二月四日
二月四日
とうとう地球が終わる。
今日、はっきりとそれを実感させられた。
朝、空気の入れ換えをしようと開けた窓。そこから見える景色が、真っ暗だったのだ。この時の時刻は、午前九時。本当ならば、冬だとはいえ、とっくに太陽が東の空に昇っているはずである。
つまり、日の光を遮るまでに、月が迫ってきているということだ。
午後になっても、それは変わらなかった。一日中が皆既日食の状態である。
未来との約束の時刻が近づいてきたため、私は、片手に懐中電灯、もう一方の手に卵と牛乳の入ったビニル袋を持って家を出た。
ここ数日、毎日外出しているが、今日はいつもと様子がまるで違った。空が暗くなったというだけではない。「この街には、こんなにも居住者がいたのか」と、今さらながらに思わされるほどの人たちが、外に出てきていたのである。
外にいる人たちは、皆、一様に天を仰いでいた。
手を合わせ、念仏を唱えながら一心に月を拝んでいる老婆。咽び泣く娘の肩を抱き、黒色の空を睨み据えている父親。遠くのほうでは学生らしき男たちが、張り裂けんばかりの大声で何かを怒鳴っている。
そんな人たちの脇を抜け、私はコンビニへの道を急いだ。
コンビニの駐車場にも、四、五人ほどが集まっていた。
懐中電灯の光を当てながら近づくと、その中に、大きく手を振る子供の姿が見えた。
未来だ。
おや? 未来の隣にも人影がある。「一体、誰だろう?」と、私は目を凝らした。
それは、大人。どうやら女性のようだった。こちらに向かって、丁寧に頭を下げている。
「まぁ、行けば分かるだろう」そう思い、私は未来の傍へと歩を進めた。
「こんにちは、おじさん。何か、すごいね。夜みたいに真っ暗だよ」
「あぁ。すごいな」
私は、一応の相槌を打った。
だが、未来の前で『ムーン・インパクト』につながる話をするわけにはいかない。話題を逸らそうと、そのまま続けた。
「ところで、そちらの方は?」
「私のママだよ。ママ、こちらはおじさん。私のお友だちよ」
未来から紹介されるのと同時に、女性は再び深く頭を下げ、口を開いた。
「お世話になっています。未来の母です」
「お世話なんて、とんでもない」
私は大きく手を横に振った。
その動きで、持っているビニル袋がカサカサと音を立てる。
そうだ。渡す物があったのだ。
「あ、これ、卵と牛乳です。未来ちゃんと一緒に、おいしいケーキを作ってください」
「すみません、ありがとうございます」
何度も礼を述べたのち、母親はビニル袋を受け取った。
「おじさん、ありがとう」
親譲りの丁寧さで未来が頭を下げる。
私は、
「どう致しまして」
と、笑顔で返した。
「ママ。私、猫のところにいるね」
未来が三メートルほど離れたいつもの場所へと去って行く。
「まったく、落ち着きのない子で……」
苦笑しながら母親は、車止めに腰をかける未来へと目をやった。
「いや、しっかりした子ですよ」
世辞でも何でもなく、私は思ったままを口にした。
「そうでしょうか?」
「えぇ。未来ちゃん、まだ小学一年生ぐらいでしょう?」
私がそう問うと、母親はなぜか笑った。
「やっぱり、そう思われますよね。六、七歳ぐらいだろう、って。でも、本当は未来、もう十一歳なんですよ」
「え?」
思わず私は、驚きの声を出してしまった。
「びっくりなさるのも無理はないと思います。だって、誰が見ても、小学五年生だとは思えませんもの」
母親の視線に促され、私も未来を見た。
そういえば、昨日、猫の入った箱をひとりで外に出していたが、それができるだけの力があったのも、その歳ならばなるほどと頷ける。
「まぁ、たとえ十一歳であっても年相応、いや、それ以上にしっかりした子であることに変わりはないな」そんなことを考えながら未来を見ていた私に、改まった態度で母親が言った。
「本当に、ありがとうございました」
「え、何が?」
「未来の、お友だちになっていただいたことです」
「別に大したことではない」そう思った私は、
「いや、そんな……」
と、曖昧な返答をした。
「実は、私、あの時遠くから様子を見ていたんです」
「そうですか」
