしたら、気持ちが良かった。言い返されたことには腹が立ったけれど、私はハンナを絶対に認めない。ハンナが私より幸せになるなんてありえない!!


クーパー伯爵は私がハンナを説得しなかったことを知り、激怒していた。


「お前、どういうつもりなんだ!?」


伯爵は激怒していたが、夫人は私を鋭い目付きで

睨み付けていた。

どういうつもりなんだと聞かれても、出来ることと出来ないことがある。私にとって、ハンナに媚びることは何よりも屈辱だった。


「……申し訳ありません」


謝ったところで、許してくれるとは思っていない。でも、私はキール様の子の母親だ。この子さえ生まれれば、きっとこの二人も、キール様も変わるはず。

そう思っていたけれど、子供が生まれる前に邸がなくなった。慰謝料と借金を払う為に、邸を売るしかなかったようだ。クーパー伯爵夫妻とキール様、そして私は、小さな家を借りて住むことになった。使用人を雇うお金なんてないから、家事を押し付けられた。大きなお腹で、こき使われる毎日。

借金だらけのキール様は、女性から相手にされなくなった。家に居ても、毎日お酒を飲んで愚痴を言っている。


私は愛されて、幸せに暮らすはずだった。それなのに、貴族だなんてお世辞にも言えない生活。何もしないくせに、料理が不味いとか掃除がなっていないとか文句ばかりの義理の両親。私の顔を見ようともせず、お酒ばかり飲んで働こうともしない夫。どうしてこんなことになってしまったのだろう……


数ヶ月後、私は女の子を出産した。

女の子……これでもう、爵位を子供に継がせることさえ出来なくなった。

こんな借金だらけの落ちぶれた伯爵家の令嬢と、結婚してくれる貴族なんて居ない。


入院するお金なんてないから、出産したその日に家に帰る。出産したというのに、誰一人来てはくれなかった。

病院を出ようとしたところで、一番会いたくないハンナと会ってしまった。



***




結婚して七ヶ月が経った頃、体調が悪くなる日が続いていた。


「顔色が悪いな。体調、悪いのか?」


アーロン様は心配そうに、私の顔を覗き込んだ。


「気分が悪い日が続いているだけです」


心配かけたくはなかったけれど、顔色が悪いのは誤魔化せなかったようだ。


「主治医を呼ぼう!」


「いいえ、その必要はありません。今日は買い物に行く予定でしたので、病院に寄って来ます」


どうしても、今日は出かけなければならなかった。


「ついて行きたいが、夕方までは仕事が入っている。頼むから、絶対に無理はしないでくれ」


ついて来たら困る。

彼は私が心配なのか、どこへ行くにもついて来る。普段なら、一緒に居られるから嬉しいけれど、今日だけは困る。


「無理はしないとお約束します」


それでも心配そうな顔をしている彼の頬に、優しくキスをする。一瞬で真っ赤に染まる彼の顔を見ながら、私は微笑んだ。



買い物を終えると、病院に立ち寄る。中に入ると、赤ちゃんを抱いたデイジーが立っていた。


「可愛い赤ちゃん、生まれたのね」


私の結婚式で会って以来だ。あの時よりも、変わっているデイジー。手もカサカサで、真っ赤に腫れ上がっている。苦労しているのは、一目瞭然だった。


「……憐れむのはやめてよ。私は幸せよ」


憐れんだつもりは全くない。


「そう、それなら良かった。元気でね」


赤ちゃんは気になったけれど、デイジーの視線に耐えられなかった。まるで、お前のせいだという視線。私とは、二度と会いたくないと顔に書いてあった。


デイジーは、そのまま病院から出て行った。

少し嫌な気分になったけれど、診察を受けて結果を聞いた私の心は、幸せに包まれた。


邸に戻ると、急いで準備を始める。

今日は、アーロン様のお誕生日だ。彼が盛大なパーティーは嫌だと言っていたから、招待したのはお義父様とお義母様だけ。家族だけの、ささやかなパーティーをすることにした。

