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しかし、この九年、おみねちゃんにはそう言ったものはなかった。白骨死体の話で初めて見せた狼狽だった。だが、それはすぐに収まった。つまり、そのことを払拭できるだけの、何か確固たる理由がある。それが何かは分からないが、自分に繋がる物証は決して露見することはないという自信のようなものが、いとも簡単に動揺を払拭できた理由ではないか……これが俺の見解だ」
話を終えた玄三は、冷めたお茶で喉を潤した。
「ありがとうございます。とにかく峰子さんのことが気がかりで。白骨死体と無関係であってくれるといいんですが……」
勇人は心配した。
「おみねちゃんが捕まるようなことはない。俺が保証するよ。ハッハッハ」
何かを隠すかのように、玄三は無意味な高笑いをした。
翌日。勇人は出勤すると、刑事課の課長、松山に話を訊いてみた。
「ああ。玄三さんのことなら知ってる。“イノシシの玄三”と呼ばれた新宿△署の敏腕刑事だった」
「……イノシシ?」
「ああ。足の速さは天下一品だった。だが、強盗を追っている時に足を撃たれてな。間もなく退職して、故郷の静岡で蕎麦屋を始めた」
……足を引き摺っていたのは、その怪我が原因か。
「足が速いから、イノシシって呼ばれてたんですか?」
「それもあるが、干支のイノシシとゲンゾウのゲンを漢字にしてみろ」
「……亥と玄、……似てますね」
「だろ?そこから、亥の玄三と異名で呼ばれた訳だ」
「……なるほど。江戸時代の岡っ引きみたいでカッコいいですね」
勇人は納得した。
当夜、〈玄三庵〉が店を閉める時間を見計らうと、事情聴取を兼ねて峰子に会いに行った。そして、身分を明かした。
「……なんとなくですが、そんな気がしてました。お客さんが白骨死体の話をした時、あなたの刺すような視線を感じていました。その時、もしかして、と」
峰子は、勇人の前で俯いていた。玄三は止まり木で背中を向けていた。
「で、関係があるんですか?白骨死体と」
興奮からか、勇人は早口になっていた。
「……たぶん」
「たぶんとは?」
勇人は焦った。
「白骨死体がどこのどなたか分からないのに、こっちもはっきりできないでしょう?」
勇人を睨み付けた。
「では、たぶんというのは?」
「十年前という年月に心当たりがあったからです」
「その心当たりとは?」
「……十年前まで東京で暮らしていました。夫と二歳になる息子と。ところが、交通事故で一度に二人を亡くしてしまったんです。生き甲斐を失った私は、死に場所を求めて静岡に来たんです。歩き疲れて、ふと見ると廃墟がありました。体を休めているうちに眠ってしまって。目が覚めたのは夜でした。お腹が空いて、食べるものを探しました。死ぬことより空腹が勝ったんです。情けない話です。
林を抜けると、月明かりに畑が見えました。そこから、サツマイモやニンジンを抜き取り、近くの沢で洗って食べました。町に出て宿に泊まれば、こんな真似をしなくても済みます。でも、死に場所を探していた私は、そんな気持ちにはなれませんでした。
そんなことを数日続けていた時でした。戸を叩く音がしたんです。びっくりした私は息を殺してじっとしてました。すると、
『……よかったら、食べてくだせゃー』
と、男の声がしたんです。私が黙っていると、
『ここに置いとくで……』
そう言って、去って行きました。恐る恐る戸を開けると、新聞紙に包まれたものがありました。広げると、弁当箱と割り箸があって、中にはご飯や惣菜が入っていました。私は感謝の気持ちで、月明かりに男の姿を探しました。そして、次の日も、次の日も、男は弁当を戸口に置いてくれていたんです。
それから数日後。感謝の気持ちを伝えるために、戸を開けました。そこに居たのは、無精髭の三十代の男でした。照れるような優しい眼差しで私を見ていました。その時、私の中に安らぎのようなものが生まれました。男は、私の身の上話を親身になって聞いてくれました。そして、言ってくれたんです。
『死なざぁんて思っちゃおえん。亡くなったご主人とお子さんのためにも生きなけりゃあ』
と。私はその言葉が嬉しくて泣きました。そして、生きる決意をした私に、男は駅の近くにアパートを借りてくれました。男の優しさに絆され、いつしか恋心が芽生えました。そして、妊娠したんです。
『女房とは別れるで産んでくれ』
男はそう言ってくれました。悩みながらも、子供が欲しかった私は産むことを決意しました。男は身重の私を大切にしてくれました。
それは、子供が生まれて間もなくでした。離婚話に逆上した妻が包丁を手にして襲いかかってきたので、包丁を奪おうとして揉み合っているうちに、誤って殺してしまったと。駆け付けた男はそう言って、狼狽えていました。
「これから警察に自首する。このアパートはまずい。君に迷惑がかかるかもしれにゃー。乳飲み子を抱えて大変だらが、このアパートから出てくれ」
男はそう言って、紙幣の入った封筒を置いて行きました。私は男の言う通りにするしか術がありませんでした。そして、この港町にやって来たんです」
峰子は項垂れていた。
「……それじゃなぜ、白骨死体の話に動揺したんですか」
勇人が疑問を投げかけた。
「……自首すると言っていたけど、もしかして、……遺体を埋めたのではと思ったからです」
顔を曇らせた。
「男の名は?」
「……木村真雄」