「はい。未来には、ひとりでお出かけするからついてきては駄目だと言われていましたが、やっぱり心配で……。それで、一昨日、帰宅するなり未来が、何も知らない振りをしている私に報告してくれたんです。ママ、私、生まれて初めてのお友だちができたのよ、って。あんなに喜んでいる未来の顔は、これまで一度も見たことがありませんでした。本当に、何とお礼を言ったらよいのか……」
母親の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
未来の友だちになったことを、こんなにも感謝されるとは思わなかった。
それにしても、私が未来の初めての友だちだとは、一体どういうことだろうか。賢く、気遣いもできる彼女に、これまでずっと友だちができなかったとは考え難いのだが……。
そんな私の疑問を察したのか、母親は、未来の生い立ちについて教えてくれた。
それは、私が見てきた未来の姿からは、とても想像できない話だった。
未来は、先天性の病を持って生まれてきた。心臓と肺の病気だ。病気は、完全な無菌状態でなければ、その生命を維持できないほど重篤だった。そのため、彼女は、生後直ぐに小児科のある大きな病院へと搬送された。
医師は未来の両親に、余命半年を告げた。
しかし、未来は、その死の宣告を自らの生命力で打破した。大きな手術を幾度も乗り越え、死の淵から何度も蘇ったのだ。
そうして六年の歳月が流れ、未来も就学できる年齢になった。
「学校に、行きたいなぁ。学校に行って、お友だちと遊びたい」
病院の無菌室で口癖のように彼女は言ったが、両親には、どうしてやることもできなかった。
生きているだけでも奇跡なのだ。退院はもちろん、無菌の個室から出ることさえ、未来にとっては、即刻死につながってしまう。
「せめて院内にあるキッズルームまで行ければ、入院している他の子供たちと友だちになれるかも知れないのに……」両親はそう願ったが、それも叶わぬ夢だった。
病室の開かない窓から見える景色。それが、未来の世界の全てだった。
友だちを作ることなど、到底できない環境だったのだ。
さらに三年の年月がすぎた、未来の九歳の誕生日。その日、父親が亡くなった。
「私の入院でお金がかかるから、パパは働きすぎて死んだんだ」彼女は自分を責めた。
そして、
「私、死にたい」
と、涙ながらに母親に訴えた。
“病は気から”の言葉のどおり、病気の最大の敵は気弱さである。
生まれて初めて弱気になっている娘の姿を見て、「このままでは、本当に未来が死んでしまう」と思った母親は、彼女に言った。
「未来、あなたの名前は、パパが付けたの。漢字で未来(みらい)と書くように決めたのもパパよ。どうして、その漢字があなたの名前になっているか分かる? 生きて欲しいからよ。パパが死んでもママが死んでも、未来にはずっと未来(みらい)まで生きていて欲しい。そんな気持ちで、パパはあなたの名前を未来に決めたの。だから、パパの想いを無駄にしないためにも、未来は生きなきゃならないの。ずっと先の、未来(みらい)を目指して……」
母親の言葉と亡き父親の想いを受け止めた未来は、この日を境に、以前のような病魔と闘う強い彼女へと戻った。新しい医師や看護師に自分を紹介する際、「漢字で未来(みらい)と書いて、“みく”っていうのよ」と伝えるようになったのもこの時からだ。
そして、今年一月。未来、十一歳。
繰り返される手術で体力を奪われ、未来の身体は著しく成長が遅れた。
だが、それでも彼女は、その小さな体で、必死に病気と闘っていた。
ちょうどそのころ、病院に大きな変化が起きた。
『ムーン・インパクト』
それが、全ての元凶だった。
月が落ちてくることが分かった日から、医師や看護師は次々と病院を去って行った。家族や愛する者の許へと向かったのである。
病院に残ったのは、数名の医師と看護師だけだった。多くの入院患者を前にして、彼らは途方に暮れた。
一月二十二日。ひとりの医師が未来の病室を訪れ、病院の閉鎖が決まったことを告げた。
医師は未来に、二つの選択肢のうち、どちらかを選ぶようにと指示をした。
