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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

十一月、愛の封書

作者: 畔奈りき

拝啓

 ゆく秋の色香に惹かれる思いも、小春日の親しみに立ち替わる季節になりました。


 お兄さまにおかれましては、お変わりなくお過ごしのことと、お慶び申し上げます。


 ……お兄さま、だなんて子供っぽい呼び方、私ったらもう、やめなければならない年頃ですわ。ですが、お兄さまと私は同じ苗字ですし、他の殿方を下のお名前で呼んではいけない事情ができましたので、これからも、どうかお兄さまと呼ばせてくださいまし。


 しまった、先に、突然のお手紙になったことをお詫び申し上げるべきでした。もしかしたら、私が誰であるのかも、まだお分かりじゃないかもしれませんね。


 覚えておいででしょうか。私です。貴方が一高の入学生になって、我が家に挨拶に来た時には、まだ九つの子供であった私です。父に顔を見せた後、貴方はすぐ寄宿舎に入ってしまいましたから、あの頃の私のことは印象にないかもしれませんね。帝大に入った後は書生さんとして、我が家の玄関隣の一室を間借りして住むようになられましたから、十二歳以降の私のことなら、よく覚えてらっしゃるでしょう。


 貴方は私の父方のはとこ兄妹で、父の実家がある田舎から上京してきましたね。大変に出来のいい青年が親戚にいるのだと、その子が一高に行くというので出資してやるのだと父が言って、女中が忙しそうにしていたのを覚えています。


 父が、貴方の身の周りを色々と仕立てておりましたのは、将来、政治家にでもなったら都合のよいコネになるだろうという、打算があってのことだったようですわ。当時の父は一代で事業を築いて上京し、やっとのことで、家族皆東京に住めるお家を建てたところでしたから、これからその家を支えていくのに、躍起になっていた時期だったのですわ。いなくなったお兄さまに、今の父がどんなことを思われているかと憂いてらっしゃるかもしれませんが、元々、父が勝手に期待しておいて、勝手に裏切られたと思っているだけのことですから、お気になさらないでくださいましね。私たちは、皆、元気でやっておりますから――



 ――()(かわ)秋芳(あきよし)は長3封筒から便箋を取り出した時の、直立したままの格好で、便箋の中身を読み耽っていた。封筒と便箋はどちらも白色で、特に便箋の方には花柄の透かしの模様が入り、上品で丁寧な相手からのものだと知れた。


「秋芳や、今日の郵便はまだ来ないのかい」


 木造貸家の二階が住居、一階では古書店を経営している。店の奥から暖簾を上げて登場した男は、顔をくしゃくしゃにして欠伸を噛み殺すと、ずれた丸眼鏡を整えて秋芳の手元を見た。そして、店のカウンターに広げられた郵便物の山を見つけると、垂れ目を飾る片眉を、くいと上げた。


「なんだ、来てるじゃないか。なぜこっちに持ってこない。その手紙は何よ?」

(なな)……」


 さらに、七と呼ばれた男、もとい(なな)()は、秋芳が大事そうに掌で支える便箋の、可愛らしさに気付いたときには、機嫌の悪さをあからさまにした。


「女か」

「七、ちょっと静かにしていてくれ。とても大事な手紙なんだ。大事な、妹からの手紙だ」――



 ――さて、この場を借りて、お兄さまに打ち明けたいことがございます。そもそも、なぜ私がお兄さまをお兄さまと呼ぶようになったのか、貴方はきっと知らないでしょう。書生さんを本当の兄妹のように呼ぶものではないんですのよ、と、女中にはよく窘められておりましたが、それでも呼び方を直さなかったのは、子供の私がお兄さまに気にしてもらうには、こうするしかないと思っていたからなのでございます。


 そう、まだ子供であった時分から、長い間、私はお兄さまに片恋していたのです。


 女児の発育を舐めてはいけません。このような色恋沙汰ばかりは、男の子よりもずっと進んでいるのが、女の子の心というものでございます。昨今、女学校で流行っている言い方をすれば、私、本気でラブだったのでございます。


