多分恋のせい
体調不良があまりにも続くので、おかしな短編ができました。
風邪を引いて、立ち直れずにいた。
連日の不調に体を引きずるようにして日中を過ごし、夜間になると高熱が出て、体力がどんどん削れていった。
それでも生きていくからには起きて働いて食べてゆかねばならず、無理をしてはまた新たな疲れがプラスされ……というように、どんどんどんどん元気がなくなっていった。
長く果てしない道を、日ごと重くなってゆく荷物を背負いながら、じりじり進んでいるようなものだ。
折しもこの異常気象、灼熱の太陽が全ての調子を狂わせているようである。オフィスの冷房の効きも悪い。
仕事の最中は、じめじめした嫌な湿気と、汚れがとれきらない冷房のフィルタのせいで、うっすらかび臭い空気がぐるぐる出口なく巡回していた。
ついにある日、体力も気力もつきて、仕事中、がっくりと膝をついた。
ああもうダメだ、立てない歩けない、わたしはこのままここで風邪で死ぬ。
社員たちは皆忙しく、自分の事でせいいっぱいで、わたしを避けるように通り過ぎて行く。
冷や汗がつぶつぶと浮いてきて、ぱたぱたと床に落ちた。涙のようだ、もうわたしはきっと駄目だ、と思った時。
すっと、冷涼な輝きを放つペットボトルが目の前に差し出されたのだった。
「大丈夫、これを飲んで」
涼やかな声が落ちてきて、はっと見上げると、憧れのA氏がにこにこ笑っていた。
職場の照明を背景に、A氏からは後光が差していた。
目を丸くしているわたしに、ほら、水分をと言いながら、A氏はきゅぽんとペットの蓋をあけ、なんとそれをわたしの口にあてがい、中身を流し込んだのだった。
あーんして?
えっ、何、恥ずかしい、止せよっ。
だーめ、ね、あーん……?
おかしな妄想がアタマの片隅で繰り広げられる。
その間にペットの中身はどんどん口腔に入る。なんだこの液は。
よく冷やされたそれは不思議な甘みを持ち、体に染み込むようだ。
透明な輝きを放つ不思議な甘露よ。ごっくん…。
ああ、Aさん。
わたしは入社時から彼に憧れていた。
涼やかな声と穏やかな物腰。誰に対しても丁寧で感じよく接するこの方は、まさに王子。
彼女がいるのかわからないが、とにかくわたしにとっては、どんなアイドルよりも格好良くて、このまま一生独身を通してでも密かに思い続けたい位の人なのだった。
(いつだって物陰から見ていた、そのAさんが、わたしに手を差し伸べてくれている……)
この事実だけでも、十分に癒される。ああ、もう死んでも構わない。
しかし、このペットボトルの中身は一体。
……。
ペットがわたしの口から離れ、飲み込んだわたしは呆然とA氏を見上げている。
ちょっとあんた邪魔だよと言いながら課長が通り過ぎていった。確かにオフィスの真ん中で、四つん這いのわたしと、かがみこんでいるA氏は邪魔以外のなにものでもない。
……ふつふつふつふつ。
何か、熱いものが体の奥から湧き上がる。なんだなんだこれは。物凄い力が沸いて来たぞ。
「……Aさん」
「ん」
「一体それは、な」
何を飲ませたのか質問しようとしたとき、それは起きた。
ちょうどわたしたちを避けて通ろうとした事務員が、たこ足配線のコードに足を取られて転んだのだった。
「きゃー」
来客中だったのか、コーヒーカップが乗ったお盆を落としにかかる。そして側には社員らのノートパソコンが!
いかん。
次の瞬間、わたしは稲妻のような動きでA氏の視界から消えた。
しゅっ。ひらっ。とん。
体調不良は一体どこにいったのか、宙に舞いあがり、あとばらばらに落下してコーヒー爆弾をさく裂させるだけだった盆を片手で受け止め、もう片腕で、転び掛けた事務員を抱きかかえていたのだった。
「ああっ」
抱きかかえられた事務員は顔を真っ赤にして恥じらっている。もしかしたら、今のわたし、男前なのかもしれない。
そして、わたしは受け止めた盆を、そっと、繊細な宝石でも贈るかのように、事務員に返したのだった。
「かっ、かっこいい」
どこからかそんな声が聞こえてくる。
わたしは茫然とする。かっこいい、このわたしが。
一体何が起きているんだ、わたしの中で。
振り向いた時A氏が、穏やかににこにこと微笑んでいた。
(王子様が笑っていらっしゃる……)
ふつふつと湧き上がるこの力は一体。
それにしても何だこの使命感は。
今度こそA氏から聞きだそうとした瞬間、わたしはぎょくんと目を見開き耳を澄ました。
……感じた!
確かに感じたぞ!
「あっ、ちょっと君っ」
Aさんが呼び止める声が聞こえたが、止まっていられない。
わたしはスーツのタイトスカートが破れるかと思うほどの勢いでオフィスを飛び出し、グレーの颯のように往来に走り出た。赤レンガの歩道には、ほとんど人はいない。よし。
エネルギー充填!
スリー、ツー、ワン……。
「発射あっ」
どばばばばばばばば。
漲るパワーのままに、わたしは走り抜ける。サバンナのチーターだってわたしには追いつけぬ。
ぴゅっと巻き起こる風に、通りの並木は枝をしならせ、ばらばらと青い葉が散り落ちる。
行け、愛と正義のままに!
