タロットが導く異世界後宮シンデレラ
ドォン――という地響きと共に、闇を裂いて紅蓮の炎が夜空を舐め上げた。
パチ、パチ、と爆ぜる音はやがて轟音となり、焼け落ちる梁の軋みと黒煙が辺りを包み込む。後宮の一角にある翠耀宮は一瞬で無残にもその華美な姿を永遠に失うこととなった。
「ハハハ……ハーッハッハッハ!」
燃え盛る炎を背にした男が、両腕を高く掲げて笑っていた。煤に汚れた薬師の衣。落ち窪んだ目には、恐れも後悔も浮かんでいない。ただ狂気の瞳が、揺れる炎に照らされてぎらついていた。
爆発音を聞き、駆けつけた近衛兵たちが怒号をあげて薬師の男を地面に組み伏せる。
「これは天罰だ! この国はいずれ、全て――」
「うるさい! 黙れ……!」
男の言葉は最後まで紡がれなかった。しかし殺到した近衛兵たちに全身を押さえつけられてもなお、男は喉の奥で笑い続けていた。
***
――翌朝。
「さて、天の采配を、読み解きましょう」
薄暗い室内、蝋燭の炎ひとつに、二つの影が壁に揺れている。真紅の衣装を身に纏った下女、深玲がタロットカードの束から1枚を取り出すと、相対した人物の喉がゴクリと鳴った。
「運命は、もう答えを知っています」
現れたカードは『ワンドの4』の正位置。
――4本の力強い木の棒の間に、美しい花のガーランド(花輪)がかけられている。その奥では、お祝いのベールを被った人々が、歓迎するように花束を掲げて笑っている絵柄だ。
深玲は顔をあげて正面に座る人物へ向け、不敵な笑みを浮かべた。蝋燭の焦げる匂いが微かに鼻を衝く。
「あなたの恋愛運は、近々動き出すと出ています。次の外出時に、想い人から声を掛けられるかも――」
「ほ、本当……!?」
正面に座る下女は頬を薔薇色に染め、両手を胸の前で握りしめた。
ここは下女が寝泊まりする宮女舎の一室。深玲に与えられた部屋だが、ここ最近は噂を聞き付けた下女たちの占い部屋と化している。
「はい。お札が……そう告げています」
「ありがとう、深玲!」
下女は弾む足取りで部屋を飛び出していった。衣擦れの音が遠ざかるのを聞きながら、深玲は軽く息をついた。
「こっちの世界でも恋占いは人気なんだな……」
彼女がこの世界に降り立ってから早数ヶ月。ただのブラック企業勤めの派遣社員だった香坂深玲は、気付けばこの異世界後宮の舞台に転移していた。手には大好きなタロットカードを持って。
最初は戸惑いを隠せなかったが、もともと切り替えの早い性格のおかげか、今では占いができる下女として、それなりに仕事をしながら日々生き抜いている。
唐突にパチ、パチ、と乾いた拍手の音がした。
「相変わらず、口が上手い」
「――っ!」
弾かれたように顔を上げると、扉の陰にいつの間にか男が立っていた。銀縁の眼鏡、常に凪いだ瞳。物音ひとつ立てずに、である。
「え、嵐翠さま? なんでこんな朝早くに宮女舎に……?」
廊下からひそひそと囁く声、慌ただしい足音。どうやら騒然としているのは、深玲だけではないらしい。
彼の名は高嵐翠。後宮の一切を取り仕切る、皇帝の側近。この男が姿を見せるだけで、宮女舎全体の空気がぴりりと張り詰める。
「いつからそこに……?」
「先ほどから。良い見世物でした」
「見世物て」
深玲はがっくりと肩を落とした。頭の芯が、じんわりと重い。占いをした後は決まって鈍い疲労が蓄積する。
「……糖分が足りないな」
そう呟きながら、棚の奥から油紙の包みを取り出した。がさり、と開くと、狐色に焼けた貝殻型の菓子から、バターの甘い香りがふわりと漂う。
マドレーヌ。この世界にはない菓子だ。特別に厨房を借りて自分のためだけに何度も試作を重ねてできた珠玉のおやつ。
一口齧ると、しっとりとした生地が舌の上でほろりと崩れ、蜂蜜の甘みがじんわりと広がっていく。
「……生き返る」
思わず漏らした呟きに視線を感じた。顔を上げると、嵐翠がまじまじと――正確には、彼女の手の中の菓子を見つめている。物欲しそうな目を、隠しもせずに。
「あの、よかったら――」
「頂きましょう」
食い気味の返答に呆れながらマドレーヌの入った竹籠を机の上に置くと、嵐翠は瞬く間に一つ手に取り口へ運んだ。咀嚼する間、常に凪いでいたその瞳が、わずかに見開かれる。
「……美味い」
「よかったです」
流れるような手つきで二つ目を手に取ると、彼はその黄色いお菓子を目に焼き付けるように観察した。
「実に美味い……これは、皇帝陛下が好む味だ。今度陛下を連れて――」
「それは、おやめください!」
深玲は食い気味に遮った。皇帝がこんな場所へ来たら下女は皆卒倒してしまうだろう。
それに深玲には皇帝とただならぬ因縁があった。この世界に降り立った初日、いきなり皇帝の私室へ出てしまった彼女は、彼の痴態を見てしまった罪で死罪を言い渡された経緯がある。それはまた別の話だが。
「お土産にお包みしますので、今日のところはそれでご容赦を」
「……そうですか、ではそのように」
初めからそのつもりだったのか、淡々ともう一つへ手を伸ばしながら、嵐翠はふと深玲を見やった。
「それにしても」
「はい?」
「占いをしている時と、普段とでは、まるで別人のようですね。陛下の前でも、飾らないその顔を見せてさしあげればよろしいのに」
「また死罪と言われるのは、勘弁願いたいので」
深玲が乾いた笑みを返すと、嵐翠の口の端がわずかに緩んだ。だがそれも束の間、表情はすぐに引き締まる。
「――さて、本題です」
声色が変わった。空気が一段、冷たくなる。
「昨夜、翠耀宮で火災が起きました。放火犯はその場で確保しています」
「それはまた、大変でしたね」
「ええ。ですが」
嵐翠は眼鏡を指先で押し上げた。レンズの奥で、瞳が鋭く光る。
「捕らえた男の様子が、いかにも怪しい。自ら妖術を使ったなどと嘯いている」
「妖術、ですか」
「私はそのような戯言は信じません。ですが――あなたの洞察力で、あの男が本当に事件の犯人か、見極めてほしい」
「私は占いしかできませんよ」
深玲はそう言って机の端に置いたタロットカードを見た。人の心の奥まで見透かせるような大層な力など、自分にはない。あるのはただ、カードを引きながら相手の些細な仕草や声の震えを拾う、そんな地味な観察眼だけだ。
「それで十分ですよ」
嵐翠は言いたいことを見透かしたように短くそう答え、踵を返した。
「ついてきてください。男は地下の石牢に留置しています」
有無を言わさぬ足取りで歩き出す背中を、深玲は慌てて追いかけた。宮女舎を出ると、暖かな日差しの中に昨夜の火事の名残なのか、かすかに焦げた匂いが混じっている気がした。
***
石造りの階段を下りるごとに、空気が冷たく、そして重くなっていく。松明の炎が壁に不気味な影を伸ばしている。
牢の一番奥、鉄格子の向こうに、その男はいた。
「この男が、翠耀宮を放火した犯人です」
「放火ではない、妖術で無に帰したのだ」
嵐翠の言葉を遮るようにそう言った男は、煤の残る顔に愉悦を滲ませていた。薬師の服を着て一見優しそうな面持ちだが、瞳の奥に不気味な何かを感じる。
「名前は『陸景』、帝都の一角で薬草の栽培を主な職としています。これまでの犯罪歴はありません。深玲、見てもらえますか?」
嵐翠の言葉に深玲は、タロットカードの束を懐から取り出した。そしてカードを額へ軽く当て、お決まりのフレーズを口にした。
「運命は隠れません。隠したいのは、人だけです」
手の中で静かにカードを切る。シャッ、シャッ、と乾いた音が石壁に反響する。
唐突に、切っていた束から1枚のカードが飛び出して床に落ちた。たまにあるのだが、これはジャンピングカードと言って、普通に引くよりも非常に強いメッセージを伴っていたりする。深玲は床に落ちたそのカードを拾い、表を見た。
