【第一部】絶望 一章 僕はまだ知らなかった 5
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人知の及ばない現象に出会うと、たいていの人は脳が働かなくなる。
当然、体も動かない。
恭介も例外ではなく、地面に尻をついたまま、ただじっとしていた。
亀、だよな…
亀って、人間を食べるの?
突然、亀は首を上下運動させて口を開くと、恭介に向かってゴボリと唾液を吐いた。
浴槽をひっくり返したような量が、恭介の全身にかかる。
体が、溶かされるようなイメージで、思わず恭介は顔を覆う。
だが
唾液に刺激臭や生臭さはなく、ふんわりと甘い香りがした。
口の端から舌の上に流れてきた液体も、果汁のような甘さがあった。
驚き顔を上げた恭介に亀は言った。
「とりあえず、飲んでおけ」
さらに恭介はびっくりした。
爬虫類と思われる亀が喋った!
しかも日本語で!
言われるがまま、雫を集めて飲んでみた。
咽喉の渇きは癒えた。
恐る恐る恭介は尋ねる。
「あの、あなたは一体…ここはどこですか?」
亀はゆっくりと答えた。
「わしは見た通り亀じゃ」
亀なんだ、やっぱり
「ここは、うーん、蓬莱山、といってもわからんか…シャンバラ、ああ、もっとわからんよな。そうだな、ここは地球の底の底じゃ」
恭介は、海の中にいたはずだ。
なんで、今、地球の底、地底にいるのだろう。
ひょっとして、ここは異世界なのか。
恭介は、学校や塾のテキスト以外に読んで良い本が決められていた。
漫画や、イラストの多い小説は家では禁止だった。
悠斗の家は、漫画も含めて特に規制していなかった。
好きな本を好きなだけ読んで、面白かった小説は、恭介にも貸してくれた。
悠斗の最近のお気に入りは、主人公が不慮の事故で亡くなってから異世界に転生し、ドラゴン使いとなって活躍するといったものだった。
でも、そこで異世界として描かれていた風景は、なんとなく中世のヨーロッパみたいで、竜は出てきても、亀はいなかった。
「だいぶ、くたびれているようだな、今日はもう休め」
そう言うと、亀は笛みたいな音を出した。
すると、羽ばたきとともに何かがやってきて、恭介の背後に降り立った。
「お呼びですか、レイ様」
恭介が振り向くと、小柄な女性が控えていた。背中には、羽が生えていた。
恭介の感覚は、麻痺し始めていて、羽の生えた女性にも、もはやびっくりしなかった。
「ああ、スズメ。この子を寝床まで連れていってくれ」
かしこまりましたと言って、スズメと呼ばれた女性は、ひょいと恭介を抱きかかえた。
間近で見ると、丸い瞳とちょっと尖った口元は、たしかに鳥類に似ていた。
そのままスズメは助走もつけずに飛翔した。
思ったよりも地底の空洞は広く、見下ろすと亀の甲羅が、東京ドームくらいの大きさに見えた。
「少しの間です、動かないで。死にますよ、ここから落ちたら」
岩ばかりかと思った地底だが、空中を移動して行くうちに、たくさんの樹木が見えてきた。
そのうちの一本の木に停まり、スズメは恭介を下した。
幾層にも重なる枝が、人ひとり横たわれるようなスペースを作っていた。
「明日、お呼びにきます。おやすみなさい」
そう言うと、スズメはどこかへ飛んでいった。
体を横たえ、恭介は瞼を閉じた。
アデレードの港を出てからの出来事が、あまりに現実味がなさすぎて、頭がついていかない。
今、ここでこうして息をしている自分が、本当に生きているのかも自信がない。
助かったという安堵より、なんで自分だけこんな目に遭ったのか、これからどうすればいいのか見当もつかない。
「生きろ!」
海の中で聞いた声が蘇る。
ウエストポーチから、小さな光が揺れている。
ポーチを開けたら、中からゴロンと石が出てきた。
悠斗がくれた石だ。
手に取ると、ほんのり温かかった。
石の真ん中あたりにある、オレンジ色の部分から熾火のような光が出ていた。
そして、ポーチの底に貼りついていた一枚の写真。
出発前に母が渡してくれたものだ。
その写真に映る父と母の笑顔を見た瞬間、恭介は涙がぼろぼろこぼれた。




