【第五部】縁 一章 流れる翳り 1
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専業トレーダーの石塚は、いつものように朝の九時から相場をチェックしていた。
大手広告代理店を早期退職し、在宅で出来る優雅な仕事を選んだつもりだ。
イメージ通りとはいかないが、まあまあ普通の生活は送っている。
このところ、少しばかり気になる動きがある。
長期投資対象企業の一社の、株の売買変動が大きい。
社長の株保有率は、四十パーセント弱だが、ほぼ同族経営であり、経営は安定している。
同族で揉めているのか。
確か息子は亡くなって、養子を迎えたはず。
その養子も身内で、まだ未成年という話だから、揉める要素は少ないのではないか。
最近、外国企業の買収をするという噂もある。
では、敵対型TOBでも、始まっているのか。
石塚は、サラリーマン時代の知り合いで、該当企業を追いかけているフリーのライターに、内部に何か起こってないか、聞いてみることにした。
その該当企業の社長、藤影創介は、出勤後すぐに、自身の人間ドックの結果を見ていた。
創介の年齢としては、結果は悪くない。
薬を売る側の人間が健康でなければ、会社の信用にかかわる。
それは創業者である、創介の父からの教えでもあった。
父親の言うことを、あまり真に受けていない創介であったが、この教えだけは守っている。
BMIも血圧も、ヘモグロビンA1cも、正常数値である。
胃や肺、PSA、すべて正常。
気になるのは、肝機能数値が昨年より上昇し、白血球が僅かに、基準数値を越えていることだ。
肝エコーには、特に問題はなかったが。
創介は曜日を確認し、社内の診療所に電話をかけた。
今日の診察医なら、忌憚なき意見を聞けるであろう。
本社のビル一階のはずれに、診療所はある。
診療開始時間の五分前に、創介はドアを開けた。
受付も兼ねている、担当の保健師は、創介を認めると慌てて診察室へと促した。
本日の担当医は、武内という老齢の内科医。
先代、すなわち創介の父の代から、此処に来ている。
「おや、坊ちゃん、珍しいですな」
武内は読んでいた新聞から顔を上げる。
つるんとした頭部に白い髭。
いつ会っても、笑っているような眼差し。
昔から創介は、武内を見ると山羊を連想する。
内科医ではあるが、簡単な外科手術くらいなら、今でも出来るはずだ。
若い頃、無茶をしていた創介は、時折、武内に縫合してもらったりした。
創介を「坊ちゃん」と呼ぶのは、今では武内くらいである。
創介は持参した人間ドックの結果を渡す。
「なるほど、肝機能と白血球の数値が気になる、と」
武内は記憶をたどるような目つきで、創介に尋ねる。
「坊ちゃんは、何かアレルギーをお持ちでしたか?」
「アレルギーか。強いて言えば、女、かな」
「落語じゃないんですから、坊ちゃん」
「さて、どうしますか坊ちゃん。
アレルギーではない。
ドックに入る前に、感染症にかかっていない。慢性的に服用する薬もない」
「検査をお願いしたい。まず知りたいのは、好酸球の数値。
そして好酸球のガレクチン10濃度。
ついでに尿中の、シャルコー・ライデン結晶の有無」
「ほうほう。坊ちゃんの見立てはそっちでしたか。検査ついでに、処方箋書きましょうか」
「あ、いや、薬はいいよ」
「そりゃあ、売るほどありますものね」
二人は笑った。
創介の心も軽くなる。
思えば、創介が父と争い、悔し涙を流したような十代の頃、武内は「元気になるお薬です」と言って、こっそり酒を飲ませてくれたっけ。
あの頃と変わらない、武内の風貌と声。
はて
武内は一体
何歳だ、今。
そんな疑問が浮かんだ創介だったが、瞬時に頭を切り替えた。
もしも
創介の体内に起こっている、微弱な血液の変化が、それによるものならば、手を打つ必要がある。
世の中に。今後蔓延していく可能性があるからだ。
創介は、アトバコン・プログアニル塩酸塩錠並びにピレスロイド系薬剤の在庫確認と発注の指示を、関係部署に出した。




