外の世界
「一宮さん、具合はどう?」
短い返答の後、その女性看護士は真っ白な個室病棟に入っていった。窓際の隅の方にパイプベッドが置かれている。その周りには棚やテーブルなど必要な家具や家電が最小限置いてあった。一応、クーラーは設置されているが、今は使っていないらしく部屋の中は蒸し暑かった。
その部屋の主である少女は、窓の外から現実の看護士へと目を戻した。
「暑くない? クーラーつけてもいいのよ?」
「大丈夫です。窓開けているだけで涼しいので」
ベッドに座ったまま少女が答えた。白色のワンピースから除く四肢はこれも雪のように真っ白だ。その真っ白な中では長く伸ばした黒髪がひどく目立った。その様子を看護士は気の毒そうに見ると、
「煮縺先生がもうすぐ来るから、よろしくね」
「はい、いつもありがとうございます」
少女は礼儀正しくお辞儀をした。その様子を見た看護士はさらに憐みの便を募らせた。
「早く退院できるといいわね」
看護士の口から思わず言葉がもれた。礼儀からのものではない。本心からの言葉だった。少女がいつから入院しているかは知らないが、少なくとも彼女が配属されてからはずっとこの場所にいた。そんな少女がかわいそうで仕方がなかった。
「はい、ありがとうございます」
その思いは少女に届いたのだろうか。しかし、ぺこりとまた頭を下げた少女からは、伝わったかどうかはわからなかった。
看護士が出て行ってしまうと、少女、一宮奈央は再び窓の外に目を向けた。
3階の窓から見えるのは雲一つない青空、それにその辺りに建っているビルが見えるだけだ。14年間見続けてみた風景。変わり映えのない風景。でも私にとっては大切なもの。
物心ついた時からこの部屋にいた。ある病気の所為で。
病院の外にはほとんど出たことが無い。でも、別に病院にいること自体は苦痛ではなかった。ちゃんと両親も毎日、様子見に来てくれるし、病院には同年代の友達もいる。
でも、できるなら、もしできるなら、
(外に行ってみたいな……)
いつも窓からいつも見える景色。一宮はその景色に憧れていた。
窓から下を見下ろすと、そこには同じ年頃の少年や少女が見える時があった。もし私があそこにいたら――そんな想像をすることは多々ある。
無理なのはわかっている。でも、自分の中で空想を抱き続けるのは自由だ。
と、その時ノックの音が聞こえてきた。たぶん煮縺先生だろう。一宮は短く返事をした。
予想通り、そこに現れたのはすっかり顔なじみの中年の男性医師だった。煮縺は手近な椅子に座って、一宮と向き合う形になった。
「様子はどうだい?」
「今は大丈夫そうです。ここ数日は何ともありません」
「ならよかった」
煮縺は真底安心したような様子で言った。
「君の多重人格は厄介だからねぇ。僕でも予想しないことがきっかけで大変なことになるし……」
それは自覚している。
私がここにいる理由――私の場合の多重人格は少し面倒だった。
どうやら原因がわからないらしい。今まで何回もカウンセリングなどを受けてきたが、どれも結果は異常なし。それに症状もいつ起こるかわからず、例えばこうやってただ座っているだけの時でも起こったりするらしい。
「それで、君のその感覚とやらは、本当に間違えないのかい?」
「ええ、そのはずですけど……」
それに私自身、その間の記憶が一切ない。何かが語り掛けてきたかと思えば、突然意識が飛ぶのだ。まるで、誰かが自分を押しのけてくるような感覚だけは覚えているが、それを説明してもさらなる混乱を生むだけだった。
「じゃあ、くれぐれも安静にね。何が原因で異常が起こるかわからないから」
もう一度、確認するように一宮を見ると立ち上がった。一宮はその背を見送ると、またまだの外へ視線を向け空想を始めた。
病院内を移動するときも基本的に一人ではうろうろできない。一階の売店に行こうとすると、大体は看護士が同伴する。それを別に煩わしく思ったことはない。むしろ、道中に病院の外の話の話をしてくれるので、それが楽しみだった。
その日も一宮は若い女性看護師と一緒に飲み物を買いに行っていた。そして、再び病室に帰っていた時だ。
「ちょっと、志村さんいい? 患者さんのことで聞きたいことがあるんだけど」
「あ、わかりました呉崎さん――ごめんね奈央ちゃん。一人で帰っててくれない? すぐに終わるから」
そういってその看護士は去ってしまった。一宮は言いつけ通り、待合室を横切ろうとした。その時だ。
一宮に反応してロビーの自動ドアが開いた。普段ならそのまま気にしないが、今回は、一宮は立ち止まってしまった。
僅かに音が聞こえてきたのだ。
陽気な音が。
(お祭り……?)
