標本
「何故だ」
食卓を仄かに照らす、橙色の電球。丸いちゃぶ台は長い年月が染み込んでいて茶色い。
その上に散らばるご飯粒の白い点、点、点……。滴るお味噌汁がつくった水たまりが、泥水のように濁ってみえました。
その声から逃れるように――いいえ、それは叶わないことですけれど、せめてその声の主が叔父さまではないのだと思いたくて、わたしは目を伏せました。
ぽたり、ぽたり、と、濁水が畳に落ちて吸い込まれていくのが目に映りました。
「何故、僕に構う」
悲しい響きを持った言葉に、わたしは顔を上げました。
叔父さまはひどく冷たい目をして、食卓を片すわたしを見下ろし、呟くように言いました。
褪せた畳に落ちた夕餉が、冷たくわたしの指に触れました。
「……どうして」
叔父さまの声に手を止めて見つめ返すと、何が気に入らなかったのか叔父さまは、泣きそうな、怒ったような、ぐしゃぐしゃの顔をしたまま茶の間を出ていってしまいました。
どうして――。
どうしてなのでしょう。
わたしは、今日届いた新聞を手に取り、一面記事を読みました。何度も。何度も。そして、何度瞬きを繰り返してそれを見ようとも、そこにある事実は決して覆らないのでした。
“竜胆<リンダウ>製薬、勝訴ス”
“悲痛ナ叫ビ、届カズ”
叔父さま。
人を救おうと熱心に研究をなさっていた叔父さま。
それが、こんな形で裏切られるなんて――あぁ、お父さま、お母さま……。
お父さまとお母さまが満洲に行ってしまって、叔父さまと暮らすことになってしばらくして、幼い頃のわたしはうっすらと悟っていました。
叔父さまの態度から、他の親戚の目から、周りの大人たちの言葉から。お父さまも、お母さまも、もういないのだということを。
絶えず戦争が続くこんな時代、お骨の無い葬儀は珍しくもないと、幼いながらもわたしはどこか冷静でした。周囲にそんな人が多かったせいもあるのでしょう。
そんなわたしと違って、叔父さまの変わりようは誰の目にも明らかでした。
年の離れた兄のような叔父さまが、いつも優しく笑っていた叔父さまが、ぐしゃぐしゃの顔でわたしを抱きしめた、葬儀の日。夏の夕暮れの、冷たい薄闇に響くひぐらしの声。
夏の終わりを叫ぶその声が、わたしの目の前に広がる風景が幻ではないことを告げたのでした。
その時わたしに向けられた眼差しと、さきほど電球に照らされた瞳を見比べて、叔父さまの後を追いました。
自室にも戻った気配が無く、茶の間にも当然ですが姿が見えません。他に思い当たる場所を探し、最後に、普段は立ち入ることを躊躇う、叔父さまの仕事部屋へと近付いていきました。
部屋の中を覗くと、机の上にある橙色の明かりに小さな虫が数匹集まり、音もなく飛んでいました。そちらへ向くようにして、叔父さまはぼうっと立っていました。
心配になって私は、叔父さまに見えぬように柱や本棚の陰に隠れながら、様子を見守ります。
叔父さまの肩ごしに見えたのは、小さな木箱――白くて、滑らかそうな、とても綺麗な木箱でした。
そこに何が入っているのか、とても大切そうに左手に乗せ、右手を添えてそっと支えているようでした。
やがて衣擦れの音がして、ことん、と乾いた音がしました。叔父さまがこの部屋を出ようとしている、そう気づきましたが、私はとても冷静ではいられず、そのまま本の山の中に身を隠すことにしました。
そんな私に気付く風もなく、明かりが静かに消えました。
――あの、木箱は……。
暗闇の中で、叔父さまの部屋に立ち入ってしまったこと、それより、叔父さまの大切な何かを覗き見してしまったことを畏れながらも私は、あれが何なのか考えずにはいられなかったのです。
* * *
叔父さまは帝國大学の研究室に所属していました。生物関係、時に薬物や医療の方に飛躍するような研究、とまでしかわたしは知らないのですが、叔父さまは、若くしてある程度良い地位に上り詰めていました。
それがある日、あっけなく崩れてしまうことを予期せぬまま。
