夜は泣き、老人はそれをあやすことなく
住人約一万人。果樹園で成るブドウ畑が広がっていたマサテイユ市の町の一つオルヌ。禁酒法以前はワインで有名だったが、かの悪法はこの町が頼りきっていた特産品を消し去ってしまった。
主たる収入源を失い、酒造を禁じられたオルヌは苦肉の策として有り余るブドウ売ったり、加工しジュースやジャムとしたが同様の状況に陥っている町との価格競争に負けていた。
その後、新たな収入源を求め様々な事業に手を出したが散々たる結果に終わっている。
かつての栄光にすがりつき、オルヌのブランドがあればと考えた驕りがこの町をゆっくりと衰退の道へ誘ったのだ。
かつてはきらびやかな栄華の都市クイーンズポートと並んだ美しい街並みなど名残もない。
住人たちはそれを嘆くがそれでもあの忌々しい陰険な空気に包まれる港町インスマルスと比べれば幾段もマシだった。
――そう、だったのだ。
今ではささやかな平穏の日々をおくるオルヌでも暗い噂が囁かれている。
『あの丘の上にあるポートフ家の嫡子ルドルフトフは夜な夜な町娘をさらい陵辱の限りを尽くしている』
事実、町では行方不明になる少女や婦女が月に一度の頻度で発生した。突如神隠しに会うようにして消えた娘を探すよう家族が被害届を提出したが、見えないものを恐れているかのように警察は行方を見つけることなどしなかった。
業を煮やした住人たちがボランティアで貼り紙など一刻も早く事件解決のためとなる行動を図った。
だが珍しく勤勉となった警官たちがそれをことごとく引き剥がし、貼った者たちへ厳重注意して妨害していく。
そのあからさまな行動は権力者に事件のもみ消しを強要されていることを確信させるばかりだった。
以上の条件に合うのは丘の上の資産家たちのみ。さらにポートフ家のルドルフトフといえば何度も覗きや下着の窃盗などの前科を持ち、その度に金で示談してきた過去がある。
ゆえに丘の上に豪邸を構えるポートフ家と今回の事件を結びつける者は少なくなった。
被疑の矛先が向けられるポートフ邸は高級住宅地内に位置する。
この土地はオルヌの町の一部でありながら、資産家や有力者から一般人が立ち入るべきではないと立ち入りを禁じるべく壁と門が設けられていた。
それをオルヌの人間たちは感謝すべきだろう。
厳かな豪邸も手入れされた美しい庭園も全てが相手に誇示するため。木の枝一本でも無粋に伸びている不手際さがあれば後ろ指を刺され汚点として笑い話にされる。それは権力争いという競争で見せてはならない隙となる。
金と名誉の見えない銃弾が飛び交う紛争地帯入ったが最後、普通に生きてきた人間はその圧力で押しつぶされかねない。
だというにも関わらず、そこへ侵入した者がいた。春先の暗雲立ち込める夜。十二件目となる失踪から一ヶ月が経過したころのことだった。
アルビィス・エルドウッドが悲壮な決意の元、門を叩き――破壊した。
※
闇に溶け込むための煤けた黒いローブ。血に濡れた薙刀にも似た杖。それは旧き時代の魔法使いを連想させた。
魔法使いは杖を支えに倒れ込まないようにしている。年月とともに刻まれた皺だらけ顔には疲労と苦痛から苦悶の表情と大量の脂汗が貼り付いている。
左手で抑える腹からの流血が原因だった。出血量は決して少なくない。
「私も……老いたものだ」
悔やむ。後十年若ければ門番ごときに遅れをとることなどなかっただろうと。
それが今では少しの戦闘機動で息が上がり身体の節々が熱を持っている。高位でもない幻詛術を行使しただけでひどい頭痛に見舞われる始末だ。
若かりし頃は攻性の幻詛使い(げんそつかい)として百を超える《深淵から覗くものども》の群れを一人でなぎ倒し人類の生活圏を広げる手伝いをしたというのにだ。
今のありさまに老人は渇いた笑みを浮かべ自嘲する。
そうしてキリキリと締め付けるような痛みがようやく頭から離れ始めた。
老人は支えにしていた杖――幻刀器《老いたウェルテルの苦痛》の切っ先を己の腹へと向ける。宙に錆色の均衡がとれた円陣――《光輝陣》が描かれ、口を開く。