そういえば、この時期には近くでお祭りがあるのを見たことがある。病室から見ていた時にははるか遠い、自分には縁が無いものだと思っていた。
それが今こんなに近くに感じる。手の届きそうな距離にある。その時、どこからか少年の声が頭の中に響いてきた。
――行ってみたら?
いや、だめだ。
――遠くで見るだけなら大丈夫だよ
と、その時さらに喧騒の音が聞こえてきた。それに増して声も大きくなる。
――ほら、今なら大丈夫だよ
――すぐに戻ってきたらいいじゃないか?
自らに語り掛ける謎の声、それと自分の良心を天秤にかけられた――沈んだ方は……
「すぐに戻ってきたらいいよね……?」
――そうだ。じゃあ、二人で行こう。
一宮は恐る恐る一歩踏み出した。自動ドアは、そんな一宮を肯定するようにあっけなく開いた。
――道が分からないだろう? 案内しよう
その瞬間、異様な感覚に襲われた。しまった、と思った時にはすでに意識は遠ざかっていっていた。
さて、どうするか。
しばらく大人しくしていたけど、いい機会だ。それにうまく外へも出られた。いつもの狭い、退屈な場所ではない。
まあ、とりあえずあいつの言っていた祭りとやらに行くのが、いいだろう。少なくともあいつは興味を持っていた。行って損はないだろう。
彼は、近くから聞こえる喧騒を追っていった。
その場まではすぐだった。そして、その光景を見た瞬間彼は驚いた。
祭りというのは、彼の予想をはるかに上回っていたからだ。
どうせ、病院にいる人ぐらいしかいないだろう。そう思っていた。だが、何だこの人の量は。
あまりの衝撃にその場を動けずにいると、
「嬢ちゃん、どうしたんだい?」
はっとなりまじまじと正面を見た。すると何時の間にやら中年の男がそこにいた。
「それより、お前は誰だ?」
何故かいつもよりはるかに高い声だった。一瞬その男が虚を突かれたような表情をしたがすぐにまた元に戻った。
「俺はこの運営委員会だ」
「で、何か用か?」
「いや、嬢ちゃんがあんまりその辺りをきょろきょろするもんだから、道でも迷っているのかと思ってな。親御さんはどうした? はぐれたのか?」
一人で来た。そう言おうとした時、頭が痛んだ。そして頭の中に声が響く。
――やめて。
黙ってろ
――これ以上放ってはおけない。
(くそ……)
もう無理だ。耐えきれない。体から力が抜けるのを感じた。
「嬢ちゃん、急にどうし……」
だが、彼が聞き取れたのはここまでだった。
気が付いたら、私は病院のベッドの上で寝ていた。
「目が覚めたかい?」
誰か男の人の声が聞こえる。
視界がはっきりしてくると、それが煮縺だということがわかった。
「全く驚いたよ。志村から急に君が居ないって聞いてね。そしたら、夏祭りで人が倒れているって、連絡があってね。急いで行ってみたら君だったんだからねぇ」
確か、あの後また声が聞こえて……。ぼんやりとしていた記憶がだんだん鮮明に蘇ってくる――すべてを思い出したとき、自分が何をしたかを自覚した。
「すいません……。祭りに行きたいと思ったのは私で、その時あれが出てきて……」
「何、君ばかりを責められないさ。志村があんまり君を理解していなかったこともある。彼女はまだここにきてあまり経っていないからね。でも、今回はよかったものの、次はこう上手くいくとは限らないからな、注意ぐらいはしておくように」
煮縺はさしては怒ってはいないようだった。その場にいた看護士に何かを言い置くと部屋を出て行った。
今回のことに自分の中に油断が無かったわけではない。ここしばらく大丈夫だったので今回も大丈夫、そう軽く思ったのが間違いだった。
でも、わかったこともある。
あんなに遠いと思っていた外の世界。それは思っているほどには遠くのものではない。
もっと近くのものだった。それも手を伸ばせばすぐ届くような距離に――。
(今度は……)
今度は、一人で行こう。退院してきっと……。
はじめまして、かなりあと言います。Pixivなどでは漢字表記になっていたりしますが、同一人物です(その内すべて平仮名に統一予定)
これまでちまちまと書いていたのですが、ようやくこのサイトに投稿する決心がついて初投稿に。これからもちまちま投稿していこうと思うのでよろしくお願いします。