二月三日
二月三日
二月三日。今日は、節分だ。
本来、節分とは、季節を分ける日の前日を指す。そのため、立夏や立秋、立冬にも当然それはある。
だが、現在では、節分だと意識するのは、立春の前日だけになっているような気がする。
節分といえば豆まきだ。私の住んでいる地方では大豆だが、北海道出身の知人に聞いた話によれば、落花生をまく地域もあるのだそうだ。
まぁ、大豆にせよ落花生にせよ、邪気を払う豆であることに差異はない。
……しかし。
「今、一番払いたいあいつには、たとえ豆をまいたとしても何の効果もないだろう」コンビニに向かう道の途中で、忌ま忌ましくも日々大きくなっていく月を見上げながら、私はそんなことを考えていた。
コンビニに着くと、既に未来はそこにいた。昨日と同じ車止めに腰をかけ、昨日と同じ姿勢で下を向いている。どうやら、猫が入った段ボールの箱は、ひとりで外に出したようだ。小さな体なのに、意外と力がある子だと驚いた。
駐車場へと近づく私に、未来が気づいた。こちらへと小さく何度も手を振っている。それから彼女は、その手で「おいで、おいで」と手招きをした。
「猫に何かあったのか?」小走りで駆け寄ろうとした私だったが、すんでのところでそれを思い止まった。手招きしているのと逆の手の人差し指が、口元に当てられているのを見つけたからだ。
あれは、「静かに」のジェスチャーだ。
つまり、彼女は、「静かに、おいで」と言っているのである。
靴音にさえも気を配りながら、私は、そっと未来の傍らへと歩み寄った。
「どうしたんだ?」そう目で尋ねる私に、彼女は、黙って段ボール箱の中を指差した。
箱の中には昨日の猫がいた。
何だろうか、急に痩せてしまったように見える。
よくよく覗き込み、私は、その原因を発見した。
生まれていたのだ。
生まれた子猫の数は、全部で三匹。黒色と白色と、白黒まだら模様の猫だった。母猫にぴったりと寄り添い、小さく動いている。まだ生まれたばかりだからか、目は閉じたままだった。
囁くような小さな声で、未来が聞いてきた。
「可愛いでしょう?」
確かに、子猫は可愛かった。
しかし、私は、直ぐにそう返事をすることができなかった。「生まれたばかりのこの命も、明後日には消えてしまうのだ」と、子猫の誕生を憐れみで感じ取っている自分がいることに、気づいてしまったからである。
『ムーン・インパクト』を知らない少女と関わりを持てば、私もそれを忘れられるのではないか。そんなことを考えていたが、甘かった。間近に迫っている死を忘れることなど、到底できなかったのである。
自己嫌悪に陥ってしまうほど無感情に、私は答えた。
「あぁ。可愛いな」
私の反応が小さくてつまらなかったのか、未来は直ぐに箱へと視線を戻した。
だが、その顔には、絶えることなく笑みが浮かんでいる。子猫の誕生を心底喜んでいる様子だ。
「月が落ちてくることを知らなければ、私も同じ顔ができただろうに……」そんなことを思いながら、私は未来を見つめた。
その時、
「あ、そうだ」
急に何かを思い出したように、未来が呟いた。
「どうした?」
「名前よ。子猫たちの名前を決めなきゃ。おじさんも考えてくれる?」
折角の申し出だが、これは辞退せねばなるまい。「明後日には子猫たちも死んでしまう」などと思っている私に、その資格はないからだ。
そこで、私は言った。
「あぁ、考えてみよう。だが、名前は未来が決めたほうが、猫たちは嬉しいんじゃないのか? だって、未来は、親猫の命を救った恩人なんだから」
すると、彼女は即座に返した。
「それなら、おじさんも同じじゃない」
私は口籠もってしまった。昨日から感じていたのだが、幼い見た目と違って本当に賢い子だ。
上手く返答できずにいる私に、未来は続けた。
「あ、でもね、これにしようかなって考えてる名前が、本当はあるの」
何だ、候補はあるのか。
安堵し、私は尋ねた。
「そうか。それで、どんな名前だ?」
「えーと、ね……」
未来は、三匹の子猫の名を紹介した。
黒い子猫はミーで、白い子猫がクーなのだそうだ。それぞれ、自分の名前から一文字ずつ取って付けたらしい。
「おや?」私は疑問に思った。未来の名前は二文字なのに、子猫は三匹いる。これでは、三匹目の名前が付けられなくなってしまうではないか、と。
