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二月一日


              二月一日

            

 新聞紙面やテレビで『ムーン・インパクト』が報じられてから、ひと月が経った。

 新しい年を迎えて華やいでいた日本に、大きな影が差したあの日を私は忘れない。


 正月。初詣の様子を伝えていたテレビ中継が突然途絶え、政府の緊急放送に切り替わった。画面に映し出された内閣総理大臣の第一声に、私は自分の耳を疑った。

「月が落ちてくるかも知れません。月の地球衝突、『ムーン・インパクト』が起きる危険性が出てきました」

 月とは、夜空に見えるあの月か。

 悪い冗談だと思ったが、そうではなかった。

 緊急放送後、専門家からの説明があった。

 私は科学が苦手なので詳しくは理解できなかったが、何でも、地球と月との間で取れていた引力のバランスが崩れたのだそうだ。本来、月は、年間三センチメートルずつ地球から離れているのだが、それが、突如、急激な勢いで地球に引き寄せられ始めたのだという。このままだと四十パーセントの確率で、三週間以内に衝突するのだそうだ。

 月の落下予測地点は、日本から南東に三千キロメートル離れた太平洋上。「三千キロ」と言えば結構な距離に聞こえるが、それは月の直径にも満たない。

 もし衝突すれば、衝突波の影響による地殻津波で、日本は地表十キロメートルまでを(えぐ)られ、約数十秒で消滅。飛び散った岩石は気化し、二十四時間以内に、摂氏六千度の高温で地球表面を覆い尽くすのだという。

 まさしく、地球最後の時が訪れるのだ。

 この危機的状況を回避する方法は、ひとつ。それは、月を破壊してしまうことだった。

 正月の緊急放送から一週間後。核弾頭を搭載した衛星ミサイル“アース・キス(地球からのご挨拶)”が、米国から月に向かって打ち上げられた。核という無差別大量殺人兵器が、人類の役に立つ初めての瞬間だった。地球の危機を救うべく“アース・キス”は、その名のとおりに月の右頬を正確にとらえた。だが、一部を破壊するにとどまり、全てを消滅させるまでには至らなかった。

 この日のミサイル攻撃により、月の速度が落ち、地球衝突までの日数が約半月伸びたが、同時に、その確率は九十パーセントにまで上がってしまった。

 “アース・キス”の失敗後、直ぐに二発目のミサイル発射が検討された。

 しかし、もはや手遅れだった。確実に月に命中させるためには、一発目と同等の時間を要するからだ。

 もし一週間後に破壊できたとしても、その時では、地球と月との距離が近すぎて、破壊された月の断片が、大気圏を抜けて地表に降り注ぐことになってしまう。

 当然、自殺行為だとも言える二発目発射の選択をする国はなかった。

 万策尽きた私たち地球人は、左下部が欠けた月を、ただ見上げるより他なくなった。


 ……もうやめよう。これ以上過去を振り返っても仕方がない。話題を変えることにする。

 今朝、久しぶりに外に出てみた。外出は危険だと聞いていたが、どうしても太陽の光に当たりたくなったのだ。

 近所を少し歩いただけだが、その惨状は目にあまるものだった。

 大破した車やバイク。あちこちに散乱したゴミの山。それを漁っているカラスの群れ。腐った食べ物のすえた臭いや、何かを燃やしたような臭いが辺りに漂い、胸がむかついてくる。

 様ざまな店が軒を連ねる表通りは、もっと酷かった。

 スーパーやコンビニ、飲食店といった食品を扱う店舗は、下ろしているシャッターを壊され、押し入られていた。

 国から、『ムーン・インパクト』までを生きていくのに必要な量の救援物資が、三週間ほど前に全国民に配布されてはいたが、それは米や缶詰ばかりだった。「どうせ死ぬのならば、それまでにもっといい物を食べたい」そう考える者たちが、店舗から食品を盗み出したのだろう。

 店の傍には必ずと言ってよいほど設置してある自動販売機も同様だった。こじ開けられ、中身が抜き出されている。周囲には、今では無用の長物となった紙幣や硬貨が散らばっていた。