 しかし、お兄さま、貴方は、決してふり向いてはくれませんでしたね。とはいえ、お兄さまは、私を本当の妹のように扱ってくれました。今思えば、それだけで、十分嬉しかったのですわ。


 お兄さまは普段、寄宿舎にいながら、長期休みに入れば、我が家に滞在されることもございましたね。私は毎年、お兄さまがいらっしゃるのは今か今かと心待ちにして、一緒に過ごす計画を練っていたものでした。お兄さまが二年生を控える夏休み、私は密やかな思いを胸に、貴方の部屋をそっと覗いたことがありました。夕暮れ時、お出かけから帰ってきたお兄さまは、窓に向いた書き物机の前に座って、ぼうと外を眺めてらっしゃいました。本当はお団子を分けてさしあげようと思っていたところだったのですが、西日に照らされる御髪があまりに綺麗で、つい、眺めただけで満足してしまっていたのでした。

 ところがお兄さま、しばらくして突然、窓を向いたまま立ち上がりましたね。それから間もなくして家の戸が叩かれ、お兄さまはすぐに部屋を出てこようとしました。私はその後の様子まで隠れて見ていたのですが、来客だと思って出てきた女中が、「誰か来ましたか?」と言うのに対し、「あー、いいえ、押し売りです。僕が追い返しましょう」と答えて、誰よりも先に玄関を出て行きましたね。


 お兄さまは、うまく誤魔化していたと思いますが、私だけは、本当のことを知っていたのですよ。もぬけの殻になった書生部屋の窓から、お兄さまが訪問客とするやり取りを見ていましたからね。相手の人は、眼鏡をかけた赤茶髪の男の人でしたでしょう? とても、格好のよい人で、貴方と親密そうでした――



――

「……何が書かれているんだよ」

「君が迂闊にも、僕の居候先に勝手に訪ねてきたときのこと」

「……いつの?」

「一高時代の夏休みだから、一番最初の時だね」

「ふうん、なんだ。私はこんなにも貴方様のことを知っていますという話かい? つまらねえや。他の郵便と新聞はもらっていくぜ。商売には情報が肝心なんだ」


 七緒は、カウンター上の封筒類を束ねて持つと、手紙の内容にも、秋芳が手紙を読むことにも興味がないというように手をふりふりしてみせながら、また暖簾の中へ戻っていく。しかし、その背中に何も言わない秋芳にやりきれなかったのか、暖簾を上げた腕を降ろすことなく、ぶすくれた言葉を付け足した。


「今更に好きだとほざく女なんざ、相手するだけ時間の無駄さ」

「……傍から覗いたか? あら、本読みが速いんだから、君は」

「読んでねえよ、その便箋の気合の入れようを見ればわかる。それに妹といやあ、あの桜色のリボンの女子(おなご)の子だろう。ありゃ、確かにお前に好意があったな」

「え? 会わせたことなんか、ないだろう?」

「たまにさ、お前が帰った直後に店へ来て、安い栞を買って帰るような真似をしていたんだ。大方、俺の顔を見たかっただけなんだろうよ。真っ黒い髪がお前にそっくりだから、親族だとすぐにわかったね」

「……いや、本当の妹ではないんだがな」


 ごん。


 手紙に目を戻そうとしたところ、七緒がそういう鈍い音を立てたので、秋芳は再び、そろりと目を上げた。七緒は、暖簾を張った片側の柱に、頭を擦りつけるような形で体を斜めに凭せ掛け、腕組みをしてこちらを睨んでいた。


「ホンの妹じゃないのに、まるで妹のように思っていた関係ってことかあ、そうりゃあ? おいおい、あぶねえじゃねえか。妹みたいでその気も起きんとぬかしていた奴らは、結局将来、恋仲になると相場が決まっているんだよ。あれから三、四年なら丁度年頃だ、書生で寄ってた家の娘となら、そういう話が来るのも……」

