★ 一章 幕が上がる前
本編は完結しておりますが、加筆修正しております。
エピソード01
夏の早朝、少年は釣り具を持ち、入江を目指す。
今年の夏の唯一のイベント。
明日はまた、日常へと帰る。
祖母の家は北陸の海沿い。
寒鰤が有名だが、暑い季節でも魚類は豊富だ。
生活用水が流れ込むコンクリの水路に腰かけて、少年は慣れた手つきで竿を放る。
陽が昇り切る前の海面は紫。波頭は白い。
釣りはいい。
一人で自然に向き合える。
軽い手ごたえに釣り糸を引くと、小さな亀がくっついていた。
少年は苦笑いをしながら、亀をリリースした。
砂浜に並ぶ松の木から、鳥が飛び立った。
この辺では見たこともない、鮮やかな羽をしていた。
海面を靄が渡る。
少し肌寒い。
波のうねりは益々強く、まるで何かの生き物のようだ。
そう、ファンタジー世界の、竜のような……
雲の隙間から、細い光が射す。
白い靄に何本もの光の柱が降りる。
ぽちゃん……
耳元の近くまで、水滴の音がする。
少年は顔をあげ、靄を見た。
少年の目が大きく開く。
靄が薄くなった海面に、女の上半身が浮かんでいる。
長い髪が胸を隠し、海と同じ色の瞳が少年を見ていた。
生きているのか?
それとも……
少年の咽喉がゴクリと動く。
同時に水音が跳ね、女は水に潜った。
足があるはずの部分には、大きなヒレが付いていた。
人魚?
まさか。
頭を振りながら、少年は釣り道具をまとめた。
少年がこの出来事を語るには、それから四十年余りの年月を要する。
プロローグ
遠くで波の音がした。
月は以前と同じ、淡い光を投げていた。
帰ってきた、のだろうか。
風が袖をするりと抜ける。
指を動かすと、湿った地面に触れた。
彼は、そのまま腕を真上に伸ばした。
指の隙間から、ぼんやり星が見える。
星々の位置から推定すると、ここは北半球。
そして
夜間飛行をしていく機体のマークは、日本のものである。
季節は、夏の終わり頃だろうか。
ああ、帰ってきたんだ、本当に。
ゆっくりと上体を起こし、小さく息をはく。
腹に巻いた包みをほどき、身支度を整えた。
やるべきことは、たくさんある。
とても、たくさん…
まずは…
まずは、飯が食いたい!
1章
1
早咲きの桜が、校庭のそこここに舞う。空気は薄いピンク色だ。
狩野学園の小学部は、明日から春休みだ。
担任の真鍋は、お決まりの休み中の注意なんぞをしゃべっている。
もっとも、五年生の男児たちは、「おっかなくない」若手教師の言うことなど、誰も聞いてはいない。
「かげっち、準備できた?」
後ろの席の小沼が、ひそひそと話かけてきた。
かげっちこと藤影恭介は、答える代わりに、後ろに向けて、小さく親指を立てた。
「俺、チョー楽しみ。初めてだもん、オーストラリア」
「僕もだ」
資産家の子弟が多く在籍するこの学園は、小学部から希望者には語学研修が組まれていた。
五年生はオーストラリアに二週間。ホームステイや現地の子どもたちとの交流の他に、グループ別の自由行動も予定されている。
「でも俺、かげっちと班が別々なの、つまんないなぁ」
恭介は、心のなかで呟いた。
「僕も、だ」
瞬間、鋭い春風が、桜を散らした。
迎えにきた車に乗る恭介を見送った小沼悠斗は、空手教室に向かっていた。
(大丈夫かな、恭介…)
お金持ちの子どもが多い学園のなかでも、恭介は別格だ。
恭介の父親は、日本を代表する製薬企業の代表で、学園の式典に来賓で招かれたりする。
母親は、ミスなんとかだったそうで、以前は授業参観でたまに見かけた。
その辺のテレビタレントなんかより、ずっと細身で綺麗な女性だ。
恭介はその母親に瓜二つだ。
くっきりとした瞳と、すらっと高い鼻梁。さらさらの髪の毛は、陽が当たると栗色に光る。
同じ学年の男子より、身長は少し低い。
女子たちは「恭くん、かわいい!」と言って、恭介が嫌がっても頭をぽんぽん叩いては、きゃっきゃと笑っていた。
それを見た男子はムカつくようで、すれ違いざま、恭介に腹パンしたり、足をひっかけ転ばせてたりしていた。
ずっと、悠斗は恭介をかばってきた。
悠斗は、そんな陰湿な行為が大嫌いだった。
何よりも…
恭介は育ちが良すぎるせいか、感情の起伏が少ない。べらべらと、お喋りをすることもない。
そのためか、金持ちのすかしたおぼっちゃんと評されてもいる。
でも
悠斗が空手で指を骨折した時は、さりげなく荷物を持ってくれた。
悔しくて泣いている悠斗の背中を、何も言わずにさすってくれた。
そして
あの時も…
悠斗は何回も、恭介に救われていた。
だから心配になる。
転ばされた恭介は切れた唇から、「僕は大丈夫だから」と言った。
その時、恭介に足を出した奴、新堂と、今回のオーストラリアの研修で、恭介は同じ班になっていた。
新堂だけじゃない。
新堂のあとを、いつもくっついている戸賀崎や、美少女だけど、超我がままな牧江など、面倒なメンバーばかりの班。
なんでこんな班編成になったのだろう?