叔父さまが企業研究員として勤めることを決めた頃、わたしは生まれたこの地の小さな女学校に通うことが決まっていました。
とはいえ、数年前のわたしは自分が思うよりも幼く、叔父さまが帝國大学から去ったのは、わたしを養うためだったのだろうかと、今になって慮りました。
あの、白い木箱――叔父さまの研究の一部なのでしょうか。
懐かしむような、その瞳の色に、研究室を去ったことを後悔しているのではないか……。
考えてもどうしようもないことを思い巡らせていると、吹きこぼれそうになっているお鍋が、わたしを忙しい朝の食卓に引き戻しました。
炊き上がったご飯をおひつに移しながら、今日は食べてくれるのか、また新しい悩みに頭がいっぱいになりました。
「捨てられると思っているのか」
朝食を準備して叔父さまを呼びに行くと、部屋からそんな声が聞こえました。
「お前は、僕に捨てられると思っているから、こんな風に僕に構うのか」
叔父さまの勤める会社の雲行きが怪しくなってから、叔父さまはわたしと食事を摂るのを避けているようでした。一面記事になるような事態になってしまってからは、特にひどくなりました。
時折階下へ降りてきてわたしに笑いかけてくれるのですが、それさえどこかぎこちなかったように思います。
食事だけではなく、普段も、だったでしょうか。そういえば、ここしばらく、叔父さまの声でしか、その所在を知る術を、わたしは持っていないことに気が付きました。
この冷たい声の主が叔父さまでなかったら、どんなに良かったか――そう考えたわたしの耳に、諦めの混じったような、昏い、低い声が届きました。
「新聞、見ただろ」
昨日も今日も、叔父さまの勤める会社のことが一面記事になっていました。
“人ヲ治癒スルハズノ薬、毒トナル”
“其レデモ尚、経営ヲ続ケル竜胆製薬――”
「人殺しだと、書いてあったんだろ」
ひどい、ことば。
ふすまを一枚隔てた向こう、叔父さまはあのぐしゃぐしゃの顔で怒っているのでしょうか、泣いているのでしょうか。
「……口減らしにされると思ったのか。だから、僕の世話をするのか」
わたしは、すぐに違いますとは言えませんでした。
今は叔父さまに何を言っても伝わらない、そんな気がしたのです。
ただ、お世話はわたしがしたいからしているのだということを伝えました。
「……同情か」
鼻で笑うような、嘲りに満ちた声音でした。
わたしは、その場から駆け出しました。
廊下を駆け、奥まった所でうずくまると、自然と目から雫が溢れ出しました。
あんな言葉を吐いてしまうほど、叔父さまは、もう……辛いのはわたしではない、こうして泣きたいのは、わたしでは――。
いいえ。
わたしも。
わたしだって……。
不意に、叔父さまの仕事部屋へと足が動き出します。
――叔父さま。わたしだって。
叔父さまが見ていた、あの白い木箱の中に何があるのか、わたしにはわかりません。
でも、何かとても大切な、叔父さまにあんな顔をさせるくらいのものだということは分かります。これがなければきっと、いえ、もしかしたら、これがなければ叔父さまはもっと……。
カタ、と音が聞こえ、体が跳ね上がりました。
わたしは何を考える余裕もなく、外へ飛び出しました。
その手に、白い木箱を持って。
日が落ちかけているせいか、夏がはじまろうとしているのに、少し肌寒く感じました。
淡く紅色が残る町を駆け、わたしは、行方を探すようにただ走りました。
ひとり、になれる場所……ふと思い立った場所へ、わたしの足は動きました。
まだ今の家にお祖母さまが元気で暮らしていた頃、叔父さまとよく遊びにきた場所でした。
ちょっとした空き地になっているのですが、草むらに隠れた奥に、小さな池があるのです。
お祖母さまと来ることもありましたが、その時、わたしは不思議なお話を聞きました。
死人花の池に語りかけると、見たいものが見えてくる。ただし――。
「もしも見えたら、しぬ――」
それでも、いえ、それなら。