私は、白黒まだら模様の子猫を指差して聞いた。
「じゃあ、この猫は何て名前なんだ?」
「あ、この子? この子はねぇ、おじさんよ」
「お、おじさん?」
「そう。おじさん。だって、この子だけ男の子だから。それに、ほら、よーく見て。この子の顔、どことなくおじさんに似てるでしょう?」
未来にそう言われ、私は、その子猫の顔をしげしげと見つめた。
別に私に似ているとは思わなかったが、おじさんと名付けられた子猫は、それを意に介す様子もなく、母猫の傍らで静かに眠っていた。
まぁ、本人が、……いや、本猫が気にしていないようなので、これでいいのだろう。
かくして、三匹の子猫の名前は、ミーとクー、それと、おじさんに決まった。
「おめでとう。今日が、あなたたちのお誕生日ね」
子猫を起こさぬよう小さく拍手をして、未来がそれを祝福する。
しかし、二日後が命日になることまでを知っている私の胸中にあるのは、憐憫の情。やはり、子猫たちの誕生を不憫に思いこそすれ、めでたいと感じることはできなかった。
そんな私に、無邪気な瞳を向けて未来が尋ねた。
「ねぇ、おじさんのお誕生日は、いつなの?」
この質問には本当は答えたくないのだが、聞かれてしまっては仕方がない。
私は、正直に告げた。
「明後日。二月五日だ」
あまりにも日が近かったからか、それを聞いた未来の表情が、一瞬、驚きに変わった。
「へぇ、もう直ぐじゃない。おめでとう。おじさん」
「あぁ。ありがとう」
「ねぇ、聞いてもいい? ケーキは、食べるの?」
甘い物は苦手で、もうずっと前から誕生日にケーキを食べる習慣などなくしている。
私は、答えた。
「いや、食べないな」
「そうなの」
残念そうに未来は俯いた。
「何だ、ケーキが食べたかったのか?」
「え? う、うん。でも、街のケーキ屋さんはどこも閉まってて……。もし、おじさんがケーキを食べるのなら、売ってる場所を教えて貰おうって思ったんだけど……」
友だちである未来のために、「ケーキぐらいどうにかしてあげたい」と思うのだが、どうにもできない。今、食べ物を売っている場所があるのなら、こちらが聞きたいくらいなのだ。
「残念だが、知らないな」
私は、そう返答するしかなかった。
「やっぱり。ママもね、あちこち探してくれたんだけど、見つからなかったの」
未来がその顔を暗くする。
それは、昨日、私が、猫の餌を持っていないと告げた時と同じものだった。
私の中で、再び、「どうにかして未来の願いを叶えたい」という想いが湧き上がってきた。
ただし、それは、『ムーン・インパクト』を忘れるためでは決してなく、純粋に「未来を笑顔にさせたい」という気持ちからだった。
彼女のために、何かできることはないだろうか。
取り敢えず私は、会話の中でそれを探っていくことにした。
「なぁ、未来」
「ん?」
「作れないのか? ケーキ」
「うん。ママもね、売ってないのなら作ろうって、材料を集めてくれたんだけど、どうしても足りないの」
「何が足りないんだ?」
「卵と牛乳よ。この二つは賞味期限が短いから、もうどこにもないんだって」
卵と牛乳。それならば、……ある。
一昨日、飯尾君が持ってきてくれた物が家の冷蔵庫に保管されている。
奇跡だとしか言いようのないその偶然に、高鳴る胸の鼓動を抑えつつ、私は尋ねた。
「足りないのは、卵と牛乳だけか?」
「えぇ。そうよ」
よし! 私は、心の中でこぶしを握り締めた。
「未来、ケーキ、食べられるかも知れないぞ」
「え? 本当?」
未来の瞳が、期待の色に輝いた。
「あぁ。私の家にあるんだ、卵と牛乳。それをあげよう」
「でも……」
猫の餌とは異なり、絶対に手に入らないことが分かっているからだろう、未来は、戸惑いの表情を私に見せた。
「遠慮するな。未来に貰って欲しいんだ。だって、私たちは、友だちだろう?」
「……友だち。そうか、私とおじさんは、お友だちなのよね!」
ケーキの材料を貰えることよりも、友だちがいると確認できたことのほうが、未来にとっては嬉しかったようだ。
「そうだ。だから、貰ってくれるよな」
「うん、ありがとう!」
その瞳に涙を滲ませ、未来は笑った。
昨日より随分早い時間だったが、「今日はもう帰らなきゃ」と彼女が言うので、卵と牛乳は明日渡すことになった。
忘れぬよう、気をつけなければ。