「瑕疵膏」
言葉が引き金となる。
刀身と柄の間にある回転式弾倉が撃鉄に叩かれ回る。弾倉内の弾丸が砕かれ《幻力》と呼ばれるエネルギーへと還元される。
それが光輝陣へと流れ込むと錆び付いた陣が青い輝きを帯び幻詛術、肉体系治癒系統第三層瑕疵膏が発動。
青き円陣から流体状の物質が流れ出し肉となり傷を埋める。血が溢れることはなくなった。だが鋭い痛みが残る。
荒くなっていた呼吸を整え、再び歩き出す。
低位の幻詛術である瑕疵膏は応急処置程度の効力だ。出血がいくら止まろうとも術式が維持できなくなるか、注ぎ込んだ幻力を消費しきれば元の木阿弥。
アルビィスならば高位の治癒術式を使用できる。
だが、それを選択しなかった。
「後、数分……数十分で良いのだ……そうすればすべてが終わる……!」
復讐を。殺戮を。憤怒を。果たす。果たさねばならぬ。老人の心は濁り沸騰する汚泥で満たされている。
生き残ることなど考慮に値しない。
死んでも殺す。
殺して死ぬ。
その心のあり方に夜が泣き始める。
涙雨は徐々に激しさを増していく。冷たい雨粒はすぐにアルビィスの痩身から体温を奪い、骨まで凍えさせた。
それはまるで泣きじゃくる赤子のように老人のローブの裾を重く引いているかのようですらあった。
アルビィスは空に願う。自身の蛮行を責めたてるこの慈悲深き空に。
天よ……天よ! 私をどうか憐れないでくれたまえ。どうかこの熱を奪いさらっていかないでくれたまえ! 私はこの復讐を、この憎悪を果たさねばならぬ! ならぬのだ!!
行先を睨む。
復讐すべき相手はもうすでに目と鼻の先。豪邸の中でもさらに悪趣味で巨大な屋敷にいる。
杖を握り締める。弾倉振出式である幻刀器《老いたウェルテルの苦痛》から回転式弾倉を振り出し使用済みの薬莢を排出した。
老人はローブから一個の弾丸を取り出す。透明で細かいカットがされたダイアモンドに金や銀で装飾をした芸術と言える弾丸。
これは高位と呼ばれる第七層から第八層。理論上では第九層のごく一部の幻詛術式を瞬時に発動できるだけのエネルギーを秘めている。
アルビィスの切り札。帰る家を不要とした彼が家財を売り払い得たたった一発限りの覚悟。
老人はここを死地に選んだ。
もう彼の手には復讐のための武器と、懐にしまいこんだ死んだ妻との幸せな写真しかない。
懐から擦り切れた写真を取り出しほほ笑む。
「私もそちらに行く。もしその先に君がいてくれると嬉しい……アリーシャ」
写真にはアルビィスよりも30歳若い女性が、大きくなりつつあるお腹を撫で幸福そうに笑みを浮かべていた。
そして、思い出す。
目の前で犯される彼女の姿を。首を吊り力なくぶら下がる姿を。机に書き残された”ごめんなさい”という一言を。
冷え切った体が、激情で燃え盛る。
――老人の強い憎悪と力に、ナニカが反応した。
※
ポートフ邸は生理的嫌悪感を与える悪趣味な装飾で飾られている。
女性の裸体をモチーフにし剪定された植木が庭に並び、噴水では男性器を模した石像が先端から水を勢いよく噴出していた。
過去、教師時代に来たことがあったアルビィスは屋敷の変容に顔をしかめる。前当主が健在であったときはよく手入れされた庭であったというのに、新たな主人の下品な性欲に塗りつぶされていた。
闇夜に姿を紛らわせ、雨音で足音を消す。アルビィスは肉体系知覚・感知系統第三層蛇眼で生物の体温を一時的に可視化する。警備をやり過ごし、掻いくぐっていく。
後は幻詛術的生命体――使い魔の類いだけが懸念点だったが運のいいことに遭遇することはなく裏口に回ることができた。
熱分布が可視化された視界の中で、扉の向こうに赤い影があることを透視。影が一人分しかないことを確認した。
「女……か」
丸みをおびたシルエットからの判断だ。老人に苦いものがこみ上げる。
意を決し、アルビィスは扉をノックした。