『吊るされた男(THE HANGED MAN)』
――T字型の木に片足で逆さ吊りにされた男が描かれている絵柄だ。しかしその顔に苦悶の色はなく、むしろ穏やかで悟りを開いたような静けさがある。
一見すると、捕らわれ、処刑を待つだけの哀れな罪人という意味に見える。でも本当にそうなのだろうか。絵柄の男の穏やかな表情も相まって、そんな単純なリーディングになるとも思えない。
深玲はもう一枚、手元の束から補助カードを引いた。
『剣の9』の正位置。
――ベッドで頭を抱えて起きる人物が描かれた絵柄だ。たくさんの情報を得ることでの混乱、必要以上の不安や恐怖を感じている、と読むことができる。
「ちょっと聞いてもいい? あなたはなぜ翠耀宮に放火したの?」
「放火ではないというのに。まぁいい、質問に答えよう。それは……この国の在り方に嫌気がさしたからだ。この国は一度滅ぶべきなのだ」
陸景は間髪入れずに答えた。あまりに淀みない返事に、逆に深玲の違和感は強くなる。
「滅ぶべきって……それじゃクーデターってこと?」
「くー……なんだって? ともかく俺にはいつ如何なる場所をも消し炭にできる、火を操る妖術がある。国家転覆など造作もないこと」
陸景は片側の口角を上げながらそう答えた。しかしカードが指し示しているのは、そんなクーデターを起こす人の人格ではない。何かに悩み、恐れ、心が押しつぶされそうな男の姿。
「妖術なんてこの世に存在しません。それにこの国を滅ぼすためにすることが、後宮の一角に放火することなのですか?」
嵐翠の言葉に、陸景の眉がピクリと動いた。隠してはいるが、大きな苛立ちを感じたのが見て取れる。
「まだ疑うか。ならば今この場で我が妖術を見せてやろう」
そう言って陸景は、懐から黒いチューリップを取り出した。闇の中でもなお鮮烈な、この世のものとは思えない漆黒の花弁。その頭を容赦なく握りつぶすと、石造りの地面にパラパラと黒い花弁が舞い落ちる。陸景は一枚を摘み上げ、目を閉じた。
「――炎よ、我が意に応え、その姿を現せ」
抑揚をつけた低い声。芝居がかった仕草で花びらを口元に寄せ、ふっと息を吹きかける。瞬間、パッと小さな火花が散り、花弁が赤く燃え上がった。
「おおっ!」
嵐翠が思わず声を上げる。
「ここから南西の方角にある倉庫に火を放った。犠牲者が出ないように祈っておくんだな」
「ふん、戯言を……」
冷静を装う嵐翠だが、少し焦りを感じているのが見て取れる。こんなことでもし本当に火事を起こせるのだとしたら、確かにこれはもう妖術と言っていいのかもしれない。
この答え合わせは比較的早い時間に訪れた。階段を駆け下りてくる足音が響き、息を切らせた兵が飛び込んでくる。
「嵐翠様、たった今、帝都街区にある穀物庫が、火事に……!」
「なに……?」
それを聞いて陸景が、ぽつりと呟いた。
「ククク……これで三ヵ所目」
その一言に、深玲の背筋がぞわりと粟立った。
「ちょっと待って……三ヵ所目?」
深玲の視線を感じ、陸景は、ふふんと鼻を鳴らした。
「嵐翠様、翠耀宮の火事よりも前に、他に火にまつわる事故があったはずです。過去の記録をすぐに調べてください」
「わかった。おい、誰か」
――半刻も経たぬうちに、衛兵の一人が古い調書を数枚、手に戻ってきた。松明の灯りの下、その文字を追う嵐翠の顔が、みるみる険しくなっていく。
「……ひと月前、軍事局最高責任者の郭鎮殿が事故で亡くなったんだが……死因は、焼死のようだ」
その言葉を聞いて陸景は口角を歪めた。
「カハハハッ、今頃気付いたか、それも俺がやったんだ。俺の妖術は本物なんだよ!」
嵐翠は口を開かずにじっと陸景を見ている。
「早く俺を、死罪にしたほうがいいぞ! でなければ……この国は、炎に包まれる!」
陸景は高々と笑い声を上げた。だが、その哄笑はどこか無理に押し出したもののように、深玲の耳には響いていた。
***
妃嬪たちを含め二千人近い宮女が住む後宮。その北側に、皇帝を中心とする国の根幹となる『皇宮』がある。政庁や中央軍事局、皇帝の御座所などがあり、一介の宮女は立ち入ることさえ許されない雲の上の場所だ。
その雲の上の頂点の場所、皇帝の私室で絹張りの椅子に深く腰掛けた若い男が、小皿の上のマドレーヌを一口齧った瞬間、その眉がわずかに上がった。
「……美味いな、これは」
この国の皇帝、李蒼偉は菓子の欠片を惜しむように、口に放り込んだ。窓から差し込む日差しを受け、彼の美しい黒髪と切れ長の瞳が輝いている。
「陛下。また毒見も付けずに、いきなり口にされて」
嵐翠は書類を捲る手を止めぬまま、横目でそれを一瞥した。
「あの占い下女が作ったものだろう。なら問題ない」
あまりに当然のように返された言葉に、嵐翠は思わず息を漏らす。
「……随分と、信頼されているようで」
「なんだ、その顔は」
「いえ、何も。ちなみにその菓子は『まどれえぬ』という名前だそうです」
嵐翠は表情を消し、話を戻した。書類を差し出す指先が、紙をかすかに擦る音を立てる。
「本題です、陛下。翠耀宮の放火事件について」
「ああ、聞いている。それで?」
「男を尋問したところ、妙な様相を見せております。単純な放火事件ではなさそうです」
蒼偉は書状にちらりと目を通しただけで、興味なさげにそれを卓の端へ置いた。
「引き続き、お前に任せる」
「――かしこまりました」
「……何か言いたげだな」
蒼偉は飄々とした嵐翠の反応を見て眉間にしわを寄せた。
「いえ、もう少し後宮に興味を持たれればよろしいのに、と」
「ふん、先帝から受け継いだままの後宮に興味はない。それに今は仕事が忙しい」
「陛下はもう二十四歳でしょう……子を作るのも皇帝の仕事ですよ」
「ぐ……正論ばかり言いやがって。とにかく後宮の管理はすべてお前に任せる。とりあえず――」
その声が、一段低くなった。
「後宮内の勢力図が変わらないよう、注意しておけ」
「かしこまりました」
嵐翠は一礼したが、蒼偉の視線が書類の隅、深玲の名が記された一行に、わずかに留まっているのを見逃さなかった。
「……して、その占い下女は……今回の一件、なんと言っている」
「気になりますか」
「別に。ただの確認だ」
「そんなに気になるなら、直接お聞きになればよろしいのでは。ここへ深玲を呼び出しましょうか?」
「――ば、馬鹿を言え!」
蒼偉の声が跳ね上がった。
「一度、死罪を言い渡してしまった相手だぞ。これ以上何かあれば、我の印象が……」
蒼偉の頭に怯えた深玲の顔が浮かんだが、すぐにかき消した。
「し、しかも私の秘密を知る唯一の人物だ、無下に頼み事はできん!」
しどろもどろに言葉を並べる蒼偉の耳が、みるみる赤く染まっていく。
「それに、皇帝の立場で一介の下女をわざわざ呼び出すなど……そんな、暇に飽かせているような真似、できるわけが……」
嵐翠はその様子を、しばし黙って眺めた。常に隙のないこの皇帝が、たかが下女の名を出しただけでここまで動揺するとは。
「……承知しました。深玲は特に何も。彼女は今、後宮内で聞き込み調査を行っています」
嵐翠は口元にだけ、微かな笑みを浮かべて答えた。
「そうか、近いうちに沙汰を出さねばなるまい。進展があれば逐次報告せよ」
そう言って蒼偉は新たなマドレーヌを口に放り込み、その芳香を楽しむように目を閉じた。
***
嵐翠が皇帝の蒼偉へ進捗報告している頃、深玲は噂好きの友人、桃漣と後宮の大通りを歩いていた。
「――というわけで、なんか引っかかるんだよね」
深玲は歩きながら、牢獄での一部始終を桃漣に話して聞かせた。
「その陸景って人、薬草を後宮に卸していた人でしょ? 何度か見たことあるけど、そんな大それた人には見えんかったなぁ」
