2:治療
《虚夜》
昼間に突然訪れる二つ目の夜。大抵は30分程度、長くても1時間ちょっとの長さ。
虚夜の間は、夜と違い星の薄明かりすらない完全な暗闇となり、魔物がより活性化する。
旅先の中、虚夜に見舞われ命を落としたというのはよくある話である。
《晶石》
輝気が結晶となったものを僅かに含んだ石。
衝撃が加わると輝気が活性化し、青い光を放つ。光る時間は衝撃の強さによって決まる。叩きつければ一瞬の閃光だが、指先ではじく程度ならば淡い光で数十分は持つ。山火事防止のため、松明ではなくこれを使用することが“ヤドリ”では推奨されている。
《魔物》
獣・魔獣とも言われる。体内に輝気を取り込み一般的な生物より強靭な体と力を持つ。
虚夜になると巣から出てきて狩りを始める。昼間はあまり目撃されない。
リスティを抱えたまま山を下山する。
彼女が言うように、俺が予想していたよりはそれほど重くはなかった。
しかし鍛えているからといって、人一人を抱えながら落枝を踏み分け、小川を超えて街へ向かうのは結構堪えた。
「大丈夫ですか?」と時節心配そうに聞いてくるリスティ。正直休みたかったが、日暮れも近かったためさっさと街に戻りたかった。
やっと街が見えた頃には服には汗が滲み、彼女を支える手は棒きれになったかのように頼りなく震えていた。
これは明日筋肉痛に違いない。
行商の街
《アルナーン》
元は行商人たちが旅の中でささやか休憩をとっていた地点。
しかし、そんな小さな人の留まりはどんどんと膨れ上がっていき、家が建ち、石畳が張られ、井戸が掘られる。
そして百年以上の長い時の中で、こうして立派な一つの町となったのである
木製のスパイクと堀を交互に配置した単純ながらも効果の高い街の外周部。獣の住処から離れたここは虚夜に獣がやってくるなんてことはそうそうない。虚夜に紛れて襲ってくるのは何も獣だけとは限らないという訳だ。
すっかり日も落ち、ランタンの明かりに彩られた街。
関門の守衛は俺が背負ったリスティを見て少し怪しんではいたが、俺が事情を説明すると割とすんなり通してくれた。
行商の街と銘打つだけあって、夜になっても活気が失われることは無い。市場広場には大量のランタンがレンガ敷の床板を煌々と照らし、獣脂の特有の肉を焼いたような香りが鼻を掠めていく。大々と開かれた酒場の大窓からは酔っ払い達の怒鳴り声、客引きに忙しなく走り回る職人弟子の少年少女。
そんな喧噪の中をすり抜けるようにリスティを抱えて歩いていく。
「…とっても賑やかな街なんですね。ここは」
「そうだな。俺も最初の頃は賑やかだなんて思っていたが、今じゃ五月蠅いとしか感じない。…その口ぶりからしてこの街は初めてなのか?」
「はい。昨日この街に来たばかりです」
「そうか」
駄弁りながら歩いているとようやく目的の場所に着いた。
街の喧騒からすこし離れた場所に位置する小さな薬屋。入り口の暖簾をくぐると、様々な薬草の香りが混じった刺激臭が鼻を突く。壁にはぎっしりと棚が積み重なり、天井からは得体のしれない干し草が何本も吊るされ、頭の上を掠めていく。
その中で椅子に座り本を読む初老の女性がいた。入ってきた俺に気づくとすっかり色の抜け落ちた銀髪をくしゃくしゃと掻く、そして膝に置いていた眼鏡を掛け直してゆっくりとこちらを向く。
「…また、血傷拾って来たのかいハクジ坊?」
「ちげぇよ。…この娘の治療を頼みたいんだ」
「ほう」
彼女は恐る恐る会釈するリスティを一瞥すると目の前の椅子を指さして座れと促す。
何重にも巻いていた右脚の包帯を解くと、生々しい傷跡が外気に触れる。
「獣に噛まれたのかい?」
こくりと頷くリスティを見て、くつくつと小さく笑う。