最期に見えたとして、それでしねるなら。
あぁ、ひどく都合がいい。
赤い彼岸花が咲き乱れるその中央に、重たく揺れる水面。ここでたくさんの人がしんだのだとお祖母さまが昔教えてくれました。
死者たちは仲間が欲しいから、何でも見せてくれる代わりに、あちらに引きずり込むのだと。
――それでいい。
むしろ、それがいい。
叔父さまのあんな表情を、見なくて済むのなら。
意外にも水面は澄んでいて、わたしの顔を映し出しました。
もしも死んで生まれ変わったのなら、わたしは、次もまたこんな顔なのでしょうか。
* * *
「僕が……?」
いつの間にか景色が変わっていました。どこかのお家のようで、わたしはそのお茶の間の隅にいるようでした。
正座したまま俯いて、困ったような、しかし嬉しそうな、色々なものでぐしゃぐしゃの顔をした少年。少年、といっても今のわたしよりは年上に見えました。
学生服に身を包んだその人は、ひたすら目を泳がせていました。
「でも、僕なんかが……」
膝の上につくった拳がぎゅっと握り締められました。
「僕なんかが名付け親じゃ、その子も不憫だよ……」
ますます、少年の顔がぐしゃぐしゃになっていきます。
しかし、不意にその顔がぱっと上がり、その目は真っ直ぐに目の前の人物をとらえていました。
たしなめるように、少年に言葉をかけながら優しい笑みを浮かべる男の人。
あれは――。
「でも、兄さん……」
少年が、兄さんと呼んだその人の横に座る、大きくお腹が膨らんだ、女の人。
「義姉さんだって、僕が名付け親じゃ嫌でしょう?」
少年は不安げな瞳を女の人へ移します。
女の人はやわらかく笑いながら、お腹を撫でました。男の人と同じような、笑みで、少年に何か言葉をかけています。きっと、男の人と似た説得をしているのでしょう。
二人に押されて、ついに少年は黙ってしまいました。
俯いて、暫く何事か考え、時間が欲しいと言いました。
三日後にまた来る、そう少年が言うと、あたりがさっと暗くなりました。
ぱっと視界がまた明るくなった時、そこは、先程のお茶の間でした。
「おじさま!」
高く響く女の子の声がして、直後、着物姿の女の子がお茶の間に入って来ました。
年の頃は五つぐらいでしょうか。女の子の姿に、わたしの心臓は激しく脈打っていました。
もしかしたら――そんな予感がよぎった時、女の子を抱きとめる男の人の姿が見えました。
「おかえりなさい」
ただいま、そう言う男の人の姿に、わたしの予感がただの思い過ごしではないことを理解しました。
女の子の頭を撫でて微笑む男の人――わたしの、叔父さま。
そして、あれは、あの女の子は、幼い日の、わたし。
「一人でさみしかっただろ」
「すこしだけ。でも、おじさまがいるから、さみしくありません」
女の子――幼い頃のわたしはくすぐったそうに笑いながら、叔父さまの体に身を預けています。
「きょうは、何をしてあそびますか?」
「そうだなぁ」
わたしは、少し覚えのある光景に胸を押さえながら、二人の後に続きます。
そこは、叔父さまの仕事部屋――のはずでしたが、背の高い棚が並んだ倉庫のような場所でした。
今の叔父さまの部屋の面影を残しながらも、その表情はやはり違って見えました。
「今日は、僕の宝物を見せてあげるよ」
「なぁに」
「さぁ、なんでしょう、か」
あぁ、この日は――。
わたしが柱の影からそっと見ていると、幼いわたしが悲鳴を上げて、若い叔父さまの腕を叩いていました。
叔父さまの手から落ちたそれは、小さな木箱。
蜂の標本が入った、木箱でした。
むくれた幼いわたしと、おじさま。
そう、こんな風にして、おじさまはいつもわたしの側にいてくれた。
また目の前が暗転して、今度は長く闇が続きました。
ぼうっとしていたわたしの耳に流れ込んできたのは、ざわめき、泣き声、罵声、怒号――。
闇から聞こえる声に、耳を塞ぎました。
叔父さまは、きっと、そうすることも出来なかったのだろうと、思いながら。