「そうそう、なんか犯人らしくないんだよね。国家転覆を図ってるなら、もっと自分の主張を声高に伝えるはずだし。早く自分を死罪にしろ、なんて……」
「んー、他にも仲間がいるんちゃう? ほら、彼は命令されてるだけとかさ」
「うーん、そんな風にも見えないんだよね……」
深玲は歩きながら宙を見上げた。雲一つない青空が広がっている。時間は昼過ぎといったところだろうか。
「そういえば、彼ってさ、恋人がいたはずだよ。下女の子で。確か……『春蘭』って言ってたかな」
「え、ほんとに?」
「うん。前にこっそり逢引してるとこ見た子がいてね。噂じゃ、後宮に仕官される前からの付き合いだったんじゃないかって話。西の宮女舎の子らしいし、今から会いに行ってみる?」
「もち」
相変わらず桃漣の情報網は幅広い。深玲は彼女の情報を占いに取り入れることで、今の立場に納まることができたとも言える。この世界でなくてはならない友人だ。
頭の後ろで腕を組んで隣を歩いていた桃漣が、前方を見て低く、鋭い声を上げた。
「――伏せて」
桃漣が素早く深玲の袖を引き、道の端へと引き寄せた。他の宮女たちも次々と道を空け、頭を垂れていく。
数十メートル先、絹の衣擦れの音と共に、艶やかな紫の衣を纏った女人が、複数の侍女を従えて歩いてくる。切れ長の目に、値踏みするような一瞥。それだけで深玲の背筋に冷たいものが走った。
王牡丹貴妃――四夫人の一人。すれ違いざま、彼女の視線が深玲の姿にほんの一瞬だけ留まったが、興味を失ったようにすぐに逸れていった。
行列が通り過ぎるまで、誰も顔を上げなかった。
「……はぁ、緊張した」
行列が遠ざかるのを見送り、桃漣が詰めていた息を吐き出す。
「えっと、今の人が……貴妃さま?」
「うん。王貴妃様。四夫人の中でも、今一番権勢のある方ね。ほら、以前、楊徳妃様が巻き込まれた事件があったでしょ? それで四夫人の中の権力争いで一気にのし上がってきた感じかな……まぁ私ら下女にはあんま関係ない話だけどさ」
四夫人とは、後宮の中で最も権威のある四人の上級妃のことで、貴妃、賢妃、徳妃、淑妃の冠を拝している。
今現在は徳妃の座が空いているため上級妃は三人だが、その空位に誰が座るのか、権力者の間では熱い話題となっているようだ。
「ま、昨年代替わりした今の皇帝は後宮には興味ないみたいだからいいけど……せめて寵愛に通い出す前に上級妃の名前くらい覚えようね」
「う、はい……」
深玲は、遠ざかっていく紫の裾を見つめながら、小さく息を吐いた。
(占いだけしてればいいと思ってたけど……この後宮、思ったよりずっと、ややこしい場所みたい)
華やかな衣と香の匂いの奥に潜む、静かで底の見えない緊張感を、深玲は今更ながらに肌で感じ取っていた。
***
大通りを抜け、ちょっとした広場の涼水地を過ぎた辺りに宮女舎西棟はある。建物自体は古く、ところどころ木材が色あせている個所もあるが、全体的に奇麗に保たれていた。床に塗ったニスの香りが鼻腔をくすぐる。
「――失礼します」
目当ての下女、春蘭のいる大部屋を訪ねると、応対に出たのは同室らしい別の下女だった。
「……見かけない顔ですね、何の用です?」
「あ、えーと……昨日の翠耀宮の火事について、春蘭に少し話を聞きたいと思って――」
「ああ……」
その言葉で何かを察したのか、その下女は深玲と桃漣の下女特有の見すぼらしい恰好を上から下まで一瞥すると、視線を戻した。
「彼女なら、しばらく前から臥せっていて……今は誰とも話せる状態ではないです」
「臥せって? 何かあったんですか」
「まぁ……最近、いろいろあったから、心労かとは思うけど」
同室の下女は、困ったように息を吐いた。そして部屋の隅を振り返り、薄い布団にくるまって寝ている春蘭をチラリと見やると、二人を連れて廊下に出た。
「私が知っている範囲でよければ、お話しします」
そう言って彼女は背中で部屋の扉を閉めた。この時間は皆仕事で忙しいのだろう、館内に他の下女の姿はない。
「あの子と陸景様のことですよね。確かに仲良くしていましたよ。よく庭で待ち合わせしているのを見かけましたし」
「そうなんだ……」
「でも……」
彼女は、ちらりと廊下の左右を窺ってから、さらに声を落とした。
「これは、ここだけの話にしてほしいんですけど」
「はい」
「実は少し前から、ある高官様からも言い寄られていたみたいで」
「高官様……?」
深玲と桃漣は、思わず顔を見合わせた。
「ええ。軍のお偉い方だったとか。すごく熱心に贈り物をされていたみたいで、あの子も断りきれずに、何度かお会いしていたようです」
「それって、つまり……」
「二股、というほど本人に自覚があったかは分かりませんけど。陸景様には、言い出せなかったと思います」
彼女は痛ましそうに目を伏せた。
「それで……ひと月ほど前に、その高官様が、お亡くなりになったでしょう? あの子、その話を聞いてから、急に塞ぎ込むようになって。それから、ずっとあの調子で」
「……え?」
深玲の背筋に、冷たいものが走った。
(亡くなった高官……それってつまり……)
思いがけないところから事件のピースが繋がりつつある。春蘭の臥せった原因が単なる恋人の逮捕に対する心労、というだけでは片付けられない何かが、そこにはある気がした。
「ありがとうございます。参考になりました」
「いえ……」
下女が頭を下げて部屋に戻ろうとした、その時だった。
「あ」
深玲が小さく声を上げた。視線の先――開いた扉の先にある小さな花瓶に目が釘付けになる。
――黒いチューリップが、一輪。
「これは……?」
「ああ、それ。少し前に、誰からともなく部屋の前に置かれていたみたいで。差出人は分からないって、春蘭も言ってました」
彼女は何気なくそう言うが、深玲と桃漣は無言で顔を見合わせた。
陸景が握り潰していたのと、同じ花。
(差出人不明……本当に、そうなのかな)
深玲は思わず部屋の隅の布団の丸みを凝視していた。
***
「――というわけで、陸景には恋人がいました。宮女舎の西棟に所属している春蘭という下女です」
後宮内にある嵐翠の執務室にきた深玲は、間を置かずに聞き込みの内容を話し始めた。ふと卓の上を見ると、陸景が握り潰したあの黒いチューリップの花弁が一枚、証拠として置かれている。
「あ……」
何も言わずにその黒い花弁を手に取り、匂いを嗅ぐ深玲。微かに鼻の奥をつく消毒液のような匂い。
嵐翠は書類から顔を上げ、その様子をじっと見つめた。
「で、その春蘭という恋人が陸景の共犯で、放火の手伝いをしてたと、そういう話ですか?」
「いえ……」
深玲は懐からタロットカードを一枚引き、卓の上に伏せて置いた。捲る前から、なんとなく答えは分かっている気がしたが、一応形だけ確かめる。
『剣の6』の正位置。
――静かな水面を、小舟でゆっくりと渡っていく人影の絵柄。
春蘭がずっと臥せっていたイメージにピタリと当てはまる。
「それはないと思います。彼女はここひと月ほどは部屋から出られないほど病んでいるようですので」
「ふむ……」
「それと、もうひとつ。ひと月前に焼死した高官についてです」
「ああ、軍事局最高責任者の郭鎮殿のことですね」
深玲は郭鎮が春蘭に言い寄っていたことを伝えた。そして部屋に黒いチューリップが一輪、飾られていたことも。
「……郭鎮との関係、その恋人の二股疑惑、そして、黒いチューリップ」
腕を組み、思案するように目を細める嵐翠。
「うーん、あまり色恋沙汰には興味がないのですが……陸景は彼女に振られた腹いせに、国家転覆を図ったと、そういうことですか?」
「ぷ、そんなわけないでしょう」
深玲は思わず噴き出した。真面目な顔して荒唐無稽なことを言う嵐翠があまりに可愛かったからだ。その様子を見て嵐翠が耳を赤くしながらムッとする。
