2
2
離宮の庭に出たレキとマリアの耳に届いたのは、ぶぉん、ぶぅおん、と、唸り声にも似た風を斬る音。それが《剣帝》ジョセフの鍛錬だとわかったのは、庭園をしばらく歩いた先にある池のほとりに着いた時だった。
「これが、剣の頂に立つ者の鍛錬か……」
一心不乱に素振りをする《剣帝》の姿に、レキは戦慄を隠せなかった。
武道袴をはくジョセフは、上の道着を脱ぎ腰で縛ると、筋骨隆々上半身からもうもうと湯気が立ちあがらせながら、二メルセはある超大で黒光りする金属の鍛錬棒で風を叩き切る。
一体、いつから剣を振るっているのだろう。その凄まじい剣圧に大地が大きく抉れていた。
「あれは、まさか……コルンダイト鋼か?」
別名アダマン鋼とも呼ばれる最硬の金属で、神意を纏った刃すら通さぬ圧倒的な防御力を誇るものの、同じ大きさ鉄と比較して何十倍も重い欠点を持つ。
レキとマリアは、ジョセフの鍛錬の邪魔はすまいと控えて待つことにした。
「くっ、凄まじい重さだな。九十キロはあるか」
立てかけられてあるコルンダイト鋼の鍛錬棒を持ち上げてみるが、剛腕で知られるレキであってさえ持ち上げるのに苦労するほどだ。
レキの双剣が片方二キロな事を考えれば、この鍛錬棒がどれほど重いかわかるだろう。
「コルンダイト鋼の鍛錬棒はアーデンブルグ家の伝統なんです。私はこれよりもっと軽いものを使っていましたが、最近『これ』に持ち変えたんですよ」
マリアはそう言って、レキから鍛錬棒を受け取ると、両手で持ち下段に構える。
次の瞬間には、迅雷のような突きが空間を貫いた。
「凄い! これだけ重い獲物なのに、突きも、身体の軸もまったくぶれていない!」
レキの素直な賞賛に、マリアは嬉しそうにはにかむ。
「腕力だけで持とうとするのではなく、身体全体で重さを分散させて、えっと、ようは慣れです! お婆様もお母様も全盛期の頃は、これを片手で扱えたと聞きます」
「こ、これを片手で? マリアさん一家の人知を越えた強さの秘密が、少しわかった気がします……」
コルンダイト鋼の鍛錬棒を片手に、得意げな表情で胸をゆさんと揺らすマリアを見て、レキはこういう修行の仕方もあるのかと感慨深げに思う。
人が、女神の加護を受けて五百有余年。
階位を上げる事が、強さを得る最短の道だと云われて来た。
と、
「神は人の『身』に宿る。ならば、その『器』を鍛え抜いてこそ真の強さを練り上げる事が出来よう。心身壮健あってこその心身昇華。最後の最後で当てになるのは、結局のところ己の肉体だけだぞ、レキ君」
鍛錬が終わったのだろう。コルンダイト鋼の鍛錬棒を降ろしたジョセフがそう言った。
レキは感銘を受けて頷くと、
「ジョセフ様、これを一本頂いてもよろしいでしょうか?」
「おお、幾らでも持っていくがいい。昨今ではこの鍛錬棒で修行する武士はすっかり減ってしまったからな」
ジョセフは快く承諾し、側に控えていた女騎士が差し出した手拭いで、汗を拭きとる。
彼女の名はヘヴィディア。
聖十字騎士団でも最精鋭の〝十三使徒〟の一員であり、第三階位に至るのは間違いないといわれるほど、非常に優れた導師の才を持つ。
そして、
「……チッ」
ヘヴィディアの隣で舌打ちし、先ほどから敵意を向けてくるのが、先の襲撃事件でヴェロニカへ神技を当てた剛剣使いの男・サーキスだ。
「ふむ。少し歩こうか」
道着に袖を通したジョセフはそう言った。
レキとマリアは「はい」と承諾する。
しばらくの間、ジョセフを先頭に、手入れの行き届いた美しい庭園を歩く三人。
水の都として有名な王都は、随所で綺麗な水が沸く。
この庭園にも湧き水で作られた池があり、そこから引かれた小川には清らかな水が静かに流れる。
アーチ状の石橋の上で立ち止まったジョセフは、橋の欄干に手を置くと、
「アナスタシアとの話は済んだようだな」
「はい、マリアさんと婚約させて頂きました」
レキが答えると、後ろのマリアが頬を染める。
ジョセフはそれを見て、嬉しそうに目を細めるが、
「どうせ、あやつの事だ。無理難題をいいおったのだろう。ワシの時もそうだったからな」
「お話は少しですがお伺いしました。これも僕とマリアさんが共にある為に、乗り越えるべき試練だと思っています」
「覚悟は決まっておるか。ならば、ワシからも一つ頼みがある。聞いてくれるか?」