「七緒」


 秋芳が、そう彼の名前を呼んだ声は、諫めるものにしては優しく店内に響いた。秋芳の顔は、それまでの七緒を超えて寂しげにしかめられていた。しかし実は、どちらかというと、この顔はぶすくれている顔なのだ。秋芳は大人しい気質のせいか、その涼しげな線の細い顔のせいか、不満な感情も寂しげな表情として表れた。店の戸口から本棚を縫って差し込む白い朝日が、秋芳の背中を照らして七緒に届く。


 秋芳が言う。


「僕は、(しん)に大事なもの以外には、必死になれない男だ。僕は、真に君が大事。それとも、親戚の恩を仇で返して、縁もゆかりもない九州に、二人で住むために越してくること、君は、必死になった故とは思わない?」


 それから、秋芳は表情を一転緩めさせ、いたずらっぽく微笑んだ。


「ね、七。嫉妬したふりをして、言葉が欲しかったんだろう? 今は少し、我慢して」


 七緒はスルリと、柱の側面を転がるように暖簾の奥へ消えた。秋芳に顔を見せないまま、腕だけ伸ばして、カウンターの内側を指す。


「そんな立ったままでおらずとも、そこに座って読めばいいや」

「ありがとう」


 七緒の照れくさそうな顔を想像しながら、秋芳はカウンターの中に置かれた丸椅子に腰かけた。


「……とはいえ、本当に心配しなくても、そんな内容の手紙じゃなさそうだけどね」

――



 ――十二歳になった私に、お兄さまが一高生の時から流れていた例の噂の、その意味を教えてくれたのは、いつもの耳年増の女中でしたわ。恥ずかしながら、私が「男色」の意味を知るのは、十を二つも超えた時分で、既にお兄さまが大学にいた時期でしたから、噂の流行にかなり遅れていたのです。


 その時、女中の方は、さっぱり噂を信じないようになっていました。書生さんは小柄でもないし、女のようになよついたところもないお人なので、男に愛されるようなことはないですよと、女中は言いました。

 父は女中とは少し違って、学生なら男色を嗜むこともあるだろうと考えていたみたいですわ。だからといって、お兄さまも知っての通り、男色を許しているわけではなかったようですけれど……。


 私はと言えば、なんとなく、噂も、女中も、お父さまも、全く見当違いをしているように思えていました。例えば、誰を好きになることは学校内ばかりの話ではないし、誰を好きになる理由は小柄であるところにはないでしょう。それに、私は同性愛という概念を知ってなんとなく、納得するところがあったのです。そして、私がお兄さまに向ける想いは、もしかしたら横恋慕になるのではないかと、薄々気付き始めていたのです。


 申し訳ございませんわ。噂の話を蒸し返すのは、お兄さまをご不快にさせたかもしれません。それでも、なぜこの話をしたかというと、お兄さまがいなくなってからの我が家の様子を、少しお伝えしたいからなのです。


 一年前にお兄さまがいなくなってから、父は、お兄さまが恋に現を抜かして駆け落ちしたのだと……、いいえ、正直に言いましょう。色に現を抜かして出奔したのだと言って、あの人は、しばらく部屋にこもるなどしていました。怒り方が子供っぽいでしょう。


 「男色など、所詮は長続きしないものだ。男色など、同性のみの閉鎖空間で起きる気の迷いに過ぎず、外に出れば異性が良いと思うに違いないのだ」とは父が、お兄さまのお相手を同じ学校の学生と思い込んでいたための言い様ですわ。


 それからというもの、「一時の迷いに流されるでないぞ」というのが父の口癖になって、その同性社会の嫌いようといったら、私が毎朝女学校に行くことすらも心配されるほどでした。それはもう、私の縁談を取り付けるのを、急がれるほどに……。