両親が亡くなり、お祖母さまもすでにいないこの時、わたしの肉親と呼べるのは叔父さましかいませんでした。
血のつながりで言えば、もっと近い人もいたのかもしれません。しかし、今現在、親族の交流がないことから察するに、わたしを引き取ってくれる人が叔父さましかいなかったのであろうと思います。
わたしは女で、幼く、故に必要とされなかったのでしょう。
多くの声音でいっぱいになる闇の中で、わたしはその声をどこか遠くに感じていました。ただ、叔父さまのことを考えていると、涙が流れました。
幼いわたしの知り得なかった、卑しい騒動……あぁ、叔父さま、ごめんなさい、叔父さま、わたしのせいで、叔父さま――。
「だから言っただろう」
突如、目の前が明るくなりました。
光に焼かれて、何も見えぬまま、ただ叔父さまの声だけが耳に届きました。小さな、声でした。
日差しの強い、真夏のある日。
蝉の声が燃え上がる地面に反響しています。
「僕が名付け親なんかになったら、不憫だと。疫病神にしかならないと」
お墓の前で、叔父さまは一人で泣いていました。あの、ぐしゃぐしゃの顔で。
わたしは、目を閉じました。
叔父さまのあの顔を、見たくなくて。
体が、すうっと、冷たくなっていくのを感じました。
心地よい水の感覚。わたしは、ゆっくりと目を開けました。
ちらちらと光が踊り、私は水底へと落ちてゆきます。その折、いつかどこかで見た景色や、誰かの影、少し懐かしくなるような何かが、浮かんでは消えてゆきました。
私の記憶のかけらなのか、ここに落ちた何者かの断片なのか――それも定かではありませんでした。
ただ、それは、とてもかなしく、あたたかいものでした。
* * *
死人花の池に倒れていたわたしは、ひぐらしの声に呼ばれて目覚めました。
ふらりと立ち上がり、辺りを見回すと、日が暮れかかっていました。
地面に足がついているのか、いないのか。わたしはふわふわとした心地のまま、ただ歩きました。
「――っあ」
ごめんなさい。
誰かにぶつかってしまい、口に出そうとした言葉は音になりませんでした。
地面に手と膝をついてしまったわたしは、土を払いながら起き上がりました。
そのわたしの目の前に、ぶつかったと思しきご婦人が申し訳なさそうに立っていました。
謝りながら、小さな白い木箱を、わたしに差し出します。
あぁ、わたし、落としてしまったのですね――お礼を言うのが先か、謝るのが先か、わたしが戸惑っているのを見かねてか、ご婦人が笑いかけてくれました。
すみません、わたしがそう言うと、
「こちらこそ。他に、失くしものはないかしら」
「ええ。ありがとうございます」
「いえいえ。――あのぅ、少し気になったのですが」
「はい」
「それは、何ですの?」
大事そうに持ってらっしゃるから。
わたしの持った木箱を右手で示して、彼女は問いました。
木箱を開けると、白い、小さな欠片。
化石、のような。小石、のような。
――わたしは曖昧に笑って、その場を去りました。
夢か現かも分からないまま、家路についたわたしの目に飛び込んできたのは、ひどく憔悴した叔父さまの顔でした。
「どこに行ってた!」
わたしを見つけた途端そう言って、その場にくずおれました。心配した、そう言って何度も目元を拭いながら。
「わたし、見たのです」
叔父さまは、不思議そうな顔でわたしを見つめています。
鼻の奥が、つん、と痛みました。
「わたし、見たのです。あの、お祖母さまの、お話の通りの場所で、わたしの――わたしの、生まれた日のことを」
涙が頬を伝いました。上手に呼吸が出来ません。
「死人花の池の水面に語りかけると、見たいものがみえてくる……そうして、わたしは見たのです。
わたしが生まれた日――叔父さま、あなたが、わたしに名前をくれた日のことを」
叔父さまの体からすとんと力が抜けて、叔父さまはその場にへなへなと座り込みました。
膝立ちになっている叔父さまは、愕然とした表情でわたしを見つめました。
