アメリア・フェルセン
囚われの少女アメリア・フェルセンは何度目かわからないため息を吐いた。長いブロンドの髪も、今は輝きを失っている。
革表紙の並ぶ本棚に、見るからに高級品のソファー。テーブル。これを牢屋と表現するにはあまりにも洒落ているだろう。だが彼女の自由が及ぶ範囲は、この部屋の中だけだ。
呼べば誰かは来るのだろうが、話し相手にはなってくれない。並んだ本は難しすぎる。十代後半の退屈を満たす物は、この部屋にありはしない。
軽く反動をつけて立ち上がってから、アメリアは窓の傍まで歩く。鬱陶しそうにブラインドを上げてから、太陽の明かりに目を細めた。
1と2と……7日目か。
アメリアは右手で光を遮りながら、誘拐されてからの日数を数えた。再び上がってくるため息を堪えて、切り替えるために外を見る。
建ち並ぶ背の低いコンクリートが、奥へ向かって奔放に広がる。向きも高さもバラバラな灰色の波は、遥か先で唐突に止まった。
壁だ。どのビルも届かないほど巨大な壁が、視界の果てに鎮座していたのだ。霞むほど遠くにあるにも関わらず、それは膨大な長さと高さを持ってそこにあった。異常とも言える姿に、アメリアは堪えきれなくなった息を吐き出す。
それは、今までの諦観の籠もったものとは違う、苛立ちがハッキリと見て取れるものだった。強く目を瞑ってから、ソファーに戻ろうと振り返る。
その瞬間、揺れたと錯覚するほど大きな衝撃がアメリアを襲った。
小さく悲鳴を上げて、踏み出した足を咄嗟に引いた。頭を抱えてしゃがみ込んで、次の衝撃に備えようとする。近くにあるテーブルの下に潜り込むべきだとはわかっているのだが、一度縮こまった体は中々動いてくれない。ただただ目を閉じて震える。
だが、いつまで経っても次の異変はやってこない。
「な、何なのよ……もう」
不安をかき消すために強い言葉を使いながら、アメリアはおずおずと立ち上がる。外に出るべきか悩むように手を伸ばして、すぐにギュッとその手を胸に戻した。動き出す勇気はなく、心を落ち着かせるために深呼吸をする。
どれほどそうしていただろうか。アメリアの耳へ硬質な足音が届き始めた。ビクッと肩が跳ねてから、恐れに染まった目でドアの方を見やる。
カツカツ、というその足音は次第に大きくなる。耳に反響してこべりつく音に、アメリアは離れようとして後ずさった。
そして、唐突に音は止まり。
凄まじい打撃音と共にドアに穴が空く。
「ひゃあ!」
ドアをぶち割って侵入してきた腕に、アメリアは甲高い悲鳴を上げる。良く見ればそれは血まみれで、アメリアは完全に竦み上がった。その間にも腕はゴソゴソと這い回って、ドアノブを探し当ててから、形を確かめるようにまさぐる。
その手は、またも唐突にドアノブをへし折った。悲しむような軋みを上げて、ゆっくりとドアが開く。
「ただのノックで壊れるなんて、随分と頑丈な檻じゃないか」
入ってきたのは、全身血みどろの女性だった。
不気味に歪んだ口元と、瞳孔の開いた鋭い瞳。髪は高い位置で括られていて、そこから零れた一房が輪郭の左だけを覆う。肌に乗った赤の隙間からは褐色が覗き、女性にしては背が高い。
今までの道中を物語るように、右手にはサイレンサーのついたハンドガンが握られていた。
余裕のある首の動きが、アメリアの姿をゆらりと捉える。
「な、何……?」
「そう怖がらないで、お嬢さん。お名前を教えてくれるかな?」
にこやかな笑顔で手元の銃を鳴らして、女性は問う。
「ええと、名前?」
「そう、名前」
「アメリア。アメリア・フェルセンよ」
圧のある物言いに耐えられず、アメリアは素直に答えた。満足な答えだったのか、女性は嬉しそうに目を細める。
「それは良かった。ちょっと失礼」
そして一瞬で距離を詰めて、空いている左手でアメリアを抱えた。下から情けない声が聞こえるのを無視して、女性は窓に向かって歩みを早める。
背中に伝わる冷たい血の感触に、アメリアは眉を寄せた。
「ちょ、ちょっと、いきなり何!?」
「何ってそりゃあ助けに来たんだよ」
「貴方誰よ!」
「レディ」
「違う! それぐらい見ればわかるの!」
「あー。違うのはそっち、レディは私の名前だ。淑女って言うほどお上品ではないけどね」
暴れるアメリアを片手で抑えて、レディは窓から下の様子を覗いた。薄く笑みを浮かべてから半歩下がる。
「それと、余計な怪我をしたくなければ、少し落ち着いて欲しい」
どういうこと、とアメリアが聞き返す時間は無かった。
