雨が止むまで、君の隣で
雨が降ると憂鬱だという人が多いけれど、私は、雨の日は嫌いじゃない。
ううん、結構、好きなんだと思う。
確かに、ジーンズの裾が濡れると寒いし、髪がはねちゃってまとまらないとか、不自由なことはいつもより増えるかもしれない。
でも、雨が上がるといつもより空が綺麗だと思う。
それに、雨の日はなんだか呼吸が楽。からだの中まで、つめたくてみずみずしい空気に満たされていくみたい。
自分が液体になるみたいな雨と同化する感覚は、今までいろんな人に話してみたけど、うまく説明できたことはなかった。
大好きな図書館も、雨の日は特別好き。
本の匂いがいつもより濃く感じるし、本のページをめくる音と、鉛筆を走らせるカリカリという音が、窓の外の雨音と混じって、眠くなるように落ち着いてしまう。
小さい頃は、雨の日の土曜日が好きだった。雨の午後が好きだったのかな。
お母さんが、帰り道の途中まで迎えに来てくれるのが嬉しかった。高い位置にある傘と、自分の持ってる傘が、違う音を奏でるのを聞くのが楽しくて。
雨の日は特別だった。
でも、ここ一年くらい、雨の日はなんだか寂しくなる。
なんでだろうと考えていたけれど、最近やっと分かった。
ずっといた場所を離れたからだ。
大学に入って、一人暮らしを始めて。ホームシックは、最初のうちだけだったけれど、雨の日は、無意識に懐かしい記憶を呼び覚ましてしまうみたい。
降る場所が違うだけなのに、雨の音は冷たく聞こえてしまうのかな。
「いらっしゃいませー」
いつものようにアルバイト先の喫茶店の扉を開けると、いつものようにマスターの声が出迎えてくれた。
でもいつもと違うものがある。床にはなぜか、ボウルとカップが並んでる。
「恵麻ちゃん!」
「マスター、これ、どうしたの?」
よく見ると、カップには水が溢れんばかりに溜まっている。天井から降りてきた雫が、ピチョンと楽しげに音をたてる。
「もしかして……」
「いや、それよりどうしたの! 頭とか肩とか、びしょぬれだよ!?」
マスターは奥から急いでタオルを持ってきてくれて、よく分からないまま立っている私の髪を拭き始めてくれた。
「傘、なかったの? これじゃ寒かったでしょー。今度からは、電話くれれば大学まで迎えに行くからね。ちゃんと聞いてる?」
「傘、ちゃんと差してたよ。朝から雨、降ってたし」
「え? じゃあなんで……」
マスターは一瞬口を閉ざして考えこんだあと、訝しげに私に訊ねた。
「恵麻ちゃんもしかして、傘差すの下手?」
「そういえば、いつもどこかしらを濡らしてた、かも……」
もしかして、昔から雨の日は風邪を引きやすかったのって、こういうことだったのかな。いつも、雨音や考え事に気をとられて歩いていたからかもしれない。
はあー、まったく……と呆れたようにマスターは肩を落とした。
「でも、こんなに濡れてるのは初めてだよ。何か考えごとしてた? 今日、なんだか元気ないから」
髪を拭いてもらってるから、いつもよりマスターが近くて、ちょっとドキッとしてしまう。
マスターの背は高いから、距離が近いと、うんと首を上に向けないと顔が見えない。外は雨でも、マスターのシャツからは洗濯物のおひさまの匂いがする。
「うん、ちょっと考えごとしてたかも。でも、もう治った」
「え、何が? 何で?」
マスターは、なんだかよく分からないという反応をしてるけど、本当に、さっきまでの寂しい気持ちは、ここに来てから、もうなくなってしまっていた。
「マスター、どうもありがとう」
「どういたしまして。後は自分で拭ける?」
ううん、タオルのことだけじゃなくて、と言おうと思ったけれど、話すと長くなりそうだからやめておくことにしよう。それはまたきっと、いつかの機会に言えたらいいな。