「はい!」
「ワシらが生きている内に、そなたら二人の『子』を見せてくれ」
ジョセフの表情は、真剣そのものだった。
以前ミーミル士官学校でジョセフと会った時も、同じような事を言われた。
だが、その時はまだレキとマリアの関係がここまで進展しておらず、羞恥に怒ったマリアにより話はうやむやになった。
「理由をお尋ねしても?」
「……この歳まで生きていれば後悔なぞ山ほどあるが、中でも取り返しのつかないのが、ワシがアナスタシアから女としての幸せを永遠に奪ってしまった事だ」
「女としての幸せ……ですか?」
と、マリアが首を傾げる。
うむ、とジョセフは頷くと、
「嫁になれと迫るワシに、あやつは言いおった。私は姫だと。奴隷の妻になるわけにはいかないと。それでもこの身を欲するなら、その剣でもって奴隷から侯爵にまで登り詰めなさい。さすればあなたの妻になりましょう――ワシは、その言葉がただの照れ隠しだとわかっておったのだ。だが、ワシもまだ若かった。剣一つでどこまでやれるか試してもみたかった。いや、今して思えば、あやつを攫って行く勇気がなかっただけなのかもしれん」
と、言って、背を向けると再び歩き出す。
レキとマリアはジョセフの後に続き、歩きながらジョセフは語る。
「《英雄戦争》で数多の武勲を立て、戦後は各地に生き残った瘴魔を狩るべく奔走し、奪われた本当の名と地位を取り戻した時には、随分と長い年月が経っておった。だが、あの頑固者はさっさと他の男と結婚でもしとけばよいものを、律儀に十年以上もワシを待っておったのだ」
「素敵な話ではありませんか」
「僕も、そう思います」
「これで済んでおれば、あるいは美談として語れたやもしれん。だが、アナスタシアは初産で死にかけたのだ。子も母も救うには腹を裂くしかなかった。医者はいっておったよ。あと十年若ければと。それが二度と子を宿す事が出来ないという意味だと知ったのは、嬉しそうな表情でアーサーに乳をやるアナスタシアの頬に、涙の痕を見て取った時だ」
そこで立ち止まったジョセフは振り返ると、
「頼むレキ君。どうかマリアには、そんな思いはさせんでやってくれ」
レキの前に歩み出て、驚くべき事に頭を下げた。
白騎士アーサーは、黒騎士ユリウスと一騎打ちの果てに亡くなり、そのユリウスもまた、マリアの手によって討たれている。
呪われた負の連鎖が、アーデンブルグ家とノーザンクリサリス家の間には存在した。
ところが、本来は憎き仇同士であるはずのレキとマリアの間に『恋』が芽生えた事で、負の連鎖は新たな絆へと、呪いは次代への希望へ変わろうとしているのだ。
そしてジョセフは、愛する者があっけなく死んでしまうこの時代に、悔いを残す生き方をするなと言っているのだ。
「顔を上げて下さいジョセフさん!」
レキは胸に新たな使命感を燃やし、熱く言った。
「おお! わかってくれるか!!」
「はい!!」
レキとジョセフの二人はがっしりと握手し合う。
男の友情が芽生えた瞬間である。
「うむうむ! 子を成してから、存分に試練に挑めばよいからな!」
「期待に添えるよう、全力で励みます!!」
「はっはは! 流石は婿殿だ! よい薬があるから後で進呈しよう!」
盛り上がるレキとジョセフに対して、おいてけぼりとなっているマリアは、
「レキ君も、お爺様も……き、気が早すぎます……」
拗ねたように、困ったように、髪を弄りながら、頬を真っ赤に染めるのであった。
と、その時。
「待ってくれよ、伯父貴! そんな帝国野郎なんかにマリアをやっちまうのかよ!?」
こちらの後を追って来たのだろう。
聖十字騎士団の青い軍服を着た、赤銅色の髪の青年が、声を荒げてジョセフに喰ってかかる。
「よさないかサーキス! ジョセフ様に対して無礼だぞ!!」
そんなサーキスを止めるのは、蒼い髪の女騎士ヘヴィディアだ。ジョセフを神と同一視するヘヴィディアの瞳には、怒りを越えた冷たい殺意が見え隠れする。
すると、
「よい、ヘヴィディア。言いたい事があるならいわせてやれ」
「おうおう、遠慮なく言わせて貰うぜ! マリアに相応しいのは〝十三使徒〟の末席に名を連ねるこの俺《炎剣》のサーキス様だ! 断じて、憎き帝国野郎なんかじゃねぇ! ましてやそれがテメェのようになよっちいガキだと? 〝六大凶殺〟だか何だか知らねぇが、冗談きついぜ。国のためだとか下らねぇ理由で結婚させられるなら、俺が何処へでも連れて逃げてやる! さぁ、この手を掴めマリア!!」