ぎゅいいんと走っていって、ききっと止まった。
会社から徒歩で数分のところだろう、最もわたしは5秒でここまで来たのだけれど。
洒落たアパートの三階のベランダをよじのぼり、身を乗り出している子供がひとり。空でも飛べると思っているのか、にこにこ笑っている。
「きゃー、ごろうちゃん、やめて」
ちょっと近所に出た帰りらしい母親だろうか、歩道で立ち止まって上を見上げ、真っ青になって叫んでいる。
わらわらと人々が集まってきた。野次馬だ。
「誰か、ごろうちゃんを助けて―」
母親が怒鳴っていた。よしきたぜ。
わたしはしゃがみこみ、赤レンガの歩道すれすれに体を落とすと、膝を跳ね上げるようにして跳んだ。
ひゅいん。
いくぜ、待ってろよ!
風を切り遙か上空を舞い上がったわたしは、素早くベランダの柵につかまり、今にも真っ逆さまに落ちようとしていた子供を抱えたのだった。
そしてそのまま、後方に体を弾ませ、くるくると回転しながら下降し着地した。
子供は、きゃっきゃと喜んでいる。
「あああっ、ごろうちゃん、あああありがとうございますっ、命の恩人です」
母親は泣きながら子供を抱きとり、周囲の人々はどよめいた。
「何者だあれは」
賛美の言葉など聞いている暇はない。次なる何かがわたしを呼ぶ。
あっ……、また何か助けを呼ぶ声が!
それにしてもこの漲る力は一体何だろう。
Aさん、あなたは何者か。
「あのっ、お名前を」
母親の叫びが聞こえたが振り向いている暇はない。
わたしは再び颯のように走り出した。
ちりちりちりーん。出前を運ぶ自転車がそばを通りかかったが、わたしの巻き起こす風に耐えきれなかったか、がしゃんと倒れる音が聞こえた。
わー、なにするんだ、俺の頭がラーメンだあ。いや、冷やし中華だあ。いや、餃子まみれだあ!
振り向いている余裕はない。今度こそスクランブルだ。
歩道を駆け抜け町中を走り、駐車場をつっきり……振り向く人々が、口々にあれはなんだ誰だと叫んでいる。
どんどんどんどんギャラリーが増えているようだ。
「あっ、あそこにいました。怪力ガールです。正義の味方がついにこの街にも現れましたあっ」
中継車まで追いかけて来たらしい。
高い声でまくしたてる女性アナの声が聞こえて来た。
構っていられない。
走って走って走って、ついにたどり着いたのは踏切の前。
今まさに電車が通り抜けようとするその時、線路の真ん中で転んで動けないばあちゃんがいた!
「ぎゃああああ、誰か助けてやってくれえっ」
と、杖をついたおじいさんが叫んでいる。
ここでも野次馬がたかっているが、皆、騒ぐだけでどうにもできずにいた。
パワーリミッターを外せ!
安全装置解除……かちっ。
オールグリーン、接続完了。行くぜ!
なんだかわからないが、ありったけの「やれそうな」単語を思い浮かべつつ、わたしは踏切の下にスライディングする。転んだままふるふる震えている老婆の目前にまで来た電車に立ち向かった。
「うおおおおおおおー」
キキキキキキイイイ!
わたしは電車の鼻づらに両手を当てて、足で踏みとどまったのだった。
電車は、やっと倒れているばあちゃんに気づいたところなのだろう。必死でブレーキをかけたが間に合わなかったようだ。それを、わたしは押しとどめているのである。
「いまだ、ばあちゃん」
わたしは怒鳴った。
しかし、おばあちゃんが立ち上がって自力で逃げる気配はない。
危機一髪。ピンチだ。その時、涼やかな声が聞こえた。
「さあおばあちゃん、今のうちに逃げよう」
ちらっと見ると、わたしを追いかけて来たのかA氏がにこにこ笑いながら、おばあちゃんを助け上げていた。
おばあちゃんと一緒に踏切の外に出て、バーの向こう側からA氏は言った。
「すごいね、一躍スーパーヒーローじゃないか。そんなパワーが君にあったなんて知らなかったよ」
わたしは息を切らしていた。
まだ止まらないか、この電車は!
両手で電車を抑えつつ、首だけA氏のほうに向け乍ら、わたしは叫んだ。
「すごいのはAさんのくれた魔法の何かです。一体あれ、何だったんですか」
「あれって何のこと」
「ほら、あれです。透明な不思議な水ですよっ」
パワーの水か。
どんな液か。
A氏はにこにこにこにこ微笑み、まるで仏のように穏やかだ。このスマイルにやられていた。不思議になんでもこなすA氏に励まされたならば、自分もなんでもできるような気がするものだ。
ああ、Aさん。あなたは神か。
ここに来て、走馬灯のようにAさんのことが頭を駆け巡る。
朝一でオフィスに来て、窓際で眩しそうに朝日を浴びているAさん。
新人の子のまちがいを、感じよく指摘し優しく指導しているAさん。
ああAさん、Aさん。
「何言ってんの、あれただの水だよ」
「えっ、あっ」
至近距離で電車がわめきたて、一気に力を失ったわたしは後方に倒れる。
迫る車輪。飛び散る火花。その時わたしは知ったのだった。
(こんなにまで、あなたが好きだったとは)
だけど時はすでに遅く、わたしはどこまでも高く、爽快なほどの青空に飛ばされ、くるくるくるくると小気味よく舞い上がったのだった。
素敵な恋愛ものがどうしても、書けません。