悠斗は軽く頭を振った。
今考えても仕方ない。現地に行ったら、できるだけ俺が恭介を守るんだ。
まとわりつく不安を振り切るように、悠斗は駆け出した。
真鍋志麻子は退勤後、早足で待ち合わせの場所を目指していた。
狩野学園小学部の教員になったのは、彼の勧めだった。
待遇は悪くなかったが、名門私立の児童らは、プライドと知力が高く、扱いにくい。
よって、思いのほか、日々ストレスはたまる。
彼に愚痴を聞いてもらわなければ、とっくに辞めていた。
いつものホテルのラウンジで、彼はパソコンを打っていた。
時折、前髪をかき上げてる、長い指先がセクシーだ。
「お待たせ」
志麻子は笑顔で隣に座った。
「明日から子どもたちはオーストラリアだっけ、あ、紅茶で良い?」
ノートパソコンを閉じて、彼が志麻子を見つめた。
「うん。春休みだし、私は引率じゃないし、気が楽よ」
運ばれてきた紅茶を飲み、志麻子は自分の手を、彼の手に重ねた。
「今夜はゆっくりできるわ」
いつの間にか、頭を彼の肩に乗せ、寝息を立て始めた志麻子を抱えるように、男はホテルの駐車場へ向かった。
藤影恭介が家に戻ると、珍しく父、創介が居間にいた。
恭介の祖父から受け継いだ小さな薬品会社を、日本でも有数の製薬企業に変えた創介は、アメリカのビジネス雑誌にも取り上げられる人物である。
そして、家庭においても彼は厳しい。
物心ついて以来、恭介は父の笑顔を見たことがない。
父が家にいる時は、背筋を思いきり伸ばしている。
正座して、恭介は父に挨拶をした。
「ただいま帰りました」
創介はギロリと瞳を向けた。
「あ、お帰り。僕の方が一足早かったね」
創介の陰から、新堂侑太が顔をのぞかせた。口元の笑みは、少し歪んでいた。
「君と違って、恭介はノロマだからな」
創介はにこりともせずに言う。軽い冗談には聞こえない温度。
「おじさん、じゃあ、僕、恭介君の部屋におじゃましますね」
侑太は恭介の従兄にあたる。
父、創介は、昔から恭介よりも侑太を可愛がっていた。
同じ学年でも侑太は恭介より体が大きく、弁も立ち運動能力が高い。
創介の理想の息子像なのだろう。
侑太に転ばされた時、怒って侑太に殴りかかろうとした悠斗を必死に止めたのも、侑太と揉めたら、悠斗にも迷惑がかかることを恐れたからだった。
「ほらノロ恭、早く歩けよ」
侑太は膝で恭介の尻を蹴り、ニヤニヤする。いつものことだ。
「お前に持ってって欲しい物、あるからな」
その後、恭介の部屋で、侑太はゲームで遊んだり、合間に恭介を蹴ったり叩いたりして帰っていった。
恭介はようやく、母の部屋を訪れることが出来た。
恭介の母、藤影亜由美は父より二十歳近く若い。
数年前からベッドで過ごすことが増え、医師の診断により、現在は家族とも、長時間一緒にはいない。
「かあさん、明日からオーストラリアに行ってきます」
亜由美はニコッと首をかしげ、恭介を手招きした。
恭介がそばに行くと、亜由美はそっと彼を抱きしめた。
柔らかく甘い香りがした。
彼女は鏡台の引き出しから何かを取り出し、恭介に手渡す。
それは一枚の写真だった。
父と母と、母の腕に抱かれた赤ちゃん。
恭介は驚いた。写真の中の父は、笑顔だった。
母は恭介の髪を櫛でとくように撫ぜながら、唇を動かした。
あ・い・し・て・る
思わず、恭介は泣きそうになった。
お読みくださいまして、ありがとうございます。
感想や評価、お待ちしております。