サーキスと名乗った青年は、そう叫んでマリアに手を掲げるが――
「…………不快です。散りなさい下郎ッ!」
マリアは蟲を見るかのように、さめざめとした目で、恐ろしく冷たい声を放つ。
「は、え?」
これには熱烈に手を掲げていたサーキスも、ポカンと口を開けるしかなく。
「私の夫となる人を侮辱する物言い……万死に値します。なにより、あなたなどに、気安く名を呼ぶ許しを与えた覚えはありません。この場で膝をつき謝罪するのなら、お爺様の部下であるただ一点でもって見逃しましょう。否というのであれば、この槍の露になると知りなさい」
マリアは誰にでも優しい訳ではない。
その愛情はレキただ『一人』にのみ注がれている。
人当たりはよく、物腰は柔らかで、最近では友と呼べる存在も増えて来た。
だが、それは全て、レキと出会った事で恋に染まり、レキに合わせるよういマリアが変わっただけである。
復讐に憑りつかれ、数多の戦場を駆け抜けた皆殺しの戦乙女は、〝血塗れ聖女〟とまで恐れられた戦場の鬼は、恋を知る事ですっかり可愛らしくなった。
戦場でのマリアを戦いぶりを知る者は、皆一様にその変化に驚き、同一人物だと気が付かない者までいるほどだ。
しかし、決して勘違いしてはならない。
マリアは恋に牙を抜かれ、腑抜けてしまった訳ではない事を。
ひとたび怒らせれば、それは恐ろしい血塗れ聖女が顔を出す事を。
「ま、ま、待ってくれ! 俺だ、俺だよ! サーキスだ! 隣の領地の!」
「記憶にありませんね。新手の詐法ですか?」
マリアの瞳が、さらに凍てつき細くなる。
「ち、違う! 俺は!!」
サーキスはマリアに手を伸ばそうとするが、
「そのへんにして貰おうか」
レキはマリアを守るように前に出て、サーキスの視線を遮る。
「て、テメェ! しゃしゃりでてくるんじゃねーよ! 俺はいまマリアに、い、いや、マリアさんに話てんだ!」
マリアの殺気に、慌てて「さん」づけするサーキス。
だが、
「わからないのか? それが一番迷惑なんだよ。マリアは将来、僕の妻となる女性だ。それ以上『一歩』でも近づいてみろ? この世に生まれて来た事を後悔する事になるぞ」
レキは敢えてマリアと強く呼び捨てにして、サーキスの前に立ち塞がる。
他の男が、マリアの名を気安く呼び捨てにしただけで、怒りで腹は煮えくり返り、目の前が赤くなるが、やはりレキは生粋の〝暗殺者〟であった。
怒りを冷徹な殺意に変えて、一番苦しむ刃はどれか、証拠の残らない毒は、月の出ない夜は――と、一瞬で、あらゆる暗殺方法を思いつく。
自分がこんなにも嫉妬深いとは思わなかったが、レキの本能は、目の前の男がマリアを狙う敵だと告げていた。
そして、『敵』は実力を持って排除せねばならないだろう。
(そもそも……最初に会った時から『こいつ』は気に入らなかった)
肩幅に比べて大きすぎる頭も、感に触る声も、炎を扱う力も、何もかもが目障りだ。
首から上が無くなれば、いっそスッキリするだろう。
「くっ」
サーキスはレキの眼光に宿る、あまりの殺意に気圧されるが、自分のために嫉妬し、妻を守らんとする未来の夫の姿に、目をハートにするマリアの姿を『もろ』に見てしまう。
「生まれて来た事を後悔だぁ? 上等だ! やれるもんならやってみやがれ!!」
サーキスは激情して叫ぶと、背中に背負った大剣を引き抜いた。
炎を模した波打つ刃が特徴的なフランベルジュと呼ばれる大剣が、神意の収束に光り輝く。
周囲に緊張が走る。
刃を抜いた時点でただでは済まないのに、サーキスはいま神技を放とうとしているのだ。
ヘヴィディアの制止の声が響くが、サーキスは剣を肩に抱え猛然と叫んだ。
「――――炎龍咆哮破!」
振り降ろされた刃と共に渦巻く炎が、炎弾となりて発射された。
だが、レキはその場から微動だにしなかった。
炎弾は着弾した瞬間に大きく爆ぜ、粘度の高い赤銅色の炎がレキに纏わりつき業火となって燃え上がる。
「はははっ! なんだよ口だけかぁ!? このままだと焼け死んじまうぜ? いや、もう死んじまったか!」
