硝子の灰かぶり
人はね、いつかは死んじゃうんだよ。
なんて、あなたが笑って言ったのは、いつだったかな。
窓の外はすっかり暗くなり、小さな雪がそっと降っては静かに積もる。教室に一人残る私の頬を掠めていく空気は、しんとしていて冷たい。零れた吐息は白い靄となって現れ、私は首に巻いているマフラーを少し上げて、口元を覆った。早く帰ってこたつにくるまりながら、あったかいココアを飲みたい。今の私の頭の中はそれでいっぱいだ。
廊下の向こうから木の床の軋む音と共に、誰かが小走りで近づいてくる忙しない足音が響いてくる。がらがら、と教室のドアが慌ただしく開けられるとそこに、少し肩を上下させている希咲が立っていた。
「凪沙、お待たせっ、一緒に帰ろっか」
「……もう、遅いよ」
「ごめんごめん」
口ではそう言っているが、少しも詫び入れる様子もなく、彼女は笑ってみせた。
希咲が机の中の教科書やノートを鞄にしまってから、二人で教室を出る。電球の切れかけかた薄暗い廊下を歩いて、下駄箱で靴に履き替えてから帰路につこうとしたとき、
「……あ、筆箱忘れた」
「……もう、なにやってるの」
「ごめんごめん、すぐ取ってくるから、ちょっと待ってて」
言うが早いか、希咲は私の返事など聞かずに靴を脱いで靴下のまま、ぎしぎしと階段を踏み鳴らしながら駆け上がって行った。そんな彼女の後ろ姿を見て、思わずため息が出た。
まったく、あの子は昔からそうだ。
元気なのはいいけど、慌ただしくて落ち着きがない。それでいてどこか抜けている、ちょっとアホな子。それでも、いつも明るくて思いやりのある、小さい頃からずっと一緒の、私の大切な親友。
私は人見知りで、上手く人と接することができない。けれどそんなとき、希咲はいつも一緒にいてくれた。中学校生活も最初は不安で一杯だったけど、でも希咲と一緒だったから楽しかった思い出がたくさんできた。もうすぐ私たちはここを卒業して高校生になるけど、これからも彼女と一緒に楽しい思い出がたくさんできるといいな。
そんなことを考えているうちに希咲が戻ってきて、彼女が靴を履いたところで今度こそ学校を出た。
「うー、寒いー。指先がいたいー」
街灯がなく、朧気な月明かりだけが申し訳程度に照らす細い田んぼ道を、二人並んで歩く。隣では希咲が、さっきから寒い寒いと言いながら、しきりに手を擦り合わせている。
「そんなに擦っていると、そのうち手から火が出るよ」
「えっ、マジでっ! カッコいいっ! こう、すべてを燃やし尽くせ! みたいな」
そう言いながら、希咲が小走りで私の前に回り込んで来ると、嬉々とした顔で両手を前に広げる。勿論、彼女の手から火なんて出るわけがなく、ただただ虚しく寒空の下にかざされているだけ。
「バカなことしてないで、早く帰るよ」
「えー、少しくらいノってくれてもいいじゃん」
「早く帰りたいの。私だって寒いんだから」
「うー、そんなつまらない親友には……こうだ。えいっ」
「ひゃあっ」
当然後ろから希咲の冷たい手が伸びてきて、私の頬に触れる。不意の感覚に思わず変な声が出てしまった。
「ちょっと、いきなりなにするの」
「だって、凪沙が遊んでくれないんだもん。それに、凪沙のほっぺあったそうだし」
「離してよ、私が冷たいでしょ」
「えー、いいじゃん。もうちょっとだけ。はー、ふにふにしててあったかーい」
「いーやーだ。だったら私もこうだっ。えいっ」
「うひゃあっ、凪沙の手もつめたーいっ」
雲の切れ間からは、宝石を砕いたような小さな光が散りばめられた夜空が見え、時折吹く冷たい風に粉雪が舞う。周りに人影は見当たらず、私たちの声だけが反響する。私たちだけの時間が流れている。
たわいもない、本当にくだらない時間。でもそれが今はとても楽しく感じる。希咲と一緒にいるときの私はとても満たされている。例え、他の誰かが無意味だと否定しても、私にとっては意味のある大切な時間。こんな時間がずっと続けばいい。本当に心からそう思える。
「そういえば、希咲はこんな時間まで先生と何を話していたの?」
「え、あー、うん。ちょっとね」
