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一人の女が、九十九折りの道を登っていた。峠を越えると平坦な一本道が続き、田園風景が広がる。その道を反対側に下ると港町がある。だが、女は脇道の林に入った。林を暫く行くと、廃墟らしき掘っ立て小屋が見えた。
引き戸を開けると、氷室のように冷えきった感触の土間に足を入れた。真ん中に囲炉裏がある板張りの小上がりに腰を下ろすと、背負っていたリュックを下ろし、被っていた毛糸のマフラーを脱いだ。
二十半ばだろうか、化粧っけのない女は大きくため息をつくと、ジーパンの上から脹ら脛を擦った。そして、スニーカーを脱ぐと、寒さで感覚を失った爪先を凍えた指先で揉んだ。煤けた壁を見回しながら、指先に生暖かい息を吹き掛けた。――
木村真雄が畑から帰ると、女房の孝子が飯の支度をしていた。
「ご苦労やったね。すぐにできるで」
孝子は真雄に振り返ると、前掛けで手を拭った。真雄は、柄杓で掬った桶の水で手を洗うと、
「近ごろ、畑が荒らされてるだ」
と浮かない顔で手ぬぐいを手にした。
「えっ、野良犬ね?」
「そうじゃにゃー。きれいにもぎ取られてるのさ」
「何を?」
「なんでもかんでもさ」
煙管の火皿に細刻みを詰めながら孝子を見た。
「泥棒かね?」
真雄に目を置きながら、杓子で鍋の煮物をかき混ぜた。
「泥棒って、こんなとこによそもんはいにゃーら?」
「……耄碌した五右衛門じいさんがやったのかしら?」
「……分からん」
腑に落ちない表情を残しながら、真雄は火皿の灰を囲炉裏に落とした。
……盗むとしたら、人目のない夜中だろう。
真雄は外套を着ると、林に隠れて畑を見張った。――
十年の月日が流れた。港町の蕎麦屋に、峰子という評判の美人がいた。三十半ばだろうか、毎日同じ絣の着物を着ていたが、そのことを恥じるでもなく、いつも明るく客をもてなしていた。峰子は、蕎麦屋から程近い借家で、九歳になる真太郎と細々と暮らしていた。
「お母さん。行ってくるね」
ランドセルを背負った。
「行ってらっしゃい。夕飯作っておいたから」
ちゃぶ台の蠅帳に目をやった。
「うん。行ってくる」
「気をつけてね」
「はーい」
ズックを履くと駆けて行った。
峰子が働く蕎麦屋、〈玄三庵〉はこぢんまりとしていたが、昼時や仕事帰りの客が一杯ひっかける夕方からは忙しかった。店主の小宮玄三が厨房を担当し、峰子が店を切り盛りしていた。
「大将、おはようございます。外は寒いですよ」
ストールを座敷の小上がりに置くと、三和土の隅にある下駄箱から箒と塵取りを出した。
「おはようさん。風邪を引かにゃーでよ。あんたに休まれたら客が減るで、頼むね」
白頭にねじり鉢巻をした玄三が蕎麦を打ちながら、厨房から声をかけた。
「ありがとうございます。風邪を引かないように、気をつけます」
店内を掃くと、店先の落ち葉を塵取りに掬った。
「おみねちゃん!あとで行くからね」
近くの漁港で働く、“金ちゃん”と呼ばれている客が声をかけた。
「待ってまーす!」
峰子は箒を高く上げると、愛嬌を振りまいた。
夜の帳が下りる頃、〈玄三庵〉は賑わっていた。
そんな時、勤務を終えた吉岡勇人は適当な飲み屋を探していた。どの店に入ろうかと迷っていると、風に煽られた暖簾の間から、楽しげに笑う女の顔が見えた。勇人はその女に導かれるかのように、硝子の戸を開けた。
「いらっしゃいませ!」
峰子が席に案内すると、注文を訊いた。27、8だろうか、タートルネックにジャケットの格好からして、サラリーマンでないことは察しがついた。
「……酒を」
肩に力が入っているのか、勇人の言い方はぎこちなかった。
「冷やと燗がありますが、どちらを?」
「うむ……燗を」
「はい、かしこまりました。つまみは、壁に貼ってありますので」
勇人は顔を上げずに頷いた。
手際よく仕事をこなす厨房の峰子を目で追いながら、目が合いそうになると、勇人は視線を逸らした。
「おまちどおさまです。さあ、どうぞ」
ぐい呑みを勇人の前に置くと、徳利を手にした。ぐい呑みを持った勇人の手が小刻みに震えていた。峰子はクスッと笑うと、動きに合わせて少なめに注いだ。
「おつまみはお決まりですか」
「いや。何にしようかな……」
壁に並んだメニューを見上げた。
「この時期はおでんもありますし、もつ煮込みもあります。にしんの煮付けも美味しいですよ」
「じゃ、それを」
峰子の顔を見ずに言った。
「えっ?それって、どれですか?」
「……全部」
峰子を一瞥した。
「あっ、はい。ありがとうございます。おでんは何がいいですか?」
「お任せします」
「はい、かしこまりました」
売上に貢献してくれた勇人に礼を言うかのように、お通しの横の空になったぐい呑みに酒を注ぐと、
「すぐにお持ちします」
そう言って、目を合わせた勇人に笑顔を向けた。
「おみねちゃん。燗、もう一本!」
金ちゃんが仕事仲間と二人で呑んでいた。
「はーい!ただいま」
峰子の明るい声を聞きながら、勇人は手酌をした。