 また十二の頃に知ったことですが、学校、軍など、同性社会には同性愛が付き物なのですね。実際、もう四年女学校に通いましたが、これは確かにと思わされますわ。実は、私は女学生になってもやっぱり、お兄さまを好きなままでしたので(むしろ我が家に住むようになったお兄さまに想いを募らせるばかりでしたので)、学校のお姉様方に重ねて惚れるようなことはなかったのです。しかし、周りの様子を見ていると、こと学校という場所においては、同性愛は珍しいことじゃないように思いましたわ。


 そこで、お兄さまに立った噂が事実とは少しずれて、学生同士の同性愛だと言われるようになった事情にも、理解が及ぶようになりました。噂とは、一般に人の理解が及ぶ状況でこそ広まりやすいのでしょう。ですから、実際は学校外で起こった事実の恋も、学校内の嘘の出来事とすり替えられて伝わったのでしょうと。


 ええ、私さっき、同性愛を聞いて納得したと言ったでしょう? なぜなら、お兄さまに恋する幼い私は、男色の意味を知る以前から、お兄さまには愛を向けるお相手がいると感じ取っていたからなのでございます。そのお相手とは、きっと私が見たことある人だとわかっていたのでございます。私は、我が家で唯一、お兄さまにまつわる事実を知った気になっていたというわけなのです。事実をどうにか確かめたくて、お兄さまの身辺を調べたこともございます。その際、何か手がかりはないかとお兄さまのお部屋を探ったために起こったのが、やはり私が十二の折、あの哲学事件だったのです。……あのこと、ちゃんと謝りましたかしら。遅くなりましたが、お詫びいたしますわ。


 それにしても、お兄さまは嘘が大変上手でいらっしゃいましたね。よもやこれまでと思った法学の試験にも、しっかりと受かってこられましたのは、お兄さまのただならぬ優秀さを表しておいでですわ。思えば、嘘の噂というのも、事実を秘密にしておくのには役立っていたのかもしれませんわね――



――

「あの時はありがとう」


 秋芳は、その手紙の文章から顔を上げられないまま、ぼそりと言った。


「あ? なんか言ったかい?」


 暖簾の奥から反応が返ってきて、「お礼を言ったんだ」と返した。何に? いや……。


 秋芳二十歳大学生、彼女は十二歳女学生、互いに新しい学校生活に慣れた頃。哲学事件が起こったのは、時にして四年前であるため、改めて礼を言うのもきまりが悪い。もちろん、事件について詫びを入れられる必要もないと思っている。


 事件と呼ぶのは大仰なほど、今にして思うと笑い話だが、その危機を打開するための苦労は本物だった。秋芳は大学時代、丹川の家の主人には、法学を学んでいると嘘をついていた。実際には、以前から熱心だった哲学を学んでいたのだ。ある日帰宅すると丹川の主人に呼び出され、座敷に行けば秋芳の法学の教本が彼の手に渡っていた。主人を誤魔化すために所有してはいたものの、ほとんど手を付けずにいた本だ。詳しい経緯は不明だが、要は、ほとんど真っ新であることがばれたのだ。


 お前、ちゃんと勉強をしているのか――、丹川の主人が訊くのに、自分は、はい、と答えた。それなら、次の試験の結果を私に見せなさい。次の試験って、法学のですか。当たり前だろう。


 もちろん、秋芳は法学教室に入っていなかった。しかし、哲学教室の教授の言伝で、なんとか試験に参加するまでは許されたのだ。問題は、試験で良い結果を出せるかどうか。その手伝いをしてくれたのが、その頃既に付き合いがあり、法学の心得があった七緒だった。


 秋芳は、特別優秀でもなんでもない。ただ、狂おしいほどに哲学が好きだった。嘘を吐くほど哲学がしたかったし、哲学以外にやりたいと思えることがなかった。しかし、これより先、哲学を続けていくために、必死に法学を頭に叩き込んだというだけである。


