理解の及ばない邪悪
ウェイン達の消えた部屋の中で、アメリアは震える足で立ち上がった。
「お父様、少しお話が……」
「その話は車の中で聞く。すぐに支度を済ませなさい」
勇気を振り絞って出したアメリアの言葉は、思っていたよりも弱々しい。すぐにベニートの声に押し潰され、掻き消える。
「支度、ですか」
「同じ事を何度も言わせるな。一刻も早くお前を会わせたい人間が居る」
想定していなかった言葉に、アメリアは立ち上がったままで動きを止める。会わせたい人間が居ると言われても心当たりがない。
或いは、帰ってきた私に対して何かあるのかも。
そこまで考えて、そんなことは有り得ないと首を振った。自分の父はこんな下らない事を祝う人ではない。となると、本当に自分に用事がある人間というのがわからなかった。
「礼服に着替えるべきですか?」
何もわからない中で、今一番気にするべきと判断した物を、アメリアは問う。ベニートは目線を送ることなく、バッグの中に手を伸ばしながら答えた。
「服はどれでもいい。清潔であればな」
「わかりました」
自分の父が無駄なやり取りを嫌う人間であることは知っている。
取り敢えずシャワーを浴びるために、アメリアは部屋を後にしようと歩き出した。いつの間にか部屋に入っていたらしい執事が、行く先を示すようにドアを開ける。
去り際にもう一度振り向くと、ベニートはどこかに連絡するのか通信機器を操作しているようだった。
◇◆◇
最低限に体を清めたアメリアは、ラフな格好で家の裏口まで来ていた。すぐに出られるように車がつけられていて、その後部座席には既にベニートが乗っている。
アメリアが後ろに乗り込むと、付き添っていた執事が運転席に回り込む。出します、という挨拶と共に車は発進した。
取り敢えずは移動までに時間があるだろう、とアメリアはやっと一息吐いて、そこで言いそびれていたことがあったのを思い出す。
隣を見ると、ベニートは背もたれに体重を預けることなく、外を眺めていた。
「お父様。先程のお話、よろしいでしょうか」
「構わない」
「ウェイン……ブラックアウトの方々に、あんな言い方はどうかと思います」
強い意志を籠めたはずの言葉は、何故かそのまま口から出てくれない。零れ落ちるように弱く、すぐに消えてしまいそうだった。
だが、それでようやく届いたのか。そこで初めて、ベニートはアメリアを正面に見据える。
冷たい。
その双眸は、あまりに。
「彼らに肩入れしているのか」
「そういうわけでは、ありませんが、彼らが私を救ってくれたのは、事実です」
息をすることすら辛そうに。何度も声を切りながら、だが決して途中で止めることはなく。アメリアはベニートに言い放った。
それで興味を失って、ベニートは正面に顔を向ける。
「彼らには相応の対価を払ってある」
「ですが」
「契約に基づいた関係に感謝は要らない」
「私はそうは思えません。契約以上のことを、彼らはしてくれました」
癇に障ったのか、ベニートは正面を見たままで、その目を細く歪めた。
「無駄なことを……」
小さく忌々しげな呟き。アメリアは少し目を見開いた後、悔しそうに歯噛みして、顔を伏せた。
「彼らがどうだったかは関係ない。この一件は終わったことだ。もう関わることもないだろう」
「そう、ですね」
「下らない事を一々気にするな」
ため息交じりの言葉にアメリアはポケットの中の端末を握りしめる。
昔の父はこんなに冷たい人ではなかった。優しげな微笑みが似合う人だった。だが、変わってしまった。
壁の中での裏切りがそうさせたのか。まるで鉄仮面を被り、体に血が流れなくなったかのように。思い返せば、ここに来てから一度も笑ったところを見たことがない。
高潔な姿に抱いていた憧れも、今では畏怖に変わりつつある。
沈黙の帳が降りた車内で、アメリアは小さくため息を吐き、外を見やった。
「着きました」
程なくして、運転席の執事が車を止める。移動した距離はそう長くない。
回り込んでドアを開けた執事に礼を言って、アメリアは車から降りる。目の前に、周りと違う一際大きい倉庫のような建物があった。
恐らくここが目的地なのだろう。誰かと会うための場所には見えないが。
アメリアが見上げるように様子を窺っていると、執事がツカツカと先に進んでいった。その後ろを着いていくベニートを見て、アメリアも慌てて後を追う。
「ここに何の用なのですか?」
「じきにわかる」
不安を露わにしてアメリアが問うが、ベニートは特に気に留めた様子もなくはぐらかす。これ以上聞いても無意味だろうと、アメリアは口を噤んだ。
先に進んでいた執事が錆びた扉に手を掛ける。重い音を立てて開いたその中は、暗い口を覗かせるばかりだった。
得も言われない不安に足踏みするアメリアをよそに、ベニートは中に入っていく。その姿が完全に消えてから、アメリアは小走りで後を追った。
部屋は薄暗く、ただ広いだけで何もない。鉄格子から漏れる微かな光が照らすその中央に、一人の男が座っていた。こちらに気付いてから、男は余裕を持った動作で立ち上がる。
「お待ちしておりましたよ。ベニート氏」
笑いを滲ませるような喋り方と、スーツを着込んだ姿。整った微笑みを携えた若い顔が、ちらりとアメリアの方を向く。
「そちらがアメリア嬢ですね?」
「そうだ」
ベニートが答えると同時に、アメリアが前に出る。
「初めまして。アメリア・フェルセンです」
「これは、これは」
男は愉快極まりないというように笑みを深め、アメリアを舐め回すように見る。そうしてから一度噛み締めるように瞼を閉じて、再び美しい笑みを向けた。
「こちらこそ初めまして。私の名前はドイル。ドイル・サルヴァトーレと言います」
アメリアは半歩下がり、絶句と共に目を見開く。
サルヴァトーレの名はアメリアも知っていた。それも、脳裏に焼き付くほどに。
「なん、で」
その問いに答えず、目の前の男はただ笑う。




