【第五部】縁 一章 流れる翳り 8
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陽介との話が終わり、恭介は新堂宅を辞した。
「なんだ、夕飯食ってけばいいのに。自慢のカレーだぜ」
帰りがけ、侑太が恭介に声をかける。
「最近、侑太は料理が上手くなってね」
陽介が穏やかに笑った。
ああ
いいな
侑太とおじさん
ちゃんと、父と息子になってる
恭介は電車に乗り、先ほどの叔父との会話を反芻した。
もし、畑野健次郎が動くとしたら、投入する資金は千億の単位となる。
そうなったら、藤影創介は経営権を失うだろう。
社長解任を阻止するためには、どうすべきか。
「恭介。君に本社の持ち株を、すべて譲る。
ただし」
条件がある。
そう陽介は言った。
条件とは
「君が戸籍を取り戻し、創介と和解することだ」
恭介にとっては、重い条件である。
和解?
あの父と?
どんなに俺が手を伸ばしても、払いのけたのは創介だ。
俺だって、父に認めてもらいたくて、愛して欲しくて、努力した。
だが
父の要求は、水準が高くなるばかり。
達しなければ、父の後姿は遠ざかるのみ。
しまいには、俺の命まで、奪おうとしたのだ。
俺に
どうしろと!
「歴史を紐解けば、実の親に殺されそうになった武将、実の親を殺した武将、たくさんいるぞ」
そう言われても、甚だ納得し難い。
和解への道のりは、遠い。
駅の改札を出ると、悠斗が待っていた。
「ただいま」
「おう」
「悠斗、お腹すいた」
「そう言うと思ってた。お前んトコで、カレーでも作るよ」
友だちに恵まれたことだけが僥倖である。
その日の夜。
藤影創介は、いつもより早い時間に自宅へ戻った。
血液検査の結果、創介の推測通り、彼の体には寄生虫がいた。
ただし、痕跡のみ。
寄生虫本体は、創介が自社の薬を服用したことで駆除された。
家に帰ると甘い香りが漂っていた。
厨房から女たちの話声がしている。
「あら、お帰りなさい、創介さん」
「あ、ああ」
亜由美の笑顔に創介は一瞬たじろぐ。
「珍しいな、いつ帰った?」
亜由美は生活の拠点を、自分の実家に置いている。
「こっちのお台所のオーブン、使わせてもらいたくて、夕方来たの。実家のは、トーストくらいしか焼けないから」
「オーブン? 何するんだ」
「学園の花壇の整備、生徒さんたちに手伝ってもらったから、そのお礼。お菓子でも、差し入れしようかと思って」
亜由美は使用人の女性と、クッキーやらマドレーヌやらを焼き上げていた。
バターとバニラエッセンスの匂いは、創介に昔の記憶を呼び覚ます。
まだ、恭介が小さかった頃、亜由美はよく、ケーキを焼いていた。
添加物のないお菓子を、与えたいからと。
創介の幼少のみぎり、実母が手作りのお菓子を子どもに与える、なんてことはなかった。
亜由美と息子の姿を微笑ましく見つめながらも、母親から無償の愛情を受ける恭介に、どこかで嫉妬していた。
それが、疑念と相まって、創介の心に澱が溜まり、いつしか憎悪へと変わっていった。
「これね、息子が好きなお菓子なの」
亜由美が、使用人の女性に嬉しそうに言う。
もう、この世にいない息子なのに
亜由美はまだ、愛情を捨てていないのか
無償の愛は健在なのか
憐みに似た感情が、創介に生じる。
それは亜由美に対しての憐憫なのか。
突き放した息子への、情の亡骸なのか。
「私ね、信じてる。絶対恭介は生きてる。帰って来るって!」