一瞬ぶれる視界に、連なった破壊音。何とか首を捻って見やると、さっきまで壁だった場所は人が通るのに丁度良い風穴に変わっていた。
このレディという女性がやったこと、ということは理解できるのだが、脳が理解を拒んで言葉が出ない。
絶句している隙に、レディはハンドガンを腰のホルスターに収めて、アメリアを胸の前に抱え直した。丁度「お姫様抱っこ」と言われる形である。
「降りるから。準備しといて」
「飛び降りるの!? ここから!?」
「いーち、にーの」
「待って、死――」
「さんっ!」
宣言と共に踏み出した一歩は余りに軽く、生まれた浮力を感じる一時すらない。
後は法則に引かれて落ちるだけだ。
「きゃあああああああああああ!!」
どうすることもできないアメリアは、こみ上がる感情に任せてただ叫ぶ。レディは楽しそうに笑いながらアメリアを抱き寄せて、その耳元に息がかかるまで、顔を近づける。
「あはは、叫ぶのは良いけど、舌を噛みたくないならそろそろ止めた方が良いよ」
嘲るような囁きだったが、アメリアは素直に口を閉じた。衝撃に備えて、ギュッと体を縮こまらせる。
それはすぐに訪れた。
重く鈍い衝撃。それは低い音となって空気を震わせ、土煙を巻き起こした。息つく一拍があって、何事もなかったようにレディは立ち上がる。
その腕の中で、アメリアはけほけほと咳き込んだ。
「怪我は?」
「……心に。一生もののトラウマになったわ」
「良かった、その程度ならすぐに慣れる」
一向に変わらない三日月の口に、アメリアは湿っぽい目を向ける。レディはそれを軽く受け流して、アメリアを地面に降ろした。
アメリアはすぐに服の土を払おうとして、べっとりと付いた血に息を呑む。恐る恐る隣を見て、さっきまで自分を抱えていた人間の、血に濡れた姿を再確認して、距離を取った。
「もう一度訊くわ、貴方、誰?」
「詳しい話をするのは、私の仕事じゃなくてね」
いまいち真意の読み取れない言葉にアメリアが質問を続けようとして、それはすぐに別の音に遮られた。
アメリアとレディのすぐ脇に、暗い赤色のスポーツカーが止まったのだ。素早く運転席のドアが開いて、一人の男性が顔を出す。
意志の強さを感じさせる目と質の硬そうな髪が特徴的な、まだ若さの残る顔立ち。全身のシルエットを隠すような、長いベージュのコートを羽織っている。
「上手く行ったみたいだな、レディ」
低く耳に染みるような声が嫌味なほどよく似合っていた。
「遅いよ。ウェイン」
「ぴったりだろうが。荷物は後ろにある、準備しとけ」
軽いやり取りを経て、レディはスポーツカーのトランクへと回る。ふぅ、と軽く息を吐いて、ウェインはアメリアに目を合わせた。
「アメリア・フェルセン嬢だな」
「ええ。そう、だけど」
「貴方のご家族の依頼で助けに来た。乗ってくれ」
男性が喋りながら運転席を操作して、後部座席のドアを開けた。早く乗れという言外の圧力に、アメリアは複雑そうな表情を浮かべて、視線をそらした。
追いかけるように覗き込んでから、ウェインは力を抜いて笑う。乱暴に頭を掻きながら、慣れた動作で運転席から降りた。
「知らない人の車には、勝手に乗っちゃいけないってか?」
「え? いや、まぁ、そうね」
「ならちょうど良い。ご両親の許可は得てる」
後ずさろうとしたアメリアは、しかし足が動き出す前に腕を掴まれて、動くことができなかった。いきなり腕を握られたことよりも、そこから伝わる冷たい感触にアメリアの肩が跳ねる。
驚いて見澄ませば、腕を掴んでいるのは左手の形を模した鋼鉄だった。機械義肢。純粋で完全な人間の姿が求められる壁の中では、禁忌とされた技術。
畏怖に固まるのを見逃さず、ウェインは後部座席へとアメリアを押し込んだ。
そのまま、抗議が始まる前に車のドアを閉める。
「まぁ安心してくれ。あんたはちゃんと、勝ち馬に乗っかったよ」
涼しげな表情で、ウェインは運転席に戻ってきた。
あまりにも言いたいことが多すぎるせいで、アメリアは形のある言葉を出すことができない。
「もう出せる。聞こえているか」
『あいよー。こっちも大丈夫』
ウェインが耳に付けたデバイスの電源を入れて語りかけると、耳元と屋根の上から返事が返ってきた。よし、と呟いて、ハンドルに手をかける。
「もう訳がわからないわ……」
頭を抱えるアメリアをミラーで確認して、ウェインは答えた。
「あんたは助かった。それだけわかってりゃあいい」
アクセルの踏み込みに答えてモーターが駆動し、タイヤが唸る。すぐにトップスピードまで跳ね上がったスポーツカーは、道の中央を駆け抜けた。