「違うと言いきれますか? その根拠は?」
「いろいろと言えることはありますが、しいて言うなら……勘、かな」
深玲は肩をすくめた。それを見て息を漏らす嵐翠。
「なるほど、占い師の勘は無視できないですね。――ところで、一つ報告が」
おもむろに嵐翠は深玲のほうへ向き直った。ほんの少し空気に緊張感が走る。
「先ほど、四ヵ所目の火災が確認されました」
「え……また?」
「今度はよりにもよって皇宮の敷地内です。中央軍事局の武器保管庫が爆発、炎上しました。陸景に確認したところ、それも自分がやったと」
嵐翠の眉間に、深い皺が寄る。
「正直に言えば、こうも奴の言う通りに事が運ぶと、本当に妖術のようなものが存在するのではないかと……疑いたくもなります」
「嵐翠様でもそんなこと考えるんだ」
「私とて、人間です」
珍しく弱気な言葉に、深玲は思わず苦笑した。だが、すぐに真顔に戻る。
「少し、確認したいことがあるんですが」
「なんです?」
「郭鎮の焼死事件が陸景の仕業であるなら、どこかで二人は顔を合わせている可能性があります。何か仕事で絡みがあったというような話はないですか?」
「ふむ……」
嵐翠は顎に手を当てて少し考えこんだが、すぐに向き直った。
「郭鎮殿は日中のほとんどを皇宮で過ごされていましたので、仕事上での関わりはないでしょう。ただし、皇宮外での行動はわかりませんね」
「そう、ですか」
深玲はおもむろに卓の上のタロットカードを手に取ると目を閉じた。
「少し、集中します」
嵐翠が見守る中、深玲は目を瞑ったまま大きく深呼吸をすると、切ったカードから立て続けに二枚、卓の上に配置した。現在と未来を見通すための、『ツーオラクル』という手法だ。
「左に置いた札が現在、右に置いた札が未来を表しています」
そう言って左に置いたカードを捲った。
『隠者(THE HERMIT)』の正位置
――闇の中で蝋燭を掲げる老人が描かれた絵柄。
「探している情報は、光の当たらない暗闇の中に隠されている……何も動かなければ、真実は闇に葬り去られます」
「ふむ……」
続けざまに右のカードを捲る。
『塔(THE TOWER)』の正位置
――雷が落ち、崩れ落ちる巨大な城塔が描かれた絵柄。
「塔が崩れ落ちているので一見不吉に見えますが、これは『積み上げられた偽りが崩れ去り、衝撃的な真実が暴かれる』という意味があります」
そう言いながら深玲は、『隠者』のカードに描かれている老人を見た。
「……郭鎮のプライベートに何か手がかりがあるかもしれません」
「なるほど、『ぷらいべえと』が何かわかりませんが、彼を調査したほうが良いということですね」
「彼の家の場所を教えてもらえますか?」
「ふむ、確か……帝都街区の南東に彼の屋敷があったはずです。少しお待ちを」
そう言って本棚から地図を取り出そうとした嵐翠だが、そこで思わぬ邪魔が入った。
「嵐翠様、皇帝陛下がお呼びです。至急、御座所まで来いと」
「……わかりました」
衛兵の声を受け、手に取った地図を深玲の前に開くと、嵐翠はそのうちの一点を指差した。
「出来れば私も一緒に行きたいところですが、もっと大事な用が入ったようです。本当は私が戻るまで待って欲しいのですが……」
「待っていたら日が暮れてしまいますよ。一人で行ってきますのでお気になさらず」
「わかりました。あなたに何かあったら陛下からお咎めを受けますので、決して無理をなさらぬよう」
さらりと気になることを言い残し、嵐翠は部屋を出ていった。
(私に何かあったら皇帝からお咎めを受ける? そんなわけないじゃん。ただの下女よ、私……)
深玲は遠ざかる嵐翠の足音を聞きながら、地図を片手に反対方向へ向かって歩き出した。
***
「この件は私に一任するのではなかったのですか?」
「ふん、気が変わった。お前だけに任せておくのも、性に合わん」
石造りの階段を下りながら嵐翠は肩を落とした。本来であればこんな場所に皇帝をお連れするなど前代未聞だろう。簡素な外套を纏ってはいるが、石牢の光景にまったく馴染もうとしないその高貴な佇まいとその行動力に、嵐翠はため息をつくしかなかった。
「それに、ひとつ放火犯に聞きたいことがあってな」
蒼偉はそう言って、嵐翠の隣に並び立ち、牢の格子越しに陸景を見据えた。
陸景は予想だにしなかったであろう皇帝の姿を認めるなり、目の色を変えた。
「こんなところに……まさか皇帝陛下がやってくるとは。ついに私に死罪を言い渡しに来たということか」
陸景はゆっくりと立ち上がり、格子の前に歩を進めた。その様子を見て脇にいた衛兵が緊張感を高める。
「さぁ、迷うことはない、今すぐ私を死罪にしろ!」
「――断る」
蒼偉の返答は短く、迷いのない声だった。それを聞いた陸景は目を見開いた。
「な、なぜだ! 俺は罪を犯した! 妖術で国を焼き尽くそうとした大罪人だ! さっさと首を刎ねればいい!」
「俺は暴君ではない。どんな内容でも事の真偽を見極めてから沙汰を下す。それがこの国の法だ」
陸景は歯をむき出しにして皇帝を睨みつけた。蒼偉はその視線の奥を見透かすように見据えると、やがて静かに口を開いた。
「ひとつ聞きたいことがある。なぜ、郭鎮を殺した」
石牢の中の空気が、一瞬止まった。陸景の口元に、ゆっくりと歪んだ笑みが浮かぶ。
「――だって、目障りだったからですよ」
「……何?」
「奴が何をしていたか知っていますか? 軍の機密だ何だと偉そうに振る舞って私腹を肥やして。挙句の果てに女遊びを繰り返す始末。ああいう手合いは、この国にとって害悪でしかない。私は、いわば――国のために掃除をしてやったんです」
「……」
「陛下も、内心では感謝しているのでは? ああいう腐った膿を飼っておくよりはずっといい」
蒼偉の眉間に、深い皺が刻まれた。表情の温度が、目に見えて下がっていく。
「――貴様」
押し殺した声。それは、これまで嵐翠も聞いたことのないほど低い響きだった。
「臣下の命を、掃除だと」
「ええ。だって事実でしょう」
陸景は悪びれもせず、むしろ愉快そうに肩を揺らした。
「陛下だって、あの男のことは疎ましく思っていたはず。私が代わりに手を汚してやったんですよ。他にも存在を消したい人がいるようなら、今この場で――」
「黙れ」
蒼偉の声が、牢獄に低く響いた。
「臣下の生死を、貴様のような男が勝手に決めるな。それがどんな人間であろうと――俺が、この国の法に則って裁く。それだけだ」
「はっ……相変わらず、お綺麗なことだ」
陸景は嘲るように笑った。
「まあいい。俺は俺のやり方で、けじめをつけるだけだ」
「けじめだと?」
「まだ陛下が現実を見ないと言うのなら――この国が辿るべき未来の続きを見せて差し上げましょう」
陸景は懐から、最後の一輪となった黒いチューリップを取り出し、花びらを一枚、口元へ運ぶ。
「郭鎮と言ったか……? 奴の生きてきた痕跡を派手に燃やし尽くしてやろう」
「――!」
嵐翠が息を呑んだ。陸景の口元にあった漆黒の花弁がパッと火に包まれる。
「これで五件目……私腹を肥やした奴の家はかなり広い。派手な炎上となるでしょう。陛下は国が燃えるのを見てゆっくり後悔すればいい」
「陛下! 郭鎮の家には今、深玲が――!」
それを聞いて陸景の眉がピクリと動いた。
蒼偉の目が、大きく見開かれる。
「今すぐ妖術を止めろ!」
「無理な相談ですね。たった今、妖術は我が手を離れた」
陸景は、ぞっとするほど昏い笑みを浮かべた。
「急いだほうが良いですよ……もしかしたら燃え尽きる前に彼女を救い出せるかも――」
「嵐翠! 急げ!」
蒼偉の一喝が、牢獄に轟いた。踵を返し、駆け出す嵐翠を見送るその拳は、白くなるほど強く握りしめられ、皮膚の下からうっすらと血の色が滲んでいた。