どうして――そう訴えかけてくる瞳は、やがて何か意志の宿る色みへと変化していきました。
「ついておいで」
叔父さまはそうして、わたしを家の奥へといざないました。
「ここは……」
叔父さまの大切なものがたくさん眠っている部屋。あの標本が眠る、大切な、部屋。
入ってもいいのですか。
そう問うと、叔父さまは微笑みました。昔のように、おいでと言って。
分厚い本や、研究に使うらしい道具がたくさん並ぶ棚の、ずっと奥に叔父さまは入っていきました。
「昔見せた標本は何だったかな」
「蜂です。雀蜂の標本」
叔父さまが面白がって見せてきたんです。
少しわたしが語調を強くして言うと、叔父さまは悪かった、と笑いました。
薄暗い棚の間を探す叔父さまの顔は、死人花の池が見せてくれた、あの昔の叔父さまと同じでした。
「ほら」
今度は違うよ。
警戒するわたしに、叔父さまは薄くて小さな木の箱を差し出しました。
掌に乗るくらいのそれを受け取り、わたしはおずおずとそれを見ました。
「もう、この世界のどこを探してもいない蝶の標本だよ」
羽を広げたまま死んだ蝶。
白い台紙に張り付けられて。
角度を変えて見てごらんと叔父さまに言われるまま、標本を少し傾けてみました。
空を映したように目に眩しいその色は、角度を変えると真珠のように白く光り、また角度を変えると翠色になりました。
「蜂の標本の方が好みかい」
「……お返しします」
「あげるよ」
わたしは顔を上げました。
あんなに、あんなに大切になさっていた標本を、あげると、叔父さまは言ったのでした。
「標本のどこがいいのか、わからなくなってきた。でもね、こうして今では見ることが出来ないものの姿を、そのまま残してずっと誰かに存在を認めてもらえるなら、無意味ではないのかなとも思えたよ」
わたしが手を出さないのを見て、叔父さまは標本を持ったまま、また棚へ向き直りました。
「僕は偽善的だろう」
そんなことありません、そう言おうとした口は開くことを許されませんでした。
「正しさをなぞって生きていれば、道から外れることはないと思っていた。人の群れから、はぐれることはないと」
その正しいと思っているものが、他人と違ってしまっていたけれど。
叔父さまは悲しげに標本を見つめながら、呟くように言いました。
研究室にいた頃よりどこか影をまとっているように見えたのは、幼い私の錯覚などではないのでしょう。
今働いている場所が、叔父さまのいう「正しい」場所ではなかった……新聞の記事をふと思い出しました。
「僕にも、もっと、言葉ひとつ、その言い方とか、出来ることがあったはずなのにな。自分の正しさばかりを求めて癌化したものは、罵られるだけだね。……ひとつ役に立つとしたら、また正しさをなぞるものにとっての見本になれることかな」
叔父さまの目がわたしのそれとかち合うと、優しく細められました。
すまない、会社のことはお前に関係ないのに。
そう言った叔父さまに何と言ったら良いのか分からなくて、ただただ首を横に振りました。
「叔父さま……そうして、何もかもに意味を見出さなくても良いとわたしは思うのです。叔父さま、だから、もうご自分を責めるのはおやめになって下さい……」
嗚咽をこらえながら、わたしは叔父さまを見つめました。
叔父さまは少し笑って、そうだなと、それだけ言いました。
「此の世にあるものは全て意味を持つ。価値が分かる人の前でだけ、ね」
叔父さまは、あるものを指差して言いました。
それは、私が盗んだあの白くて小さな木箱でした。
よほど不安そうな顔をしていたのでしょう、私に、おじさまは何も言わずに微笑みました。
促されるままおそるおそる手に取り、そっと、その標本を見つめました。
「今までお前に黙っていた。今更、と思ってしまっていた……許してくれ」
「これは……? 化石、ですか? それとも、花崗岩か何か……?」
「お骨だよ。お前の、父さまと、母さまの」
この、白い、小さな小さな石みたいなのが……骨?
