プロローグ
プロローグ
――熱い。
最早、何度堪能した灼熱だろうか。堪り兼ねる暑さが鎖の如く身体を縛り上げては喉の奥から呻き声を出させんと必死に奮闘しているかの様な悪夢に、その人物は幾度となく魘されてゆく。静かに眠る事など微かでも許さぬかの様に、幾度となく押し寄せる悪魔の波。
起きているのか、眠っているのか。
最早、その区別も時にはつかなくなると言う事を身を持って痛感している。このまま静かに目を閉じてしまえば、いっそ気楽なのではないか。そんな逃げも幾度となく思考し断じては、また思考し断じて――情けないとしか言えぬ所業に自嘲が零れる話だ。
されど、ここで目を閉じる事は許さない。
否、許したくなかった。他の何人が如何に言おうと他ならぬ自分が自分の甘えを、逃げを許したくは無かった。そんな行為を許してしまうのは自らの行いと、自らの友を裏切る様な事に思えてしまい、故にその人物から諦めは生まれなかった。例え、生まれようとも確固たる決意で処断し這いつくばる道を選び続けたい。
泥にまみれても尚、足掻く道を行こう。
そして再び、夢を追おう――。
途端に力が抜けてゆく感触に苛まされた。
粉雪が溶ける様に。桜が散りゆく様に。淑やかな月夜の様に。
莫迦な――と、驚嘆に思わず口元を緩ませた。力を確と己が体躯に込めていたはずであるのに自身の体からそう言った感覚が、生きるための活力が一切途切れた様な感覚にただただ茫然としてしまう。されど自失しない様に意思を留めるのにどれ程労力がいるだろう。
今までの確かに足掻いていた。確実に這いずっていた。
生きている間の苦痛が穏やかなまでに消えてしまった虚無感に絶望を示さずにいられない。
和らいだ穏やかな湖畔の様に。音も無く、静寂に、静謐なまでに。
手を動かそうと思った。
動いているかなど左程もわからぬまでも天を掴まんとばかりに――今までと同じく夢の為に走っていたころと同じ志で右腕を伸ばそうと手探った。
嗚呼、分からない。
切ない気持ちが思わず零れ落ちた。伸ばせているのか。誰かがこの手を握ってくれている等とは露程も思っていない。誰かが握り返してくれる事など無い事を悲哀な話しながらも自分自身がよくよく知っているのだから。
だからこの手はきっと夢を求めて必死なのだ。
誓いの元に夢見た幻想を今なお、追い求めようと渇望しているに過ぎない。
なんと未練がましい事だろうか。潔く死に逝く覚悟など自分には無かった事を自覚して何とも言えぬ笑いが込み上げてくる。
自分が思い描いた死に様のどれとも違う――何とも在り来たりな最後であると同時に納得は出来ない最後だ。されど――されど、世が不条理で。世界が理不尽なのは今も昔もずっと変わらない真理なのだろう――同じような感慨を抱いた者は果てさて世の中にどれほどいたのだろうか。五万といたのではないか。
そしてこれからも増え続けるのだろう――そんな他人事の様な事を思いながら伸ばした枯れ枝の様な腕を静かに床に乗せた。果たして、伸ばせていたかは定かではないが。
どうやら此処が潮時らしい。
感覚らしい感覚も残っていない事を自覚し、全てを振り解いた。
未練がたくさんある――けれど未練のまま何も変わらない。
後悔もたくさんある――されど後悔のまま誰にも知られない。
心配がたくさんある――しかしもう何の手助けも出来やしない。
痩せ細った枯れ枝のごとき体躯に力は篭っていやしない。皆が褒めた亜麻色の髪もすでに薄汚れた色彩でしかない。強い意志を込めたはずの瞳にももう生きる意志は残ってさえいないだろう――いや、残っていたとしてももう決起不能な程に死期に苛まされているに違いない。それほどに、そう見える程に自分はもうただの骸となる寸前であると理解している。
生きたい。
けれど、意思の強さも意味が無い程にこの体は黄泉へ導く気配に染まってしまったらしい。生きる意志は世界と自分を繋ぎ止めてくれ続けていたが――繋ぎ止め続けただけで、この体躯の熱さが時折、寝静まるだけ。決して完全に拭い去れずに遅延を敷いたに過ぎない。
だから苦悩し、歯噛みもする。
なんと口惜しく、悔しい事か。
これは紛れも無く敗北であり敗績であった。
枯れ果てたはずの涙が頬を伝った事をその人物は知る由も無かっただろう。すでに体の感覚など微塵も働いてやしなかったのだから。こんな場所で散るのかと涙する事を知る由も無かった事だろう。無念だ。無念と言う言葉が怒涛の様に心を切迫する。
安らかとは程遠い。
これで安らかに眠れる等とは到底、思えない。思いたくない。他の誰がもう無理だと言を投げ掛けようとも自分はまだやれる、と息巻いて見せたかった。
潮時だ、なんて。終わりだ、等と。これで最後だ、とさえ。思いたくないし、思うわけにもいかないと言うのに。理不尽で不条理で枯れ果てた声でなお呻き続けた。誰かが訊けば不快に思うだろうしゃがれた声でも、痛切を抑え切れずひたすらに嗚咽を上げ、悲哀の滴を数滴零れ落ちさせては枕もとを湿らせてゆく。なんと無様な最後か。
これが。こんな散り様が。散り様とも言えぬ最果てが。
自分の最後なのだと心が軋む程に理解しながら――。
花弁が散った。ひらり、と静かに庭先に佇む樹が何処か悲しげに枝葉を揺らす。風の仕業かはたまた小鳥でも停まったか。
樹が佇む一棟の家屋があった。
そこは先程まで人の気配がしていたはずだろうに急に何もいなくなったかの様だった。静かに、何も言わず立ち尽くす様に。
そんないつもと変わらぬ情景を、晴天に輝く太陽は一段と赤く、明るく照らしていた。
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