その様子を見ていた陸景の額に、わずかに汗がにじみ出ているのを蒼偉は気付かなかった。
***
――少し前。
帝都街区の南東に位置する郭鎮の屋敷。人の行き来の多い場所にも関わらず、かなり広い敷地にはちょっとした竹林や鯉が泳ぐ池がある。もちろん屋敷も通常の何倍もの大きさだ。
「はぁ、金持ちってやつは……」
深玲は竹垣の隙間から敷地へ入り、その広さに感嘆の声を漏らした。庭を通って屋敷の中へ入ってみる。人気のない屋敷の中は、しんと静まり返っていた。
誰も踏み込まなくなって久しいのか、床や机の上にはうっすらと埃が積もっている。にもかかわらず、屋敷全体にほんのりと甘い匂いが漂っていた。
見渡す限り部屋数は両手では数えられないほどあり、更に奥には屋根裏へ出られるよう登り階段が見える。ここから何かを探すには苦労しそうだと深玲は苦笑した。
「目的は陸景との繋がりがわかるもの、もしくはひと月前の焼死に繋がる何か……」
とにかく近くの部屋から順に漁っていく深玲。屋敷全体からチリチリと何かが燻っているような音が聞こえる。いくつかの部屋を調べ終え、収穫があったのは小さな書斎の文机だった。
「……これは」
一枚の紙片に、深玲の手が止まる。
几帳面な筆致で綴られたそこには、想い人がいるため気持ちには応えられないこと、大切な人の形見の品を返して欲しいこと、そのために出来ることは何でもする、といった内容が記載されていた。そして差出人の欄には『春蘭』の文字。
(この人……春蘭を脅していたんだ)
背筋に薄ら寒いものを感じながら、深玲はさらに引き出しの奥を探ると、指先に硬いものが触れた。
取り出してみると、それは繊細な細工の施された、女性物の髪飾りだった。独り身の男の屋敷には、明らかに不釣り合いな品。
(これが……手紙にあった形見の品かな)
望まない恋慕の情を押し付けられ、大切なものを奪われた春蘭の気持ちを思うと胸が痛む。もしかしたら、これをきっかけにもっと酷い目にあったのかもしれない。
髪飾りを懐に慎重にしまい込んだ、その時だった。
「深玲! 逃げろ――!」
外から切迫した声が響いた。嵐翠の声だ。
振り返るより早く、頭上――屋根裏で何かが弾けるような音がした。
「え――」
視界いっぱいに橙色のまばゆい光が広がる。
ドンーーという轟音と共に屋根が吹き飛び、炎が雨のように降り注いだ。爆風に吹き飛ばされ、深玲の身体は床に叩きつけられる。
「あぐっ!」
息ができない。耳の奥がキンと鳴り、視界の端が白く霞んでいく。
(あ……)
朦朧とする意識の中、仰向けになった深玲の目は崩れ落ちた天井の梁の隙間――そこに仕掛けられていたものを、はっきりと捉えていた。
小さな香炉。その中でゆっくりと、しかし確実に燃え進んでいく一本のお香。そしてその先端に結ばれた一本の紐が、焦げ落ちながらもまだ辛うじて原形を留めている。
(これ……導火線……?)
あらかじめ仕込まれ、時間をかけて燃え進む香に火を灯し、然るべき時刻に導火線へと火が渡るよう計算された、ただの――
(時限、装置……だ)
最後にそれだけを胸に刻み、深玲の意識は、炎の熱と共に闇の中へ落ちていった。
***
暗闇の中でまず感じたのは、鼻先をくすぐる薬草の匂いだった。
(……ここ、どこ)
重い瞼をゆっくりと開けると、白い天蓋が視界いっぱいに広がった。全身が鉛のように重く、あちこちが軋むように痛む。だが、それだけだった。焼けるような熱さも千切れるような痛みもない。
「――目が覚めたか!」
弾かれたように聞こえた声に、深玲は緩慢に視線を動かした。寝台の脇、椅子から腰を浮かせかけているのは、蒼偉だった。
「へ、陛下……?」
「動くな。まだ、寝ていろ」
蒼偉は深玲の肩を軽く押さえると、傍らに控えていた医官に鋭く目をやった。
「容態は」
「はい。外傷はいくつかございますが、いずれも軽微。骨に異常もなく、数日休めば、日常に支障はないかと」
医官の言葉に、蒼偉の肩から、目に見えて力が抜けた。詰めていた息を、これでもかというほど長く吐き出す。
「……そうか」
その一言だけで、どれほど安堵したかが伝わってくるようだった。
「あの……陛下?」
「な、なんだ」
「どうして、ここに……?」
「どうしたもこうしたも……ここは我専用の医務室だからいるのは不自然じゃないだろう? それに医官に用があって赴いたらなぜかお前が寝てて――」
「陛下、顔、怖いですよ」
「いやこれは、もともとそういう顔というか! ……すまぬ、怖くしているつもりもないが……」
しどろもどろになる蒼偉を見て、深玲は思わず小さく笑った。この人は、こういう時、いつも余裕をなくす。
「我は、お前を怖がらせてばかりだな……」
「そんなこと、ないですよ」
肩を落とした蒼偉に深玲は向き直った。
「不安な時に、こうやってそばに居てくれるだけで、ありがたいです」
「そうか」
蒼偉の表情に光が差した。年齢よりも幼く見える彼の整った顔を、深玲はまじまじと見つめた。視線を感じた蒼偉は目を逸らし、コホンと一つ咳払いをする。
「さて、我の用は済んだ。この後、放火事件の三司会審が行われる。お前はしばらくここで休んでいろ」
三司会審とは、いわゆる裁判のことだ。皇帝を始めとする国を動かす重鎮が罪を犯した者を審議する。もちろん今回の審議対象は陸景だ。
「私は行かなくていいんですか」
「いい。お前はもう十分に働いた。ゆっくり休め。沙汰は追って知らせる」
そう言って背を向けた蒼偉の顔に、深玲は一瞬だけ、隠しきれない怒りの色を見た気がした。眉間の皺、固く引き結ばれた唇。あれは、単なる事件への苛立ちにしては、あまりに深い。
蒼偉が遠ざかるのを見て、医官もそそくさと医務室を後にする。この必要以上に広い豪華な医務室に、深玲は一人取り残された。途端にしん、とした静寂に包みこまれる。
(あ……よかった)
何気に這わせた指先に、硬いものが触れた。擦り切れた一組のタロットカード。爆発の混乱の中でもしっかりと懐に収まっていたらしい。染み一つ付いていないカードを見て、深玲は心底、安堵の息をついた。そしてそのまま身体を後ろに倒し、寝台の上で仰向けになる。
「さて、と……」
深玲は天蓋を見つめたまま、これまでの出来事を頭の中で組み立て直していった。郭鎮の屋敷で新たに知った事実。整理したい情報は山ほどある。
(今回の事件のきっかけは……)
陸景が翠耀宮の前で衛兵に捕まったことから始まった今回の事件。妖術を使ったなんて言うから、最初は頭のおかしいマッドサイエンティストかと思った。しかし牢獄でわずかに見せた憂いの表情。ただの放火事件ではないと悟ったのもこの時だった。
でも一人で行うには放火の規模が大きい。もしかしたら組織的な犯行かも、と最初は思った。結果的に翠耀宮、穀物庫、武器保管庫、そして郭鎮の屋敷の四箇所が爆破、炎上している。国家転覆を口にしていたし、組織的な犯行を疑うのが普通だ。
そして、春蘭の存在。
陸景の恋人であり、あの臥せっていた下女。彼女は郭鎮に言い寄られていたという。断り切れずに何度か会っていた、とも。
(あの髪飾り……)
深玲は懐から取り出した繊細な細工の施された髪飾りを見つめた。独り身の男の書斎に、不釣り合いなほど上品な品。春蘭の手紙にあった通り、大切な形見の品だとしたら、それを奪われた絶望感は如何ほどのものだったのだろうか。
もしかしたら、この形見の品を人質にもっと酷い要求に応えていたのかもしれない。
(陸景が、それを知ったら――)
大切な人が、心無い相手に踏みにじられている。それを知った恋人が、怒りに我を忘れたとしても、不思議ではない。
(だから、陸景が妖術を使って郭鎮を殺した……?)
