二月二日
二月二日
久しぶりに夢を見た。親父とお袋の夢だ。
昨日、飯尾君が両親の話をしていたから、それで思い出したのだろう。
“夢のお告げ”というわけではないが、明後日の予定にしていたのを繰り上げ、今朝、墓参りに行ってきた。
両親が眠る霊園までは自宅から車で二時間ほどかかるのだが、道が驚くほどに空いていて、一時間あまりで着くことができた。
前回墓を参ったのは去年の年末だったから、まだひと月あまりしか経っていない。それなのに、霊園は、どこか寂れた雰囲気を感じさせるようになっていた。もともと賑わうような場所ではないが、それを踏まえてもそうだったのである。
この霊園には、大小合わせて千を超える墓石が並んでいる。
だが、訪れている縁者は数えるほどしかいなかった。
三日後には、地球上にいる誰もが墓石で眠る人たちと同じ場所に行くのだから、どの道すぐに会える。そう考えれば、無理にきておく必要はないのだろう。今しかない貴重な時間は、今を共に生きている家族や愛する者のために使ったほうがよいに決まっている。もし私にも家族がいたならば、ここにくることはなかったと思う。
墓の掃除を終えた私は、水鉢に水を入れ、花立てに花を供えた。霊園の販売所は予想どおり閉まっていたので、花は自宅の庭で摘んだ名前も分からない冬花だ。
香炉に線香を立てて墓石の前にしゃがむと、風下になっているこちらに、線香独特の香りがゆったりと漂ってきた。
両手を合わせ、私はおもむろに両目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、いつもと同じ、四年前のあの事故のことだった。
四年前。それは私の書いた小説が、初めてテレビドラマで使われた年だった。
原作であった私の本もドラマのお陰か多少は売れ、まだ印税は入っていなかったものの、収入面で少し余裕が見えだした時期だった。
私は、予てから考えていたプレゼントを、両親に渡した。
ひと月ほどをかけ、南から北へと全国の温泉地を巡る国内旅行だ。本当ならば、世界豪華客船の旅ぐらい行かせてあげたかったのだが、さすがにそこまでは無理だった。
それでも両親は大いに喜び、いそいそと準備をすると、張り切って出かけた。
その日の夕方、悲劇は起きた。
最初の目的地である指宿温泉に向かっていた観光バスが、九州自動車道で事故を起こしたのである。
バスは横転し、そこに、後続の乗用車が突っ込んだ。何十もの車が玉突き事故を起こし、その模様は、メディアを通じて全国に放送された。
私は、それを自宅のテレビで知った。
いつもは対岸の火事のように何となく見ている事故の中継。そこに自分の両親の名前が出てきた時の混乱は、実際に経験した者にしか分からないだろう。
両親は重体で、近くの病院に運ばれたということだった。私は警察から搬送先を聞き、すぐに鹿児島に飛んだ。
深夜、漸く病院へと着いた。他人の迷惑など顧みずに、私は廊下を走った。
だが、病室に駆け込んだ時には、二人は既に帰らぬ人となっていた。
医師が、私に、両親の最後の様子を伝えてくれた。
二人は、今際の際まで私の心配をしていたそうだ。
痛かったろうに「痛い」とも言わず、苦しかったろうに「苦しい」とも言わず、私のことだけを……。
親にとっては、たとえ幾つになっていても、子供は子供なのだ。
そんな両親なのに、私は最後まで親孝行ができなかった。
瞼を開き、私は目の前にいる両親に語りかけた。
「親父、お袋。もうすぐ、そっちに行くよ。あと四、五十年は生きるつもりでいたのに、予定より随分と早くなってしまった。三日後だ。信じられないだろ? でも、本当なんだ。月が地球に落ちるんだってさ。……なぁ、そっちにも温泉あるのかな? もしあるんだったら、三人で行こう。ゆっくりと湯に浸かって、普段より少しだけいい物食べて、そして、その後、二人の肩、叩きたいんだ」
墓石は何も答えてはくれなかった。
遠くのほうから、喉を詰まらせたように苦しげに鳴くツグミの声が、小さく聞こえた。
霊園から自宅へ戻り、午後二時すぎに遅めの昼食を取った。その後、昨日のことを思い出し、どうしようかと迷ったのだが、結局、散歩に出かけることにした。
今日は、昨日とは逆の道順で歩いた。新興住宅地から路地を抜け、表通りを通って帰ってくるというコースだ。
住宅地を歩く際、飛び降り心中を見たマンションの脇を通った。