「懐かしいもんだ。……次の便箋で終わるのか」


 読み終わってカウンターの天板に置いていた他の便箋を、七緒が秋芳の背後から、そっと取り上げた。宛て人は何も言わなかったので、そのまま、静かな眼差しで読み進める――



 ――男性の同性愛が男色なら、女性の同性愛は女色かしらと思いましたが、どうやら違うようですね。女色とは、男性が女性を愛することを言うそうです。思うに、マア、それなら女性が男性を愛すると、男色と言わなければならなくなってしまいますわ。言葉とは時に、ひどいことをいたしますわね。人を愛するのは、何も男性だけではございません。


 学校の友達の中には、同性愛は異性愛よりも美しいのよと言う人もおります。しかし、私には、お兄さまのお相手が、お兄さまを愛する気持ちと、私がお兄さまを愛する気持ちとを比べて、どちらが美しいとか汚いとか、差があるようには思えません。だって、お兄さま、夕焼けの中で見たあの赤茶髪の男性は、本来なら、私がお兄さまに差し上げたかった眼差しを、お兄さまに向けておいででしたもの……。


 ところで、お兄さま。仮に、我が家の中で私だけがお兄さまのお相手を知っていたとして、そして、そのお相手があの赤茶髪の人であるとして、もし、今のお兄さまが、その方と共にいなかったとしたら、私の手紙は、非常に不躾なものとなりましたね。時に、浪漫チズムを語る方は、同性愛は異性愛よりも長続きするなど、うちの父と正反対のことを言うのを聞きますが、同性間であれ異性間であれ、関係が続く時間というのは、そんなに変わらないでしょうから。


 しかし、私の手紙が貴方にとって悪いものになる未来は、限りなく無いに等しかったのです。なぜって、お兄さま。私は、今のお兄さまが、あの赤茶毛の方と仲睦まじく暮らしてらっしゃるのを、確認しに参っているのですから。


 女学校のお友達の中に、美男に詳しい方がいらっしゃいます。その子が言うには、九州の大学で哲学を教えている先生が、濡烏の髪を持つ美男子であるそうな。この話を聞いて、すぐにピンと来ましたわ。だって濡烏だなんて貴婦人のような形容詞を使われる男性は、お兄さま以外にいるはずがありません。それに、哲学といえばもう。


 私、中途半端だけど瞬発力のある行動力には、学校においても定評がございます。噂を聞いてすぐ、私は福岡に飛んで参りました。


 自分の足で探し回って、見覚えのある風貌の古書店を見つけましたわ。その店先では、いつかと変わらぬ美しいお兄さまと、あの赤茶髪の店主が笑い合っているではありませんか。懐かしく、自然と涙が出てきたものですわ。


 けれどここで、私の行動力の中途半端さが出ましたわ。いいえ、ここで野暮な行動をするまでに至らず、幸いかもしれませんが……。


 私は、お兄さまに伝えたいお話を、こうやってお手紙にしてお店の郵便受けに入れました。そうですわ、私、夜のうちに手ずから投函したのですわよ。その証拠に、封筒には切手が貼られていないでしょう。


 書きたいことを書きたい順に書いてしまったので、とても長いお手紙になってしまいました。しかし、私の用意した本題は、まだ残っているのです。


 聡いお兄さまなら、もう既にお分かりになっていらっしゃるでしょうか。そうですわ。私、この度結婚が決まったのでございます。私は、それをお兄さまに伝えたく、一筆も二筆も申し上げたのですわ。


 お相手は軍にお勤めの殿方です。自分以外の男性を下の名前で呼ばないでほしいと、〝お触れ〟を出したのも、その方なのですよ。可愛らしく、美しく優しく、逞しく強いお方です。


 ふふ、どのようなお方か、想像はつきますでしょうか。もしわからないのであれば、直に見に来ていただいても、構わないのですよ。


 ……言い方を間違えてしまいました。私が、お兄さまに、旦那様を紹介したく思っているのです。


 来年の三月最後の日曜日に、お祝いの席が開かれますわ。そこにどうか、出席してはいただけませんでしょうか。


 同性愛者であるお兄さまを呼ぶのはいかがなものかと迷いました。ご不快なら、断っていただいてもちろん構いません。しかし、昔お兄さまに恋していた私が、そして、確かに本当の兄妹のようであった私が、夫に選んだ貴方以外の殿方を、何でしょう……、何か勲章のように、掲げてみたく思うのです。まるで自分勝手な話ですが、ですが、お兄さまに、私の幸せを見ていただきたく思うのです。全く、私のわがままです。妹のようで、妹でない私の、妹のごときお願いなのです。