「なにそれ? あ、もしかして、この間のテストこと?」
「う……うん、そうなんだよ。聞いてよ、数学がまた赤点でさー、先生に絞られちゃったよ。あははー」
成績が悪くて怒られた。自分の事のはずなのに、希咲は何故か他人事のように笑っている。
「笑いごとじゃないでしょ、もうすぐ受験なのに」
「大丈夫大丈夫。なんとかなるよ」
「それ、全然大丈夫じゃないから。希咲はただでさえ成績よくないのに、このままだと本当に落ちるかもよ」
私と希咲は同じ高校を受験する。というか、この辺に高校なんてそれくらいしかないから、私たちの中学校のほとんどがそこを受験する。とは言っても、その分倍率が高くなるわけでもない。こんな地方の小さな田舎町。外から来る人なんているわけもなく、高校側も受験なんて名ばかりで、受けた全員を合格にしているらしい。結果的にほとんど持ち上がりみたいなものだ。だからよっぽどのことがない限り落ちることはないと思うけど、でももしそんなことがあったら、それこそ笑い事じゃない。
「もう、ホントにしっかりしてよ」
「わかってる、わかってるって」
そのあとも、私たちは二人並んでいろいろな話をした。昨日見たドラマの話。今日出された宿題の話。隣のクラスの男子の話。たくさん、たくさん言葉を重ねた。寒さを忘れて、お互いに自然と笑みがこぼれるくらいに。
「私さ、東京に行くんだ」
だから、最初は何を言っているのか分からなかった。何の脈絡もなく唐突に、ある意味自然すぎて聞き流してしまうくらいに。今までのたわいもない雑談とは明らかに違うその言葉を、希咲は息をするように発したから。
「え? ……なにしに、行くの?」
「私、東京の学校を受験するの。だから凪沙と同じ高校には行けない。ごめんね」
聞き返してみても、やっぱり何を言っているのか分からなかった。何? 何で? 希咲が東京に行っちゃう? 私と同じ高校に行かない? どうして、どうしてそんなこと言うの? 何も分からない。頭の中が真っ白になった。
それでも目の前の親友は、冗談やふざけて言っている様子はなく、かといって、申し訳なさそうにしているわけでもない。まるで他人事のように、ある意味それが当たり前のように、いつも見せてくれている、見慣れたその無邪気な笑顔を私に向けているだけ。
頭の中は真っ白だけど、目の前は真っ暗になり、希咲の顔が歪んでいく。彼女が何かを言っているみたいだけど、何も聞こえない。五感が薄れ寒さも感じなくなり、地に足が着いているのかも分からない。でもそのくせ、身体は鉛を流し込まれたようにやたらと重く感じる。
「ど……して……」
やっとのことで口を開くことができた。でもそれも、ちゃんと発音できたのか怪しい。
「あのね、私、やりたいことができたの。それでさ、東京の学校に行こうと思って。実はさ、さっきも先生とそのことを話していたんだよね」
「どうしてっ!」
声を張り上げた瞬間、風が逆巻いた。私の感情に共鳴するかのように、低く響く風鳴りを立てて。宙を舞っていた粉雪が、虚空の中で渦を作る。
「……どうして、言ってくれなかったの?」
希咲は私の問いかけには答えてくれず、ただただ笑っているだけ。でもそのうちその表情が消えて小さく息を吐くと、俯いてマフラーに口元を隠した。
「もちろん、いつかは言うつもりだったよ。だって、凪沙は私の大切な親友だもん」
「っ、だったら――」
「でもねっ」
「――っ」
「……でもね、それを言ったら、凪沙はなんて言った?」
「それはもちろん、私も――」
東京に行く。
でも、その言葉を私は、何故か言えなかった。
希咲が行くなら私も一緒に行く。それは何の躊躇うことのない本心だ。だって私はこれからもずっと希咲と一緒にいたいから。彼女のいないこれからなんて、考えられないから。それでも、何かが私の中で引っかかって、その続きを言葉にすることができなかった。
私が言葉を詰まらせたのを見て何を感じたのか、希咲は少し目を細めた。そしてそのまま夜空を見上げ、冷たい空気を小さく吸ってから話を続けた。