横目でちらりと窺っただけだったが、既に遺体はなく、地面に広がっていた血液も綺麗に洗い流されていた。
火葬場もその煙を止めている今、引き取る者がいなければ遺体は処理されない。
つまり、彼らには肉親がいたということになる。
先立った彼らの遺体を前に、肉親は、今、何を思っていることだろう。
細い路地から表通りに出た。光景は、昨日と殆ど変わりない。どの店舗も盗む物などなくなってしまったため、荒らされることもなくなったのだろう。
通りを少し歩くと、コンビニの前に子供の姿を見つけた。こちらからは後ろ姿しか見えないが、背中まで伸びた長い髪から判断するに、女の子だ。
少女は、駐車場の車止めに腰をかけ、じっと俯いていた。
足を止めて暫く様子を見ていたが、まったく動く気配がない。
「具合が悪いのだろうか? それとも……」気になった私は、ゆっくりと近づいて行った。
少女が呼吸をする度に、小さな肩が揺れているのが分かった。
「よかった。生きている」ほっと胸を撫で下ろした私は、少女に話しかけた。
「こんなところに、独りでいたら危ないぞ」
いきなりの声かけだったからか、少女は驚いた顔をこちらに向けた。
だが、直ぐにそれは、迷子が親を見つけた時のような安堵の表情へと変わった。
真っ直ぐな瞳で私を見つめながら、少女は言った。
「おじさん、助けて」
見たところ、少女に怪我をしている様子はなかった。助けるべき対象が分からず、私は尋ねた。
「誰を?」
「これ」
少女は、自分の足元を指差した。
「ん?」
示されるままに覗き込んだ少女の足下には、段ボールの箱があり、その中で一匹の猫が丸まっていた。
「捨て猫、だな」
見たままの感想を私は述べた。
しかし、少女はそれをすぐに否定した。
「ただの捨て猫じゃないよ。この猫ね、お腹に赤ちゃんがいるの。お母さん猫なの」
「赤ちゃん?」
私は、反射的に猫の腹を見た。単に太っているだけだと思っていたが、そうではなかった。異様に突き出た腹には、子が宿っていたのだ。
「そう、赤ちゃんよ。多分、もうすぐ生まれると思うんだけど、お母さん猫の元気がなくて。ねぇ、おじさん、助けて」
「助けて」と言われても、私は獣医ではない。いや、それ以前に、もうすぐ地球そのものが終わるというのに、猫など助けて何になるというのか。
「放っておけばいい」そんな結論に達した私の胸中など知る由もなく、少女は話を続けた。
「お母さん猫ね、お腹が空いてるんだと思うの。でも、お家にあった物をあげても食べてくれなくて。おじさん、猫が食べる物、何か持ってない?」
猫を飼っていない私が、その餌など持っているわけがない。
期待を込めた瞳をこちらに向ける少女に、私は素っ気なく答えた。
「いや、持ってないな」
「そう」
肩を落とした少女は、悲しそうに箱の中の猫へと視線を戻した。
その様子を見つめながら、私はふと思った。「ひょっとするとこの子は、三日後には月が落ちてきて自分も死んでしまう、ということを知らないのではないか?」と。知っていれば、いくら子供であっても捨て猫に現を抜かすような気持ちにはなれないはずだ。
……それならば。
私は、「どうにかして少女の願いを叶えてやろう」と考えた。
『ムーン・インパクト』を知らない少女と関わりを持てば、私も、ほんのひと時でもそれを忘れられるのではないか。そう思ったのである。
そうと決まれば、先ずは猫を助けなければ。
私は、周囲を見回した。
「頑張って」
必死に話しかけながら猫の背中を撫でている少女。その先に、無残に出入り口を壊されたコンビニが見えた。
「もしかしたら……」私はコンビニに足を向けた。
それに気づいた少女が、
「おじさん、猫の食べ物、見つけたの?」
と、あとをついてくる。
店の中は、割れたガラスが散乱していた。
「危ないから、ついてきちゃ駄目だ」
そう少女に告げると、私は店内に足を踏み入れた。
このコンビニには何度かきているので、場所は大体把握している。
出入り口からすぐの通路を真っ直ぐに進むと、最奥の一番下の棚を確認した。
……あった。キャットフードだ。
人間の食べ物はもうないだろうが、これは残っているかも知れないと思ったのだ。
予想が当たり満足している私に、出入り口のほうから声がかかった。
「あった?」
「あぁ、見つけたよ。」
私は、手に取ったキャットフードを少女に振って見せた。