「いや……」
脳裏に蘇るのは郭鎮の屋敷、崩れ落ちた天井の隙間に見えた光景。ゆっくりと燃え進む香盤。それに結ばれた油を染み込ませた導火線。
陸景の妖術の正体は、ただの時限発火装置だった。燃やしたいものがあっても事前準備が必要だし、そもそも人に対して使えるトリックでもない。ではなぜ、彼は妖術を使って郭鎮を殺したと言い出したのか。
(それに、国家転覆なんて大それた目的を掲げた理由が、どこにもない……)
私怨を晴らすためだけなら、郭鎮が亡くなった時点で十分だったはずだ。なのに、なぜ関係のない場所まで、次々と燃やす必要があったのか。
(自分の罪から、目を逸らさせるため……? いや、それだけじゃ、説明がつかない)
何かが足りない。これらの情報を繋げるにはもっと大きな発想の転換が必要かもしれない。
深玲はゆっくりと身を起こすと、懐のタロットカードを取り出した。
――幾度となく、ピンチを切り抜けてきた大切な相棒。行き詰まった時はいつもこうしてきた。占いに絶対の力なんてない。そんなことは、誰よりも深玲自身が分かっている。それでも、行き詰まった思考をふっと解きほぐし、見落としていた欠片に光を当ててくれるのは、いつだってこの一組のカードだった。
束の中から、最初に陸景を見た際に引いた彼を象徴するカード――『吊るされた男(THE HANGED MAN)』を取り出す。深玲はそれをベッドの上に置き、残りの束を額に当てて目を瞑った。
「運命は、もう答えを知っています。真実を――詳らかに――」
小さく呟き、目を閉じて引いたもう一枚のカードをゆっくりと捲り、『吊るされた男(THE HANGED MAN)』の隣に置いた。
『正義(JUSTICE)』の逆位置。
――片手に剣(裁き)、もう片手に天秤(公平さ)を持った女神が描かれている。
正位置であれば『公平さ』や『正しい判断』を指し示すカードだが、これが逆位地ということは……。
「正義が……傾いている?」
ぽつりと呟く。
不公平、偏り、冤罪……背負おうとしている罪の重さと、実際に犯した事実のバランスが合っていない。
「間違った裁きが下されようとしている……」
そこまで言って深玲はハッとした。
「違う、裁きが間違っているんじゃない……」
深玲の目が『正義』のカードに釘付けになる。
「裁かれようとしている人が、違う」
つまり――。
「……誰かの、ため?」
その言葉が、頭の中でカチリと音を立てて嵌まった気がした。
翠耀宮を爆破したのも、その前で衛兵に捕まったのも、すべて演技だったとしたら……。妖術に見えるように時限装置をセットし、頭のおかしいテロリストを演じて死罪を懇願する。あの狂気の目の奥に感じていた違和感の根源が、全て誰かを守るためだったとしたら。
――ふと頭の中に黒いチューリップが浮かんだ。
「あのチューリップは何か意味があるのかな」
チューリップと言えば基本は赤いものが主流だ。黒いものは元の世界でもネットの情報でしか見たことがなかった。
「花の、意味……理由……言葉?」
この世界で『花言葉』なんて概念があるかどうかはわからなかった。でも黒いチューリップにも何か意味があるのだとしたら。
深玲は記憶の糸を手繰った。前職の色気のない蛍光灯の下。昼休みに眺めていたスマホの画面。タロット占いの動画にも、花というのは意外とよく出てくる話題だった。黒いチューリップも、どこかの占い動画で見た記憶があった。
黒。色のない色。喪失。終わり。そして――。
「あっ……!」
深玲の手から、カードがパラパラと膝の上に落ちた。
脳裏にすべてのパーツが一斉に繋がっていく。陸景の演技、恋人の存在、髪飾り、時限装置、そして、黒いチューリップ。
バラバラだった欠片が、たった今、一枚の絵として像を結んだ。
「――そういう、ことだったんだ」
声が、震えていた。
これは単なる殺人事件でも、クーデターでもない。
もっと静かで、深い――一人の男の最後の願いだ。
「早く……!」
深玲は寝台から飛び降りた。まだ鈍く痛む身体に構う余裕もない。
「早く、知らせないと……!」
医務室の扉を突き飛ばすようにして、深玲は廊下へと駆け出した。
***
大審議殿の広間には、重々しい沈黙が満ちていた。
玉座に座す蒼偉を筆頭に、左右にずらりと並ぶ重鎮たち。その中には、王貴妃、雷賢妃、柳淑妃――四夫人のうち三名の姿もあった。
広間の中央には、鎖に繋がれた陸景が、静かに跪いている。
「もう一度問う」
宮廷官吏である墨淵が厳しい声を発した。
「なぜ、これほどの数の火災を起こした。真の目的はなんだ」
「先ほどから、何度も申し上げている通りです」
陸景の声は乾いていた。
「妖術を用い、この国を混乱に陥れるため。それ以上でも以下でもありません」
「動機は? 国への恨みか、それとも――」
「理由など、どうでもよいでしょう」
陸景は跪いたまま、顔を上げた。
「私は大罪を犯しました。それだけで十分ではありませんか……どうか、早く沙汰を」
誰が何を尋ねても、その答えは揺るがなかった。まるでそれ以外の言葉を自らに禁じているかのように。
蒼偉はしばらく沈黙した後、重々しく口を開いた。
「――もう、これ以上は不要か」
広間の空気が張り詰める。
「陸景、貴様は昨日からずっと死罪を望んでいたな。なぜとは問わん。だが一つだけ心に刻んでおけ」
そう言うと蒼偉は玉座から腰を上げた。
「我が臣下だけでなく、国民にまで被害をもたらそうとした貴様は断じて許せん。貴様の望み通り――」
「――お待ちください!」
その声と共に、広間の扉が勢いよく開いた。息を切らし、見すぼらしい恰好のまま駆け込んできたのは、深玲だった。
「なっ――深玲!?」
蒼偉が驚愕に目を見開く。周囲の重鎮たちも、突然の乱入者にどよめいた。
「な、なんだ、あの女は」
「下女風情が、なぜここに……?」
王貴妃が扇の陰で眉を寄せる。だが、深玲はそれらの視線に構わず、まっすぐに前へと進み出た。
「申し訳ございません、陛下。ですが、どうしても今この場で申し上げたいことが」
「バカ者が! まだ傷も癒えておらぬ身体でなぜここへ来た!」
蒼偉は玉座を蹴るようにして立ち上がった。広間に集まった重鎮たちの視線も忘れたように、大股で階段を駆け下りそうになる。
「へ、陛下……私なら大丈夫です、それより——」
「大丈夫なわけがあるか! 顔色もまだ白いではないか——」
そこまで言って蒼偉はハッと己の取り乱し様に気付き、気まずそうにコホンと咳払いをして踏み出した足を引いた。
「陛下。この方は無実ではありません。ですがあなたが今、下そうとしている沙汰は――間違っています」
場が、しん、と静まり返った。
「……申してみよ」
蒼偉が低く促す。深玲は一つ深呼吸をすると、ゆっくりと口を開いた。
「まず、皆様にお伝えしたいことがあります。陸景が使った『妖術』は――存在しません」
広間がどよめいた。
「なんだと!? 実際に四件もの火災が、この者の予告通りに起きているのだぞ!」
墨淵が声を荒げる。深玲は静かに頷いた。
「ええ。ですが、それは妖術ではなく……あらかじめ仕込まれた仕掛けです」
深玲は懐から、爆発の現場で偶然握りしめていた紐の残骸を取り出し、掲げて見せた。
「これは香に火を灯し、ゆっくりと燃え進ませることで、決まった時刻に離れた場所の火薬へと火を渡す――いわば、時限式の発火装置です。この紐には、チューリップの油が染み込ませてありました」
「では――」
「はい。陸景は、術者がその場にいなくとも、事前に仕掛けさえしておけば、望んだ時刻に、望んだ場所を燃やすことができたのです。妖術など、最初からなかった」
それまで眉をひそめながら聞いていた墨淵がかぶりを振って声を上げる。