どうしても今日買いたかった物は、彼への誕生日プレゼントだった。


準備が終わった頃、お義父様とお義母様がいらっしゃった。


「私達も来てしまって良かったのか?」

「結婚してから初めての誕生日なのだから、二人でお祝いしたかったのではなくて?」


二人は気を遣ってくれている。


「アーロン様からは、盛大なパーティーをしたくないと言われただけなので、お義父様とお義母様がいらしてくだされば嬉しいと思います。私は嬉しいので」


お義父様とお義母様と一緒に、アーロン様の誕生日をお祝い出来るのが嬉しい。


「ハンナがアーロンと結婚してくれて、私達は本当に幸せだ」

「私、娘が欲しかったから、ハンナが娘になってくれて毎日が幸せよ」


それは、私の方だ。お義父様とお義母様、アーロン様と家族になれて幸せでいっぱいだ。

幸せそうに微笑んでいる二人と一緒に、アーロン様の帰りを待つ。

彼は時間通りに、仕事から帰って来た。


「誕生日おめでとう!」

「お誕生日おめでと~」

「お誕生日おめでとうございます!」


玄関を開けた瞬間、三人揃ってお祝いの言葉を言う。アーロン様は目を丸くして驚いていた。


「ハンナと二人きりで祝うつもりだったんだろうが、邪魔しに来てやったぞ」


お義父様は、アーロン様をからかうように意地悪な笑みを浮かべる。


「本当に邪魔ですが、ハンナが嬉しそうだから我慢します」


邪魔だと言っているわりに、嬉しそうなアーロン様。


「あら、アーロンに上手く返されてしまいましたね」


この家族は、本当に幸せそうに笑う。こんな家族に、ずっと憧れていた。


「皆さんに、ご報告があります。実は、家族が増えます!」


「本当か!?」


アーロン様は、すぐに意味を理解したようだ。


「はい。二ヶ月だそうです」


体調が悪かったのは、妊娠しているからだった。


「子供が出来たのか!?」


少し遅れて、お義父様も気付いた。


「きゃ~!! こんなに嬉しいことはないわ!」


お義父様から少し遅れて、お義母様も気付いた。


「僕が、父親になります!!」


余程嬉しいのか、いつもよりテンションが高いアーロン様を見ながら、私もまた嬉しさが込み上げてくる。

ささやかな誕生日パーティーのはずが、ものすごく盛り上がったパーティーになった。



「父上も母上も、すごく喜んでいたな」


「あんなに喜んでいただけて、私も嬉しかったです。これを……」


二人きりになり、誕生日プレゼントを渡す。


「これ……」


プレゼントは、アーロン様から初めていただいたブレスレットの男性用。といっても、男性用はなかったから、お店の人に無理を言って作ってもらった。


「あの時いただいたブレスレットが、すごく嬉しかったのです。だから、アーロン様とお揃いでつけたくて」


「そんな可愛いことを言われたら、ますます君に夢中になってしまう」


彼はブレスレットをつけて、私の頬に手を伸ばして来た。そしてゆっくり、目を閉じた。




END



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[一言] 領地を持たない爵位だけの貴族がわんさか居た、ヴィクトリア朝時代のイギリスっぽい世界観。領地が無いと商売で失敗するだけで簡単に平民レベルまで没落するんですよね。 両親は人格破綻者の毒親。妹は…
[一言] アーロン…何気に恐ろしい奴!(笑) キール君はダメ男の典型でしたね〜 デイジーに幸あれ?(笑) 面白く読ませて戴きました! 投稿有難う御座いました〜。
[良い点] キールの両親もどうなんだろう。 婚約してたのに女グセの悪さが噂になってる時点で諌めないとだし、主人公の親も長女に愛情は無くても自家のメンツのために抗議はしないとダメでしょ。
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