「あんたは運がいいねぇ。よっぽど安物の皮が硬いブーツを履いてたようだね? でなきゃ今頃、あんたの右足はヤツらの晩飯さ」
着ていたガウンのポケットから小石大の晶石を取り出し、骨ばった手でゆっくりと握りつぶす。
指の隙間からもわもわと漏れ出た輝気を手で掬い、傷に塗るようにリスティの肌に掌を滑らしていく。
「あ…!」
「うずくかい? 晶術による治療を受けたのは初めてかな?」
彼女が触れた部分の傷が泡立ち、やがて煙となって消えていく。残るのは傷跡すら残らない綺麗な肌。
それを見てリスティの眼が驚愕で見開かれていく。
「す、すごい…」
「ジャスミン婆さんは昔、王都で専門の治療師を商ってた程の凄腕らしい。今じゃ何故かこんな辺鄙な所で余生を過ごしているけどな」
「くっく…昔の私なら、こんな石ころ無くたって治せていたさ」
塵屑となった晶石を捨てると、棚から一粒の飴玉のような赤い錠剤を取り出す
「調子が悪かったらこいつを飲めばいい。体内に毒があれば清めてくれるさ」
「あ、ありがとうございます。私、こんな高等な治療を受けたこと無くて…」
「くくっ気にすんじゃないさ。代金なら後ろのハクジ坊が払ってくれる」
「あ?」
店先の商品を物色して待っていたら突然話を振られた。
まあ、正直そのつもりだったのは間違いない。リスティの身なりからは金の気配を感じない。おぶっている時も、『この先どうしよう』と痛みとは別の不安に表情を曇らせていた瞬間があった。
「気にするなリスティ。ここの治療費は市場と比べると格別に安い、酒場で晩飯を奢るようなものさ。…まあ王都で同じ治療を受ければ恐らく金貨数枚は飛んだだろうが」
「金貨…。どうしてジャスミンさんはこんなところで…」
「……昔いろいろあってねぇ。今はそんな責任から逃げてのうのうと余生を楽しんでるだけさ」
「責任、ですか?」
「はいはい用が済んだらもう帰りな。ハクジ坊、この娘をちゃんと家まで送ってやるんだよ」
一仕事終わったとばかりに本を取り出して、しっしと手を振るジャスミン
俺は店先に銀貨と少しのチップを置くと、歩けるようになったリスティを連れて店を後にした。
「親切な方でした」
「まあな。俺がヤドリの仕事で傷を負った時はいつも寄るんだ。今じゃ俺が一番の常連かもな。」
森で拾っておいた噛み跡のついたブーツを彼女に渡す。リスティは恐る恐る脚を通し紐を結ぶ。コツコツと探るように石畳を歩くリスティ。どうやら問題はなさそうだ。
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「ここか?」
「はい。送って下さりありがとうございます」
リスティが取っていた宿は郊外にある少し寂れたものだった。
一日銅貨5枚。屋台で食べ歩けばすぐ消えるような代金だ。
「…この値段じゃ風呂も暖炉も無いだろ。宿主もろくでも無さそうだし、女が一人で下宿するにはどうかと思うが」
「…少し、お金が足りないんですよね。田舎を出てここまで来ましたが、初日でケガをして私の人生もう終わったのかと思いました。だから、ハクジさんには感謝してもしきれないです」
「そうか。まあ気にするなよ。人助けもヤドリの仕事だからな」
じゃあなと手を振りリスティと別れる。
腹が減った。結局今日は稼げなかったし、あまり無駄遣いはできない。安いパンでも乳で浸してかきこむか。
「あっあの!」
後ろから追いかけてくる足音と共に今日散々聞いた声。
振り向くとリスティが息を切らして立っていた。
「どうした?」
「あの…あのっ!」
何度も唾を飲み、乱れていた息を整えて彼女は言う
「私を“ヤドリ”に入れてくれませんか!?」