「適当なことを言うな!……とんだ戯言ですよ陛下。そんな計算通りに発火できるカラクリなんて、軍事局最高責任者である郭鎮ですら開発できてないではありませんか。夢物語も甚だしい!」
「ええ、これまでこの国のいろいろな噂を聞いてきましたが、現時点でここまで正確な時限装置を作れるのは、陸景だけでしょう。兵器ではなく、彼の植物の知識があってこその仕掛けなんです」
陸景の顔が、わずかに強張った。
場がどよめく中、深玲は懐から黒いチューリップの花弁を取り出した。嵐翠の執務室に置いてあったやつだ。
「彼は妖術を使う際、この花弁を目の前で燃やして見せた。火打石を使わずにです……このように」
深玲が花弁を持った指に、素早く中指をこすると、瞬間、火花が散り、花弁が炎に包まれた。
「おお! 陸景がやっていたのと同じだ!」
蒼偉が思わず立ち上がった。周りも信じられないという表情で深玲を見ている。
「これも、植物から取れる油脂とリンを使ったカラクリです。彼の知識があればこの程度はやってのけるということです」
ここまで言って、深玲は深く深呼吸をした。こんな種明かしを伝えに来たんじゃない。ここに来た意味は、ここから先の言葉にある。
「問題は、ここからです」
深玲は陸景を見据えた。
「彼には、想いを交わした方がいらっしゃいました。春蘭という下女です。後宮に来る前から結婚の約束をした仲だと聞いてます」
広間が、わずかにざわめいた。
「ですが、彼女は後宮内で郭鎮に見初められ、大切な形見を奪われた挙句に夜の相手を迫られます。――そしてひと月ほど前、事件は起こります」
「……やめろ!」
陸景が低い声で唸るように言った。
「ふん、それで彼女を守るために陸景が郭鎮を殺したと言うのか。浅はかなことだ」
墨淵がいやらしい笑みを浮かべながら、勝ち誇ったように言った。
「それでは放火を繰り返す必要がないではないか。恋敵を殺して終了だ、馬鹿馬鹿しい」
「もちろん、話はそう単純ではありません」
深玲は視線を陸景に向けた。
「なぜあなたは、必要以上に放火の数を重ねたのか。郭鎮は軍事局になくてはならない存在だったでしょう。彼を殺しただけで、極刑は免れないはず。自責の念から死罪を望むだけならそれで十分です」
「……」
「でもあなたは、放火事件を繰り返した。しかもわざと捕まるように――国家転覆を企てるテロリストという役を自ら作り出してまで……」
「――黙れ!」
陸景の絶叫が、広間に響いた。
「余計なことを言うな! 俺はただ、罪を犯した! それだけでいい! なぜお前が、勝手なことを――」
「深玲の言う通りです」
冷ややかな声が割って入った。嵐翠だった。
「単に罪を重くしたい、というだけであれば、無差別に火を放てば良かったはずです。ですが、あなたの放火には――規則性があった」
嵐翠は一枚の地図を広げた。後宮と周辺の地理が描かれたそれに、彼は筆でするすると線を引いていく。
翠耀宮、穀物庫、武器保管庫、郭鎮の屋敷、そして事件の始まりでもある郭鎮の遺体が見つかった廃屋――五つの点を、順に繋いでいく。
最後の一線が引かれた時、広間にどよめきが走った。浮かび上がったのは、五つの頂点を持つ星形の図形。
「これは……」
「五芒星、です」
嵐翠が静かに告げた。
「一部の文献にのみ伝わる禁術――『五行消滅の術』。五つの頂点を燃やし尽くすことで、その内側の中心にある存在を、この世の理から完全に消し去るという、忌まわしい伝承です」
「そんな、馬鹿な……本当に、そんな禁術が存在するのか?」
墨淵が呟く。嵐翠は首を振った。
「いいえ。実際にそのような術が存在するわけではありません。ですが彼は、この禁忌の形をなぞることで――何かをこの世から消し去ろうとしていた。こんな不確かな術に頼るほど、彼の願いは強かったのでしょう」
陸景は、答えなかった。ただ、固く目を閉じている。
深玲は、懐から一輪の黒いチューリップを取り出した。萎れかけたその花弁を、皆の前に掲げる。
「私は、彼が使っていたこの花にも、意味があると思っています」
「花に、意味……?」
「私のいた国では、花にはそれぞれ、言葉が込められています。『花言葉』、と言います」
深玲は、陸景を見つめた。
「黒いチューリップの花言葉は――『私を忘れて』」
広間が、静まり返った。
——かつて、西の宮女舎の小さな庭で。薬草の泥に手を汚した陸景が、一輪の珍しい黒いチューリップを春蘭の髪に挿してやりながら、照れくさそうに笑っていた。
『珍しい花だろ? いつか俺たちの家を持ったら、庭いっぱいに咲かせてあげるからね』
『ええ、約束ですよ、陸景様』
慎ましくも、確かにそこにあった二人の色鮮やかな未来。しかしそれが今や『絶望の黒』に染まってしまった。
陸景の頬に一筋、涙が伝った。
「なぜ彼はこれほどまでに人の記憶から消えたがったのか――」
深玲の声に、広間の空気が引き締まる。一番驚愕の表情を浮かべていたのは、蒼偉だった。
「ま、まさか……」
蒼偉が陸景に目をやった。
「そう、郭鎮を殺したのは陸景ではなく、春蘭だったのです。彼は彼女の罪を全て被ったうえで、この世界から存在ごと消えてしまいたかった」
広場がざわめいた。陸景は拳を握りしめながら俯いている。
「事件のあった日、春蘭に呼び出された彼は、燃え盛る廃屋の中で郭鎮の遺体を発見します。無理やり襲われそうになった際に起きた、痛ましい事故だったのでしょう。彼は現場を見て、全てを悟ったはずです。愛する人が、人を殺めてしまった。その罪を、誰よりも先に、自分が被る決意をした」
陸景の肩が、大きく震えた。
「しかし、彼が出頭したとしても、情報が集まれば遠くない未来、春蘭が犯人だとバレてしまう可能性がある。そう考えた彼は、尋常ならざる方法で人を殺せると周りにアピールしたのです。妖術を使って離れた場所から郭鎮を殺したのだと。そう、全ては愛する人を守るために」
深玲の声が、わずかに震えた。
「だから、陸景は――殺人の罪と共に自分という存在の痕跡を、大切な人の記憶から完全に消し去ろうとした。自分の存在とともに事件のことも忘れ、春蘭が新たな人生を始められるように。それが、最後の……彼の願いだったんだと思います」
誰も、言葉を発しなかった。
やがて、陸景の肩が、小さく震え始めた。跪いたまま、拳を握りしめ、俯いた顔から、ぽたりと雫が落ちる。
「――なぜ」
絞り出すような声だった。
「なぜ、そこまで……わかるんだ」
深玲は懐からタロットカードを一枚取り出すと、陸景へ向けて掲げて見せた。
「このカードは未来を教えてくれるわけではありません。人が隠そうとした真実を、映してくれるんです」
涙を隠そうともせず、陸景はそのカードを見た。周囲の人の視線も深玲に注がれる。
「カードは嘘をつきません。嘘をつくのは……人だけです」
陸景は何も応えなかった。ただ肩を震わせ、漏れる嗚咽を必死に隠そうとしていた。
長い沈黙の後、蒼偉が、ゆっくりと立ち上がった。
広間の空気が、再び張り詰める。
「――軍の高官ともあろう者が、宮女に狼藉を働こうとした。これは、あってはならぬ不祥事だ」
蒼偉の声は、静かだが、重かった。
「これ以上、朝廷の恥を内外に晒すわけにはいかん。ゆえに――郭鎮の焼死から始まった一連の放火事件は、正式に『不審火による事故』ということにする」
陸景が、はっと顔を上げた。
「貴様の恋人の春蘭も事故の被害者として記録する。しかし陸景、貴様は皇帝に対して不遜な口をきいた。それだけで万死に値する。決して許すことはできない」
そこまで言って、蒼偉は一呼吸置いた。
「だが――」
蒼偉の視線が、陸景を捉える。
「貴様は、香と油だけでこれほどの大火を、誰一人殺すことなく操ってみせた……その知略、その手腕、死罪で散らすにはあまりに惜しい」