 どこを見ても、「本当にここは日本なのか?」と疑いたくなる光景だ。

 もしもタイムマシンがあって、過去からきた人がこの荒れ果てた現状を見たらどう思うだろうか。「警察はどうしたのだ?」と聞くかも知れない。

 しかし、それは愚かな質問だ。

 『ムーン・インパクト』が確定的となった日、殆どの人々は、働くことをやめたのだ。

 金を稼ぐ必要がなくなったからという理由もある。だが、最も大きな理由は、「地球最後の時まで、愛する人と一秒でも長く一緒にいたい」と思う気持ちからだった。それは、たとえ警察官といえども例外ではなく、そのため、盗みや殺人を犯す者がいたとしても、放置されるようになったのだ。

 もっとも、警察だけでなく裁判所も機能していないため、たとえ逮捕しても犯罪者に刑罰を科すことはできない。もとより、裁判をする時間さえ、今は残されていないのだが……。

 機能していないと言えば、それは警察や裁判所だけではない。私が世話になっていた出版社もそれに含まれるし、身近なものでは、病院や学校などもそうである。

 水道、ガス、電気といったライフラインは問題なく使えるが、それを管理している人間は誰もいない。当然、故障しても修理してくれる人はいない。

 だが、別にそれでも構わない。

 今日を含め、あと五日だけもてばよいの話なのだから……。


 表通りから路地に入り、私は住宅街へと歩を進めた。一軒家だけでなく、マンションも多く建っている新興住宅地である。

 とある住宅の前を通りすぎた時、三十メートルほど先に、人の姿を見つけた。路上ではなく、マンションの上だ。

 遠いので顔まではよく分からないが、二人いる。男女だ。

 「隠れて見るなら覗きだが、堂々と見ているのだからこの場合は違うだろう」そう自分に言い聞かせ、私は二人の行動を見守った。

 どうやら二人は抱き合っている様子だった。想像力がそう見せているのかも知れないが、口づけを交わしているようでもある。

 「外なのに、始めるのか?」そう思った次の瞬間、いきなり二人の体が宙に舞った。

 ……飛び降りたのだ。

 私は、大急ぎでマンションの下まで走った。

 だが、既に手遅れだった。抱き合った姿勢のまま、二人はこと切れていた。

 男性のほうは頭から落ちたらしく顔が分からないが、女性は明らかに私より年下だった。

 私は手を合わせると、ジャケットを脱いでそっと二人に被せた。

 他にしてやれることは、何もなかった。

 言い知れぬ重い気持ちで、私はその場を離れた。


 帰路の途中、昨日のニュースで放送されていた内容を思い出した。

 それは、今年一月の自殺者数が、昨年の年間人数を上回ったという話だった。

 自殺の理由は、大別して二つに分けられるらしい。

 ひとつは、「月に殺されるなんてまっぴらだ。それならば、いっそ自分の手で……」と考えたから。そして、もうひとつは、「地球最後の日は、この人と一緒にいたい」と決めていた相手に、それを断られたからだ。

 因みに、全自殺者のうち、およそ八割は、後者が理由なのだそうだ。

 確かに、「地球最後の日なのに、自分は好きな人の隣にいることさえ許されないのだ」と知らしめられた時の絶望感は、想像に難くない。

 そう考えると、先ほどマンションから飛び降りたあの二人は、ある意味、幸せだったのかも知れない。

 少なくとも、愛する人と死を共にすることはできたのだから……。


 自宅に戻って冷えた室内を暖めていると、来客があった。

 デビュー当時から付き合いのある出版社の担当、(いい)()君だ。

 まったくの無名だったころから付いてくれている彼には、物書きの私でもここに書き表せないほどの恩がある。しかも、お互い独身で年齢も同じだということもあり、現在では、作家とその担当という垣根を越え、親友としてのつながりを持つようになっていた。