サーキスは愉悦を浮かべて高笑いするが、ヘヴィディアは驚いた表情で炎を見つめ、ジョセフは目を閉じ事が終わるのを待つ。
そして、マリアは――愛する人を誇るように、胸を張って微笑む。
と、
「……なるほど、やはりこの程度か。ヴェロニカが捕えられたのはワザに決まりだな」
炎に焼かれながらも、レキは平然とした足取りでサーキスに歩み寄っていく。
いや、見ればレキの身体はどこも焼けてはいなかった。
炎こそが、レキの身体から放たれているのだ。
サーキスの炎を喰い尽くしてしまうほど圧倒的な、暴食の炎が。
「ど、どうなってやがる!? なんで、俺の神技を喰らって傷一つねぇんだ!?」
己の力に絶対の自信があったのだろう。
サーキスは驚愕を隠そうともせず喚いた。
「常人ならざる神格を誇るレキ君に、下位の者が放つ神技が、ましてや魂の籠っていない技が、通じないのは当然でしょう」
と、マリアが疑問に答えた。
そして、
「一歩でも……と、言ったはずだ」
炎髪を燃え上がらせ、緋色の瞳を真紅に輝かせるレキが、サーキスの眼前に立つ。
足元を見れば、サーキスは神技を放つ際に、大きく『一歩』踏み込んでいた。
「ま、待て、待ってくれ!」
サーキスは青ざめた顔で叫ぶが、レキはゆっくり双剣を引き抜くと、その刀身に絶大な神意を収束させていく。
バチリと、雷光が炸裂し、
「――――魂に、痛みを刻め! 灼熱焔舞ッ!」
直後、紅蓮の劫火がサーキスを呑み込み、天に向かって吹きあがった。
その凄まじい火勢たるや、龍の吐息もかくやというほどで、天を焦がす火柱に青空が紅に染まった。炎消え去った時、レキの足元から前方が、放射状に大きな溶岩地帯となっており、灼熱する大地に、サーキスの姿は影も形も残ってはいなかった。
「致し方ないとはいえ、命さえ残して頂ければ癒してみせましたのに」
ヘヴィディアは、あまり残念ではなさそうに言った。
「剣を抜いて神技を放ったんだ。殺されても文句は言えないはずだ」
レキは冷たく言い捨てるが、振り返って静かに流れる小川を指さす。
アーチ状の石橋の下に、川に半分突き刺さる形で目を回している、少し焦げたサーキスの姿があった。
「彼を殺さなかったのは、今日という記念の日を血で穢したくなかっただけだ。次はないと……よく言って聞かせるんだね」
「お心遣いに感謝します、レキ様」
ヘヴィディアはレキにお辞儀すると、サーキスを治療すべく小川に飛び降りた。
と、
「終わったようだな」
事態を静観していたジョセフが、顎ひげを撫でながら言った。
「すみません、ジョセフ様。騒がせてしまって」
双剣を鞘に収めたレキは、ジョセフに頭を下げる。
「はは、構わん構わん。あの刎ねっ返りは、ロンドの引退によって開いた席を勝ち取り、見事に〝十三使徒〟となったまでは良かったのだが、途端にやる気をなくしてな。それまで誰にも負けない向上心の塊だったが、最近はろくに修練にも顔を出さんようになった。故に、部隊から外してワシの伴として連れて来たのだ。レキ君の一撃は、いい薬になったであろう」
「お爺様の慧眼を疑う訳ではありませんが、あの程度の使い手が〝十三使徒〟に選ばれるなんてどうかしています。ロンドには遠く及ばないではありませんか?」
まだ怒りが収まらないのか、マリアはジョセフに言いつのる。
「確かに奴はまだまだ未熟。だがなマリアや。ただの実力だけで〝十三使徒〟を選んでおる訳ではないのだ。サーキスはその不足した技量を補って余りある『特別』な力を持っておる。レキ君にならわかるだろう?」
「神技における、『炎』を操る才能ですね」
「さよう。邪を祓い清めるには、あらゆる加護の中でも『炎』の右に出るものはない。我々セイクリッドの使命は、邪悪なる魔性の徒を討ち滅ぼす事だ。人殺しの技など、そのための過程にすぎん」
「お爺様……」
「この世から瘴魔を根絶やしに出来るのであれば、ワシの魂など喜んで火にくべて見せよう」
そう語るジョセフの異様な迫力に、レキとマリアは二の句を告げられなかった。
話は終わりだとばかりに背を向けたジョセフは、最後に振り返ると、
「受勲式……ワシも参加したかったが、長く本隊を離れるわけにもいかんでな。明日には王都を立つ。次に会う時には良き報告を期待しておるぞ」
と、言って、来た道を戻っていった。