忘れ物
彼は悩んでいた。
悩み、悩み抜いた末に包丁を首に当て・・・やめた。
彼はまだ生きていたかった。夢や希望があった。それゆえに、しねなかった。
彼は数分ほどボーッとした後、長いこと寝たきりだった患者のように、恐る恐る立ち上がると、包丁をシンクに置き、歯を磨き、髭を剃り、顔を洗った。
始業時刻はとっくに過ぎていた。会社に遅刻と謝罪を伝えるメールを送り終えると、彼は今まで感じたことのないような清々しい気持ちになっていた。鼻歌を歌って、通りすがりの誰かを抱きしめ、この世界の素晴らしさを大声で叫びたいような、そんな気持ちになった。
彼は上機嫌になっていた。
昨晩用意しておいた仕事ようにカバンを手に取ると、軽やかな足取りで玄関へと向かい、ふと、何か忘れ物でも思い出したような様子で部屋に戻ると、包丁で喉を深々と切り裂いた。