「人はね、いつかは死んじゃうんだよ。だから、今やりたいことを精一杯やるんだよ」
「……え?」
「私ね、凪沙のことが本当に大好きだよ。これからもずっと一緒にいたいと思っている。でもね、今の私には、もう一つやりたいことがあるの。それは、どっちが大事とかじゃなくて、どっちも大事なこと。確かに凪沙と離れるのは寂しいけど、でもそっちを諦めることもできないから、だから東京に行くって決めたの。
凪沙に東京に行く、って言ったら、私も行く、って言うと思ってた。もちろんそれはすごく嬉しいし、私もそうなったら楽しいなって思ってる。
……でもね、私は、凪沙にも自分のやりたいことをやって欲しいの。私がそう決めたように、凪沙にも自分の夢をみつけて欲しい。
凪沙が自分のやりたいことを見つけて、それで東京に行くって言うなら、私も一緒に行こう、って言える。でももし、そうじゃなかったら……
ねえ、凪沙は、なにをしに東京に行くの?」
それらすべてを話し終わった希咲は、ゆっくりと首を下ろし、静かに私のことを見つめながら問いかけてくる。
私は、なにも言えなかった。
それは、答えが分からないんじゃなくて、分かっているから。そしてその答えが、希咲と一緒に東京に行くに値する答えではないと、分かってしまったから。
何も答えられないでただ立ち尽くしている私を見て、希咲はいつものように笑ってみせてくれた。
けれど今の私には、それが今まで見たことのない彼女に見えた。小さい頃から知っている、慌ただしくて落ち着きがなく、どこか抜けたところのある子供ではない。まるで小さな子供を優しく諭すような余裕のある笑みを浮かべる、少し大人の女の子に。
「……行こうか」
希咲の一言で、私たちは再び歩き出した。稲穂もない、土も乾いた田んぼの隣を、ただひたすら無言で歩く。でも、まっすぐ同じ道を歩いているはずなのに、違う道を歩いている気がする。二人並んで歩いているはずなのに、何故かとても遠くに感じる。ずっと一緒にいて、何でも知っていると思っていた親友も、今は何を考えているのか分からない。
多分、一生分からないんだろうな。だって私には、やりたいことなんて、ないから。希咲がずっと一緒にいてくれるならそれでいいって、そう思っていたから。
でも、希咲はそうじゃなかった。ずっと先のことを見ていて、自分がどうしたいのかをちゃんと考えていた。さっきの希咲の静かな笑顔を見たとき、なんだか見透かされているような気がして、思わず目を逸らしてしまった。
いや実際にそうだった。希咲は最初から分かっていたんだ。自分が東京に行くと言ったら、私がどんな反応をするのか。そしてあの最後の問いかけも、きっと最初から考えていたんだろう。希咲は私のことを知っていた。でもそれは逆を返せば、私があの子の思う通りの、何も考えていないただの子供だったってこと。それを思うとなんだかとても悔しくて、腹立たしくて……
とても、寂しかった。
私には、希咲の見ている景色が分からない。
「凪沙、どうしたの?」
呼ばれて我に帰る。気がつけば希咲との間に数メートルの間隔が空いていた。
「ううん、なんでもない」
「そう? それでさ、あそこ寄ってもいい?」
そう言って彼女が指を差したのは、ほの暗い月明かりだけが頼りの夜道の中で、人口の光が煌々と輝く一件のお店。最近、この町にもようやくコンビニができた。都会の方だと二十四時間休みなしで開いているらしいけど、ここはもう言うまでもない。そんなにやっていたところで人なんてほとんどこない。いつも適当な時間に閉まるけど、今日はまだ開いているみたいだ。
希咲が店内に入ってくのを私は外で見送った。彼女は私も一緒に来るものとばかり思っていたみたいで、だからこそ、私が外で待っていると言ったときは、不思議そうに首をかしげた。
私だって同じ待つにしても、こんな寒い中立っているよりは中に入りたい。でも、たったそれだけの理由で希咲と同じ行動をとることが、今の私にはたまらなく嫌だった。バカみたいだと自分でも分かっている。子供みたいにすねて、変なところで意地を張ったって、何の意味もないのに。こんなことしたって、希咲と同じになれるわけがないのに。それだけ分かっていたとしても、それでもこうして意固地になってしまうのだから、本当に始末に負えない。笑いたければ笑えばいい。