 重ねて言いますが、ご不快なら、断っていただいて構いません。けれど、お兄さまの愛と、私の愛、そのどちらもが同じ形をしていることを、どうか肌で感じたく思うのです――



 ――秋芳は、大作となった愛の封書の、素直な言葉の最後を置いた。すかさず七緒がそれを手に取り、得意の速読で秋芳の思考に合わせていく。


「知っていたのかね。この子の想いを」

「知らなかったさ」

「そりゃ、酷い男だ。その気もないのに優しくしてたんだねえ」


 秋芳は鼻から息を噴き出すようにして、クスと静かに笑った。


「酷い男だって。ただの恋愛のような言い方をする」


 妹が妹でいる限り、自分を「お兄さま」と呼ぶ限り、失恋したあの子にとって、秋芳は酷い男にもなれやしない。なぜなら、普通の恋模様と違って、兄と妹の間には、兄と妹としての愛が恋の傍側に流れていて、恋がせき止められたとしても、愛の方は継続してしまうのだから。


「しかしね、うちの元気な妹は、逞しい女性に育ったものだよ。最近の時世に見合う子だ。びっくりするほど、僕なんてもう、ただのお兄さまだ」


 季節は巡る。懐かしさに暮れるセピア色の時期は過ぎて、温もりが約束された時期が来る。それを、彼女だって感じているようである。

 彼女が他の男を心に決めて、それを兄に見せたいと言うのなら、その雄姿を見届けることは、まさしく兄の役目であった。


「行くのかい、秋芳や」

「そうだねえ、丹川の主人についてはともかく、妹だけには必ず会いたいな」


 秋芳は羽織の袖に手を入れて、七緒を振り返った。うつむいて手紙を読んだせいで、七緒の眼鏡は少し下にずれており、そのレンズ向こうにある瞳と、直に目をあわせることができた。七緒の目は、いつだって少し胡散気だ。


「七も来るだろう」


 途端に、七緒は顔をしかめて、犬でも追い払うように手を振り、暖簾に消えようとする。


「またそういう突拍子もないことを。いいからお前、そろそろ準備しねえといけねんじゃねえのか。先生が遅れたとありゃ、生徒に示しがつかねえぜ」

「うん、帰ってきたら、ゆっくり考えよう」


 九州帝国大学に法文学部が出来てから、まだ間もない時代だった。東京の帝大を卒業してすぐにどこか遠くへ飛ぼうとしていた秋芳を、教師が足りていなかった九州の教授が、手伝いと講師を兼ねて呼んでくれたのだ。


「あ、待って、七緒。先に手紙を全部返してくれ。封筒に入れて大事にしまっておかないと」

「ああ……、考えに耽って、持ってることすら忘れてたぜ」


 店の奥に行くほどに、朝の光は届きにくかった。両隣と後ろの建屋の距離が近くて、家の表向き以外には、なかなか光が差し込まないのだ。

 肌寒い。そう感じる空気を、七緒との距離を縮めることで押し出してやった。


「なんでついてくる」

「寝ぼけてるのか? 支度するには二階に上がらないといけないだろう」


 仕舞った手紙を大事に持ち、ピョンピョンと飛び跳ねる七緒の赤茶髪を追いかけていると、秋芳の頬には、自然と笑顔が宿るのだった――



 ――時節柄、どうぞご自愛くださいませ。といっても、きっとお兄さまのことですから、寒さだって大切な人と温まる良い口実にされるはずですわ。書生部屋にお炬燵がないのを、お勉強をさぼって私と遊ぶ、良い口実にされましたようにね。


かしこ

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