 応接間に招き入れた私に、開口一番、飯尾君は、

「まるで小説みたいな世の中になったな」

 と、言った。

「小説より酷いよ」

 私はそう答えた。

 管理がなされていないため、異常にカルキ臭くなった水道水で淹れた緑茶を啜りながら、その後、暫く私たちは黙り込んだ。

 恐らく、彼も見たのだろう。今し方私が見てきたのと同じ、まさに末法的なあの外の光景を……。

 五分ほどしてからだろうか、漸く飯尾君が口を開いた。

「今日は、先生にお別れを言いにきたんだ。僕は、これから実家に帰ろうと思っている」

「そうか。飯尾君には、実家があったんだったな」

 似たような境遇の私たちだが、唯一の大きな違いはそこだった。四年前に交通事故で両親を亡くしてから天涯孤独の身となった私に対し、彼の両親は健在だったのだ。

「実家に帰って、何をするんだ?」

 興味半分で尋ねた私に、彼は真顔で、

「肩叩きだよ」

 と告げた。

「肩叩き?」

「あぁ。“孝行したい時に親はなし”なんて言うが、まさか、親より先に地球がなくなってしまうなんて思いもしなかった。こんなことなら、もっと早くに色いろしてあげていればよかったよ。今となっては、両親が欲しがっている物が分かったとしても、買うことができないんだからな。できる精一杯の親孝行と言えば、肩を叩いてやるくらいだろう?」

「確かに」

 私は頷いた。

 この世が終わると分かった日から、世界中の貨幣価値は全てゼロになった。金だけでなく、装飾品や貴金属などもそうだ。今、物を、特に食べ物を手に入れようと思うのならば、方法は三つ。物々交換するか、それとも、盗むか、奪うかだ。

「このひと月で、世の中は大きく変わってしまった。何だか、夢を見ているみたいだよ。悪い夢を……」

 そう言って俯く飯尾君を、何とか励まそうと私は答えた。

「その悪夢も、四日後には終わるよ。何もかもが消えてなくなる。……でも、私は思うんだ。たとえ肉体は消滅しても、人から貰った温かさは、その魂に永遠に刻まれるんじゃないか、って。だから、飯尾君が両親の肩を叩けば、その温もりは、未来永劫二人の魂に伝わり続けるはずさ」

「そうかな。……いや、そうだよな。じゃあ、地球最後の日には、筋肉痛で腕が上がらないってくらいになるまで、肩叩きを頑張るとするか」

 飯尾君は、今日初めての笑顔を私に見せた。

 それから、私たちは、小一時間ほど昔話に花を咲かせた。

 別れしなに彼は、

「おっと、忘れるところだった」

 と、ビニル袋に入った物を私に手渡した。

 何だろう。ずしりと重い。私は、袋の中を覗き込んだ。

 中には、卵が一パックと牛乳が二本、入っていた。

 どちらも、ほんの二か月前までは小銭で買えていたものだ。だが、日持ちがしないこれらの食品は、今ではどこを探しても手に入らない。

「こんな貴重な物、受け取れないよ」

 私は袋を返そうとしたが、彼は(かたく)なにそれを拒んだ。

「それ、酪農をやっている知り合いの夫婦に渡されたんだ。その夫婦、先生が書く小説のファンで、僕が担当だと言ったら、ぜひ先生にあげて欲しい、って」

「そうだったのか。……ありがとう」

 何のお返しもできない自分を不甲斐なく思いながら、私は有り難くそれを受け取った。

「なぁ、先生。もしさ、もし、月が落ちてこなかったら、その時は、原稿を取りにきてもいいかな? 僕、もう一度先生と仕事がしたいんだ」

「あぁ。渾身の力作を準備して待っているよ。もちろん、これをくれた夫婦には、一番に読んでもらわないとな」

 私は袋を振って見せた。

「じゃあ、先生。……また」

「あぁ。……また」

 「また」がないことは、お互い分かっていた。

 だが、私たちは、そう言って別れた。


 玄関先で彼の車が遠く離れて行くのを見送ったあと、独りになった私は空を見上げた。

 月見は夜、かぐや姫が月に帰ったのも夜のはずだ。

 しかし、私の両眼には、左下部が欠けた月が、昼空にはっきりと映っていた。

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