ほどなくして希咲がコンビニから出てきて、何を買ってきたのかと聞くと、彼女は袋の中から肉まんを取り出した。そしてそれを半分に分けると、片方を私に差し出しだす。分けたところからは味がよく染みているお肉が顔を出し、白い湯気が立ち上がる。私はそれを貰おうと手を伸ばしたとき、肉まんを持つ彼女の手が微かに震えているのに気が付いた。
「……ホントのことを言うとね、すっごく不安なんだ。いくら夢があるからって、地元を離れて、凪沙とも離れて、一人でやって行けるのかなって、ホントは不安でしょうがないんだ。凪沙に話していなかったのも、私の中でまだ、決心がついていなかったから」
希咲の顔を見ると、今まで見たことのない、少なくても私の記憶にはない、顔を俯かせて、不安に瞳を揺らめかせている彼女の姿がそこにあった。
「私、凪沙に応援して欲しかったの。頑張れって言って、背中を押して欲しかった。凪沙にそう言ってもらえると、すごく安心するから。自分で決めたことなのに、勝手なことばかり言ってゴメンね」
それでも希咲は顔を上げて私に笑ってみせてくる。でもその笑顔も、今までの彼女が見せてきたそのどれとも違う、また新しい笑顔。だけど、今の私にはその意味が分かる。
私は、本当に彼女のことを分かっていなかった。
人はいつか死ぬ。だから今やりたいことを精一杯やる。なんて希咲は笑って言った。だけど、本当に笑って言ったわけじゃない。いくらやりたいことのためとはいえ、家族や友人と離れて、知らないところで一人で頑張っていかないといけない。それを不安に思わないわけがない。楽しいばかりではい。それでも笑ったのは、それを隠すための彼女なりの強がりでもあったのだ。
それなのに私は、彼女の姿を見て焦っていた。自分のやりたいことを見つけて、そのために行動を起こす彼女の姿が格好良く見えて、自分が子供のままでいることが急に恥ずかしく感じた。それと同時に、私に何も相談しないまま決めてしまったことを、拒絶されたように感じていた。
でも私の知っている親友は、ちゃんと今もここにいる。彼女の気持ちも考えないで勝手に線引きをして、勝手に彼女を遠い存在に追いやったのは、私の方だった。本当に私はまだまだ子供だ。
私は希咲の後ろに回り込んだ。それから彼女の背中を軽く押して、
「頑張れ」
「え?」
「言って欲しかったんでしょ? 頑張れって」
「……凪沙」
「大丈夫だよ。私は希咲ならできるって、信じているから。自分で決めたことは、とことんやる子だって、知っているから。だから応援しているね」
「……うん、ありがとう。私、頑張るからっ」
そう言って、希咲はもう一度笑って見せてくれた。私の知っている、いつも私を励ましてくれた、彼女らしい元気いっぱいの可愛い笑顔。
そのあと、希咲からさっきの肉まんを貰い、私たちは二人並んで再び歩き出した。まだ温かい肉まんは、かじかんだ私の手をゆっくりとかしてくれて、一口食べれば、冷え切った身体を優しくほどいてくれた。分けあった肉まんは、あっという間にそれぞれのお腹の中へと消えていった。
雪はいつの間にか止んでいてが、それでも頬を掠めて行く空気は痛いくらいに冷たい。私たちはどちらかともなく、自然とお互いの手を握り合った。
温かい、本当にあたたかい。でも、いつかは離さないといけないときがくる。それもそう遠くないうちに。確かに変わらないものだってたくさんあるのかもしれない。でも、何もかも変わらないというわけにもいかないんだ。この繋いだ手も、この温もりも、この幸せな時間さえも。立ち止まることも、引き返すことも許されない。だって私たちは、もっと先に歩いていかなければならないのだから。
だから今だけは、もう少しだけ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。