「陛下……?」
「死んだ郭鎮の代わりに、軍事局にて貴様のその頭脳を国のために役立てよ。生涯をかけて、この国に――そして、お前が焼いた場所すべてに、復興の税を納め続けろ」
蒼偉の声が、わずかに和らいだ。
「……恋人への想いは、死んで果たすものではない。生きて果たせ」
陸景の目から、堰を切ったように涙が溢れた。
「陛下……っ、ありがとう……ございます……!」
その声は、広間の静寂に、いつまでも震えながら響いていた。
***
――数日後。
「深玲殿。嵐翠様がお呼びです」
そう言伝を受け、指定された帝都街区の外れまで足を運んだ深玲は、そこに立つ人物を見て、思わず息を呑んだ。
「へ、陛下……!?」
嵐翠の姿はどこにもない。代わりに夕風に外套の裾をなびかせて立っていたのは蒼偉その人だった。背後には古びた木の門扉がひっそりと佇んでいる。
深玲は弾かれたように、その場に膝をついた。
「へ、陛下、ご機嫌麗しゅう……!」
「顔を上げろ」
「嫌です」
「――は?」
「ここで顔を上げたら、また何か面倒なことになる気がするので」
「お前な……皇帝の命に逆らう気か」
「そんな台詞、下女ごときに言う言葉じゃないと思いますけど」
深玲は俯いたまま、ぼそりと呟いた。
「後宮には、陛下の寵愛を待つ方が二千人もいらっしゃるじゃないですか。私なんかにわざわざ執着なさらなくても」
「――あんな、兄から受け継いだだけの場所に、俺は何の価値も感じていない」
蒼偉は、あっさりとそう言い放った。それを聞いて深玲は、思わず顔を上げてしまった。
「今の言葉、四夫人の皆様が聞いたら、悲しまれますよ」
「う……今のは、聞かなかったことにしてくれ」
狼狽える様子に、深玲は、ぷっと吹き出した。
「やっと、顔を見せてくれたな」
蒼偉はどこか満足げに笑うと、背後の門扉へ視線を向けた。
「今日、お前をここへ呼んだのは他でもない。――見せたいものがある」
「見せたいもの?」
蒼偉は答える代わりに、古びた門扉に手をかけた。軋んだ音を立てて、それがゆっくりと開いていく。
「さあ、入れ」
促されるまま、深玲は門をくぐった。
――そして、言葉を失った。
目の前に広がっていたのは、視界を埋め尽くすほどの黒。
夕陽を浴びて艶やかな幾千もの黒いチューリップが、見渡す限り地平の果てまで続いている。風が吹くたびに仄暗く輝く花弁が波のようにうねり、さらさらと乾いた音を立てた。
「これ……」
声が、震えた。
「陸景の家と隣接した薬草畑だ」
蒼偉が、静かに隣に並んだ。
「そして、彼が焼いた五芒星の中心地でもある」
「あ……」
陸景がこの世から存在を消し去りたかった場所――。
「畑全体に、螺旋状に発火装置が仕掛けられていたそうだ。あと一日、発見が遅れていれば、この景色ごと、全てが火の海になっていた」
深玲は、言葉もなくその光景を見つめた。
闇に沈むような漆黒の花畑。だがその奥、まだ日の光が届く西の端だけは、夕焼けに染まって燃えるような橙色に輝いている。
「敷地の外には、決して火が及ばないよう、細心の注意が払われていたそうだ」
蒼偉の声が、わずかに低くなる。
「本当に、あの男は……春蘭≪シュンラン≫が犯した罪とともに、自分という存在の全てを、消し去りたかったんだろうな。愛する人のために」
風が、二人の間を吹き抜けた。
「私は――」
深玲は、そっと口を開いた。
「陸景に初めて会った時から、悪い人ではないと分かっていましたよ」
「ほう、それも、その札で読み解いたのか」
「はい」
「……お前は、本当に不思議な奴だな」
蒼偉は、深玲の横顔をまじまじと見つめた。
「お前のいた国は、みんなそうなのか?」
「まさか」
深玲は、思わず苦笑した。
「私みたいな人間が大勢いたら、たぶん、国が滅びます」
「そんなものか」
「そんなものです」
蒼偉は、小さく笑った後、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば――『花言葉』、だったか」
「はい」
「花に意味を見出すとは。その感性はなかなか面白い」
「この国には、花言葉の概念はないんですか?」
「ああ、聞いたこともない」
深玲は、そっと視線を落とした。
黒いチューリップの花言葉は『私を忘れて』。偶然にしては今回の陸景の想いにピタリと当てはまっている。
「今度、他の花についても、教えてくれるか」
「え?」
「花言葉というものを、もっと知りたい」
「ご命令とあらば」
「命令は……したくないな」
「……いいですよ」
「本当か!?」
蒼偉の声が、明らかに弾んだ。
(こんなことで、こんなに喜ぶなんて)
深玲は、思わず横顔を見つめた。この国の頂点に立つ男が、まるで子供のように目を輝かせている。なんて、純粋な人なんだろう。
その時、唐突に深玲の頭に途方もない考えが浮かんだ。
(もしかしたら――今回の一件、この国に花言葉という概念が、生まれた瞬間なのかもしれない)
――黒いチューリップの花言葉は『私を忘れて』。
それは、これから先、この世界で語り継がれていく初めての花言葉となり、いずれ深玲がいた現代へ伝わっていく。
(この世界って、もしかして……私のいた現代と、どこかで繋がっているのかな)
そんな埒のない考えに思いを馳せていると、蒼偉が小さな声でつぶやいた。
「陸景は、死ぬことで恋人を守ろうとした」
蒼偉は遠くの黒い焼け跡を見つめながら、静かに続けた。
「立派な覚悟だとは、思う……だが、俺なら」
その視線が、深玲へと戻る。
「消えたりはしない。最後まで、共に生きる道を探す」
言いながら、蒼偉は躊躇いがちに大きな手を伸ばすと、深玲の小指をそっと己の指で絡めとった。力強いのに、壊れものを扱うかのような、優しく震える体温。
「お前を、どこにも行かせはしない……俺の側で、ずっとその知恵を貸せ」
深玲は胸の内が熱くなった。指先から伝わる彼の熱に、心臓が跳ねる。
(――私は)
胸の奥で、そっと呟く。
(私は……元の世界に帰りたいと願っている。もし帰れる方法が見つかったら――この人はどんな顔をするんだろう……)
深玲が黙って自分の指先を見つめているのに気付くと、蒼偉は急に顔を真っ赤にして、弾かれたように手を離した。
「は、腹が減ったな」
「――は?」
「嵐翠に食事の用意をさせている。そろそろ皇宮へ戻ろう」
そう言って緊張した面持ちで深玲の前を横切る蒼偉。さっきまでの男らしい顔はどこへやら、耳まで真っ赤に染まっている。
「昨日食べた『まどれえぬ』とやら、美味かったぞ。もっとないのか?」
「……陛下、さっきまでの真剣な空気、どこ行ったんですか」
「い、いや――腹が減ってはなんとやらと言ってな、まずは飯でも食べて茶でも飲もうではないか」
蒼偉は次第に早足になりながら、前を歩いていく。その光景に深玲は思わず息を吹き出した。
「陛下、『アイスクリーム』という食べ物はご存じですか?」
「むむ? あいす……? なんだそれは」
橙色に染まる後宮の空の下、慌てて追いかける深玲の足取りは、思いのほか軽かった。
「氷で冷やして食べるお菓子ですよ。今度、厨房まで来てください。作ってあげますよ」
「ほ、本当か!? 約束だぞ!」
愛に焦がれ、この世から消えようとした男の静かな結末を見届けたばかりの空の下で――深玲はそれでも、目の前を歩くこの人の背中を、もう少しだけ見ていたいと思った。
了
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今回のお話は全体のプロットの中盤の事件を短編用に書き下ろしたものとなります。
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