「うん、ありがとう。ねえマスター、この雨漏りどうするの?」
「うーん、今日は、臨時休業! 年季の入った建物を、修理しないでいたのがたたったなあ、こりゃ……」
そう言ってる間も、ふたりでカップの水を入れ替える。雨漏りと言ったら、洗面器がお約束だけど、ここには入れ物と言ったら、食器くらいしかないから。
「明日、修理を頼むとして、今日はゆっくりしますか。やることないから、恵麻ちゃんは帰ってもいいけど、どうする?」
ティーカップ、珈琲カップ、カフェオレボウル、切子細工のグラスまで。なぜかいろんな種類のカップが並んでいる。
大きさも陶器の硬さも違うから、雨粒が落ちるとそれぞれ違う音を奏でて、雨音の音楽会みたい。
「ううん、ここにいる。ここにいたい」
「ほんと? 良かったー。雨の日って好きなんだけど、ひとりでいると、なんだか寂しくなるよね」
「え」
「あ、やっぱ、おかしいかな」
「ううん、違う。そうじゃなくて」
あわてて首をブンブン降る。
「マスター、雨、好きなの?」
「うん。なんだか昔から、好きなんだよね。雨の日って、他の音があんまり聞こえなくなって、静かなのが落ち着くっていうか。でも大人になってからは、静かで逆に寂しくなる、かな」
「私も……」
「ん?」
「私も昔から、ずっとおんなじこと考えてたよ」
そう言ったら、マスターは嬉しそうに驚いてた。
「それにしても、なんで一番大きい容器じゃなくて、いろんなカップを並べたの?」
「え、だって、雨の音が楽しいなー、なんて思っちゃったら楽しくなっちゃって、色んな音を出すのに夢中になってたら、つい……」
「……せっかくさっきのマスター、めずらしく保護者っぽいと思ったのに、もうっ、やっぱり取り消し!」
「なにそれ!? 大人っぽいとかじゃなくて、保護者っぽいって! 俺、微妙に嬉しくないんだけど!」
「うん。お母さんっぽかった。頭ふいてくれたとき」
「ああ、そう……」
ごめんね、半分嘘だよ。懐かしい気持ちになったのは本当だけど、でもちょっとだけ泣きそうになったのは、それだけじゃないよ。
「でも楽しい。雨のメロディーが、ピアノ曲に聞こえる」
「でしょ。ラヴェルの、水の戯れって曲、知ってる?」
「あ、その曲綺麗で大好き!」
「じゃあ、小さい音でかけようか」
蓄音機のスピーカーから、古いレコードの音が流れる。
雨の音にも似た、水の戯れ。
一緒に歌えて、まるで雨粒も喜んでるみたいだ。レコードの音も、心なしかいつもより楽しそうに聞こえてくる。
「あ、そうだ、マスターが傘を忘れたら、私が迎えに行ってあげるからね」
「それじゃ、また恵麻ちゃんが濡れちゃうんじゃないかって、待ってる俺が心配になっちゃうよ。……でも、ありがとう」
雨が降ったら迎えに来てくれるって言ってくれて、すごく嬉しかったんだ。
いつの間にか、自分にとっての遠かった場所が、マスターのそばからだんだんと、落ち着く場所になってたんだね。
雨漏りの音が、リズミカルに楽しげに響いてる。雨が止むまで、まだまだかかりそう。
「ねえ、マスター、もっとさっきの話が聞きたい」
「雨の話? もちろん、いいよ。そのかわり恵麻ちゃんも」
「うん。私の話も、聞いてね」
雨の話をしよう。
雨の日の空気と、雨音のリズム。
きっと上手く説明できなくても、マスターなら分かってくれそうな気がするんだ。
でも今はね、雨が好きなのは、マスターのそばにいる時だけなんだけど、そんなこと言ったら、大人をからかうんじゃありません、って言われちゃうかな。
あなたの隣で雨宿り。
耳を塞ぐのはあなたの低い声と、雨とピアノのオーケストラ。
世界で一番静かで、贅沢な時間。
「うーん。これは、明日も雨でもいいかもなあ」
「え? マスター、雨が好きなのは分かるけど、そしたら修理できないよ」
「……うん、そうだね」