キャットフードはいずれも缶入りで、四種類あった。
取り敢えず、全種類をひとつずつ持って行くことにした。
「ほら、受け取れ」
出入り口で四つの缶を手渡そうとする私に、怪訝な顔をして少女が尋ねた。
「ねぇ、おじさん。お金は?」
見た目は小学一年生ぐらいなのに、なかなかどうして立派な子だ。
返答に困った私は、
「え、えっと、今日から二月五日まではサービス期間中で、全部無料なんだ」
と、苦しい言いわけをした。
「ふーん、そうなんだ」
分かったようなそうでないような、複雑な表情で少女は頷いた。
「さぁ、急いで猫のところに行こう」
何となく決まりが悪くなり、私は、駐車場へと先に立って歩き出した。
後ろから、
「お菓子は、ないのね」
と、残念そうに呟く少女の声が聞こえた。
私たちは、再び駐車場へと戻って来た。
猫、特に飼い猫は、決まった物ばかりを食べるという話を聞いたような気がする。そのため、別の餌を与えても食べないことが多いのだそうだ。少女が、「家にあった物をあげても食べてくれない」と言っていたのも、それが原因だろう。
「この四つのキャットフードの中のどれかが、飼われていた時に食べていた物と同じだといいが……」そう思いながら、私は缶を開けて猫の鼻先に出した。
一つ目、二つ目は、はずれだった。舌先でちろりと舐めるのだが、食べようとはしない。
あと二つ。「どちらにしようか」と悩んでいる私の横から少女が手を出した。
「食べないと駄目よ。あなた、お母さんになるんだから」
そう言って少女は、三種類目の缶の中身を猫の口元に押しつけた。そのまま無理矢理にでも口の中に押し込みそうな勢いだ。
しかし、これもいつもの餌ではなかったらしく、猫はそっぽを向いてしまった。
「最後だ」
私は四つ目の缶を開け、少女に渡した。
「お願い、……食べて」
震える手で、少女はそれを猫の前に置いた。
猫に興味などなかった私までもが、この時ばかりは、「頼む、食べてくれ」と、心の中で祈っていた。
少女と私の祈りは、通じた。
小さく口を開け、餌を食んだのである。
「おじさん。食べた、食べたよ!」
満面の笑みを浮かべて、少女が私を見る。大きく頷き、私もそれに答えた。
ひと口食べた後は順調だった。あっという間に残りも全て平らげた。
食事を終えると、先ほどまでが嘘だったかのように猫は活力を取り戻した。
満足気に喉を鳴らす猫の頭を撫でながら、少女が言った。
「これで、もう大丈夫……だよね?」
「あぁ、もちろん。君の優しい気持ちが、猫を元気にしたんだ」
私がそう答えると、少女は、はにかむように笑った。
私たちが見守る中、やがて猫は眠りについた。
撫でていた手を猫から離し、少女が口を開いた。
「ねぇ、おじさん」
「ん?」
呼びかけられ、私は少女に目をやった。どうしたのだろうか。すごく真剣な表情をしている。
「おじさん、私の、お友だちになってくれない?」
「友だち?」
私は思わず聞き返してしまった。
友だちなど同級生にいくらでもいるだろうに、何故、親子ほども年の離れた私にそんなことを頼むのか分からなかった。
「そう、お友だちよ。駄目?」
澄んだ少女の瞳が、私を射抜く。
戸惑いがちに、私は答えた。
「いや、駄目じゃないが……」
「じゃあ、決まりね。おじさんと私は、今日からお友だちよ」
少女は、まるで生まれて初めての友だちができたかのように、心の底から喜んでいた。
その後、友だちなのに互いの名前すら知らないのは変だという彼女の提案で、私たちは自己紹介をした。
少女は、
「漢字で未来(みらい)と書いて、“みく”っていうのよ」
と、自分の名前を教えてくれた。
私も名を伝えたのだが、覚えにくいという理由で、これからも「おじさん」と呼ばれることが決まってしまった。
未来の家では動物を飼うことができないらしく、猫は、段ボールの箱に入れたままコンビニの中に置いておくことになった。別に私が預かってもよかったのだが、身重の猫が家にいるのは正直煩わしいので言い出さなかった。
私たちは、明日も会うことを約束して別れた。
『ムーン・インパクト』までに残された時間は、今日を入れてもあと四日しかない。そんな日にする“明日の約束”など、不確か極まりないものだ。
しかし、私は、明日あのコンビニで未来と再会していると思う。
何故なら、私たちは、友だちなのだから……。




