犬前さん2
犬前さんが犬になった時、役場の人が聞いた。
「戸籍、どうします?」と。
人間だった時の戸籍をそのまま使うか、新しい戸籍にするか、の二択が用意されていた。
人間から犬になったとはいえ、犬前さんは元人間の日本人である。
仕事を続けるにも戸籍は必要だった。
職場のほうとの情報共有にも必要らしく、どちらかを選んでもらわないといけないと言われたので、新しい戸籍を選んだ。
そして犬前さんは犬前さんになった。
折角人間を辞められて犬になったのだから、犬と名乗ってみようと思ったのだ。戸籍のある犬、良いじゃないか。
それをまるっと無視する人もいる。御子柴さんだ。
御子柴さんは犬前さんが人間の頃から知り合いだった。友人ではない、知り合いだ。
犬前さんの母が認知症になり、犬前さんが勤務先を退職して実家に住むようになった頃から毎月一度は訪ねてくる。
最初は鬱陶しいな、と思わなくもなかったけれど、「よお、おばさんは元気か?」と訪ねてくるのは御子柴さんくらいで、意味不明の言葉を吐きながら虚ろな視線のままパジャマ姿で近所を徘徊する犬山さんの母を気遣ってくれる人は彼くらいだった。
家が近所なので顔は知っているし名前も知っている。小中と一緒だったが、一度もクラスは一緒になったことはない。
御子柴さんは「おい、哲也」と犬前さんが人間だったころの名を呼ぶ。
「犬前」という名刺を渡しても「哲也」と呼ぶ。
「お前、また随分と毛深くなったな」と言われたくないことも言う。
人間だったころの犬前さんは、一部の毛に恵まれていなかったのだ。
そんな御子柴さんだが、近所でも有名なお金持ちだ。
親の代からお金持ちで、その子供である御子柴さんもお金持ちになった。
なんかよくわからないけれど、親の仕事とは別口で成功したらしい。
いまでこそ高そうなスーツを着て革靴を履き、気取った感じの御子柴さんだが、子供の頃は薄汚れた格好で一万円札を握り近所をうろつく不気味な子どもだった。
あの頃の御子柴さんには誰も近づかなかった。
犬前さんが御子柴さんの過去を知っているのは、時々犬前さんの家で御子柴さんが食事をしていたからだ。
正直、犬前さんは御子柴さんを見て「誰?」と思っていた。
名前と顔を知っているだけの知らない人なのだ。
知らない子供の汚れた服を着替えさせて温かい食事を出す。
犬前さんの母がそれをやっていた。
犬前さんの母が死んだときに、葬式に来た御子柴さんがぼそっと言った。
「金を受け取らずに世話をしてくれたのは、お前のところのおばさんだけだったんだよ」と。
勿論、ルールはあった。
犬前さんの父がいるときは出入り禁止、というものが。
船乗りだった犬前さんの父は、家の中に他人がいるのを嫌った。
一人の空間を愛していた。気を遣って母子で外出することもあるくらい、孤独な時間を愛していた。なので、御子柴さんもそれを守っていた。
香典に札束を持って来る非常識な御子柴さんは、その後もたまに犬前さんの家を訪れる。
「よお、哲也」と言いながら。
犬前とは絶対に呼んでくれない。
仏壇に手を合わせて御子柴さんが持参したお菓子を二人で食べる。
この時間だけなら元の名前で呼ばれても良いかな、と犬前さんは思う。