ひとつは、このまま医師のいない病院に残り、月が落ちる日まで無菌室ですごすこと。もうひとつは、死をも覚悟の上でこの病室を出ること、だ。
未来は、迷うことなく病室を出ることを決めた。
そんな彼女に、医師は三週間分の薬を渡した。
それは、薬事法において、子供への使用が禁止されている薬だった。
薬を服用している間は、病気を忘れて普通の生活ができる。ただし、心臓への負担を増加させてしまう副作用が、二週間をすぎた辺りから徐々に出てくる。それは、未来の体では到底耐えられるものではない。そのため、一度でも服用すれば、遅くとも三週間後には、たとえ月が落ちてこなかったとしても薬の副作用による死がやってくる。
つまり、その薬は、確実な死と引き換えに、『ムーン・インパクト』までの安心を与えてくれるものだったのである。
こうして未来は、医師から貰った薬を手に、外の世界へと足を踏み出した。
未来の母親の話を聞き終え、私は、自分が大きな勘違いをしていたことに気がついた。
それを確認する意味で、私は尋ねた。
「それでは、未来ちゃんは、『ムーン・インパクト』のことを……」
「えぇ、知っています」
「では、地球が終わると知っているのに、何故?」
「どうして猫に一生懸命になっていたのか、ですね。私も、昨日、それを未来に聞きました。すると、あの子、言ったんです。今、生まれてくる子たちは、皆、可哀相って思われながら生まれてくるのよ。それは私と同じなの、って。……確かにそうでした。未来が生まれた時、病気を知った周囲の人たちは、口々に可哀相だと嘆いていましたから。でも、未来自身は違ったみたいです。私は、自分が可哀相なんてこれっぽっちも思わなかった、って。だから、たとえもうすぐ消えてしまう命だと分かっていても、生まれてくる時は、おめでとうって誰かが迎えてあげないといけないの。それは、今、私にしかできないことなの、って。それが、あの子が猫の傍にいた理由みたいです」
そう話すと、母親は未来に視線をやった。
消えゆく運命を憂えるのではなく、たとえほんの一瞬でも、そこに命があることに喜びを感じ、精一杯に生きる。
それが、未来が十一年間で導き出した結論だったのだ。
母親が、未来の傍らへと歩み寄る。
それから何かを耳打ちすると、次の瞬間、
「やったー!」
と、未来の両手が大きく上がった。
すくりとその場に立ち上がると、未来は、直ぐ様私の許へと駆けてきた。
「走って平気なのか?」そう心配する私の前で、顔を紅潮させながら彼女は言った。
「ママが、猫たちをお家につれてってもいいよ、って」
「ほう、よかったなぁ」
「うん!」
未来は嬉しそうに頷いた。
動物の毛は、肺の病気にとって決してよいものではない。それを知っている私は、未来の後ろにいる母親に、「大丈夫なんですか?」と目で尋ねた。
母親は、少し考えた素振りを見せながらも、「はい」と返事の代わりに微笑んだ。
長時間外に出ていると、それだけ未来の体への負担が大きくなってしまう。
そう思った私は、名残惜しいが、別れを切り出すことにした。
「それでは、未来、私は帰るよ」
できるだけ自然に、そう努めて口にしたつもりだったが、言葉となった時のそれは、やはり震えていた。
「う、うん」
未来は、消え入りそうな声で返事をした。
「さようなら、未来」
彼女にそう告げ、母親に会釈する。
そのまま背を向け歩き出そうとする私を、未来が呼びとめた。
「ねぇ、おじさん」
「どうした?」
私は未来に目をやった。彼女の瞳も、真っ直ぐこちらを見ている。
「もし、明日、月が落ちてきて地球が終わったとしても、私たち、お友だちだよね?」
私は答えた。
「もちろんだ。『ムーン・インパクト』なんかで、私たちの仲は引き裂けやしない。未来と私は、これから先もずっと友だちだ」
それを聞いた途端、彼女の目に大粒の涙が溢れ出した。
泣きながら、それでも笑顔で別れようと、未来は必死で笑っていた。
「じゃあね、おじさん」
「あぁ。さようなら、未来」
私は歩き出した。
背中に、泣きじゃくる未来の声がぶつかる。
それは、私の胸の中でいつまでも響き続けていた。