葬儀の時には無かったはずなのですが、その後、満州から送られてきたそうです。
その時には親族同士すでに疎遠になっていましたので、納骨は叔父さま一人で行なったと言いました。
その一部を、叔父さまはこうして持っていたのでした。
また正しさをなぞるものにとっての見本――叔父さまの言う意味での、標本として。
「ごめんなさい」
「どうした」
「ごめんなさい、わたし、盗んだりなんかして。これが何かも知らないで、わたし、石だなんて……」
うまく、話せないわたしに、叔父さまが微笑んでいるのが分かりました。
「此の世にあるものは、価値が分かる人の前でだけ、意味を持つ。言ったろ」
諭すように、優しく、叔父さまは言いました。
価値が、わかる、ひと。
わたしが顔を上げると、やはり叔父さまが笑っていました。わたしの大好きだった、笑顔でした。
「何にも知らない時には、ほんとに道端の石ころとか、草とか、そんな程度にしか思えない。そういうもんだよ。叔父さんの大事な標本だって、お前、見向きもしないだろ?」
力強く頷くと、叔父さまは納得した様子でしたが、少し複雑そうでした。
ごめんなさい、虫、ちょっと怖いです。
「薬もそうだよ。元気な人に風邪薬は効かないだろう?」
「……はい」
「だから、そう、分かる人が、いれば――」
言いかけて、叔父さまはわたしに背を向けました。
その大きな肩は、震えているように見えました。
わたしは声をかけようとしましたが、それより早く、叔父さまがこちらに向き直りました。
「……前々から考えていたんだが、ここを、離れようと思う。祖母さまの遺してくれた土地も他にあるし、新しいこと、始めるあてもある」
お前は……。
問いかけたその声に重ねて、わたしは叔父さまを見つめながら言いました。
「分かりました。ええ、分かっています、叔父さま」
叔父さまは困ったように笑いましたが、すぐにわたしの大好きな笑顔に戻りました。
お仕事を辞めた叔父さまと少しずつ荷物をまとめて、長らく暮らしたお家を離れることになりました。
とりあえず、お家は置いておくのだそうですが、ものぐさな叔父さまが、きちんと管理できるとも思えません。しばらくは、わたしがここの仮の主になりそうです。
死人花の池に語りかけると、見たいものが見えてくる――あのお話が本当だったのか、分かりません。
わたしは足もありますし、言い伝えの結末とは違います。
あれは、わたしの見た夢だったのでしょうか――。
叔父さまの呼ぶ声に、わたしは我に返ります。
迷いそうになっていたわたしに、叔父さまが笑いかけます。
「――」
わたしの、名前を呼びながら。
あぁ。
――ずっと、だいすきよ。だって、あなたは、わたしに名前をくれたひと。
やがて、駅に着いた蒸気機関車が煙を吹き上げ、その力強さにわたしは胸が高鳴りました。
どこへ向かうのかまだよく分からないまま、わたしはそれに乗り込みます。
その胸に、小さな標本を持って。
終
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
ご意見・ご感想など頂ければ幸いです。
あまり更新できていませんが、ブログの方もちょこちょこなにか書いてます。後書きという名の言い訳もこっそりしております。
お暇であれば、どうぞよろしくお願いします。