女の影はゆっくりと裏口まで歩き、鍵を外しドアノブを回す。
老人が幽鬼となって隙間から内部に入り込む。悲鳴をあげられぬよう女の背後から口を押さえた。
侵入を手早く済ませると、周囲を警戒。
流しに溜まった食器、並んだ三脚の調理台、大の男が二人入っても問題なさそうな冷蔵庫。調理室には少女以外の人間はいないようだった。
そうして、情報を得るために尋問をしようと視線を落とし、
「なんということだ……!」
絶句する。
腕の中にいるのは少女はあろうことか下着を身につけていない。
膨らみかけの愛らしい胸、アルビィスの肩までない身長。ふわふわとしたミルク色の髪からはひどい精臭がした。見た目十代前半であることは間違いあるまい。
おそらくはオルヌで続くルドルフトフに誘拐された少女の一人。
本来ならば、学校に行き、勉学に励み、淡い恋愛に思いを寄せる――そんな当たり前の未来があったはずだ。だが、それをルドルフトフがただ色欲に身を任せて摘み取った。
慣れているのだろう、少女は自身を羽交い絞めにする見知らぬ老人をこの屋敷の主人と同じ目的と考え、声を出すこともなく機械的にアルビィスの股間をまさぐる。
「いい……やめるのだ。いや、もうこんなことはしなくていい……」
少女から距離を取る。花のように可憐で華奢な肩に手を置き語りかける。少女が顔を傾げ、鳶色の瞳に疑問を浮かべた。
そして、何かに気がついたかのように表情を歪め取り乱す。
「粗相をお許し下さい……だから犬とは嫌です……! どうか犬とだけは……!」
「――っ!」
少女の目尻に涙が溜まりこぼれ落ちる。無機質だった表情に怯えが表れた。
アルビィスは無意識に拳を握る。
理解してしまったのだ。ルドルフトフがしてきた蛮行を。少女の体を弄んだだけではなく、尊厳すらも畜生同然として扱ったことを。
かけるべき言葉を失う。
現在この屋敷に親衛隊は何人いるか、ルドルフトフはどこにいるか、いつ誘拐されたのか、同じ境遇の女性たちはどこに監禁されているのか――今、すぐに、死にたいか――
「私はそんなことをしない。私はルドルフトフを殺しに来たのだ」
決意を言葉に。
泣きじゃくる少女が目を丸くする。
「そんな……ことできないです……だってあの人には強い人がいます」
「あやつの護衛十人の戦力は把握している。最高でも第三位階までしかいないことは調査済みである。現役を退いたとはいえ私はかつては第一位階の末席を汚していたうえに、切り札もある。だから――」
「違うんです……! この街の警察の署長だって言う人が……テレビで見たことある政治家の人も……私を……」
「……な、に?」
驚愕した。
それが本当であれば町ぐるみどころか政界の一部さえルドルフトフの力が及んでいる。警察が絡んでいることはこの町で聞いた事件後の対応から予想は出来ていた。
だが、政治家さえ囲んだことは想定外だ。
だからどうしたと頭を振る。それはあくまでもルドルフトフの悪行を暴き、罪を問いただすのならば不利であるだけだ。
これは復讐。
この胸の燃えたぎる炎を刃とし、ルドルフトフに突き立てるだけこと。
「今日も来られているんです」
「馬鹿な……ならば、何故警備が少ない」
「あの人が来るときは、いつも少ないです」
そのあの人を問いたかったが、少女は知らないようだった。それに、時間もない。
老人の視界には幻刀器《老いたウェルテルの苦痛》から送られてくる情報と操作するためのアイコンが表示されている。
その中で瑕疵膏の効果時間が残り少なくなっていることが示されていた。
もう一度発動してもいいが、この後使用する高位幻詛術式のことを考慮すれば余計な疲労は避けたい。何より、これ以上同じ場所に留まることをしたくないというのもある。
「私は往く。もし、可能であれば屋敷から逃げるといい。これより自爆覚悟の上、高位術式を使用するのでな」
悲しげな、不安そうな表情で少女がアルビィスを見上げる。老人はかすかに微笑むと、背を向けた。
ただ、復讐を果たすために。