3.紙の百科事典も悪くない
政人は窓の桟を人差し指でなで、付いたほこりをメイドに見せつけた。
「ちゃんと窓の桟も拭いておけ。それに部屋の四隅にもほこりがたまってるぞ。四角い部屋を丸く掃くとは、この城のメイドはどんな教育を受けているんだ」
政人と英樹がこの世界に召喚されてから二ヶ月、政人はメイドに難癖をつけられるほどレンガルド語に習熟していた。
もちろん、ここで生活するからには、彼女たちとも友好的な関係を結んだ方がいいと、頭ではわかっていた。
だが、この城の者たちは政人のことを厄介者扱いしている。それは言葉が通じなくてもわかることだ。
だから政人のほうもつい、言葉がきつくなることがあった。
メイドはいまいましげに舌打ちをした後、返事をする。
「……申し訳ございません。以後気を付けます」
政人は一日のほとんどの時間をレンガルド語の勉強にあてていた。
英樹から直接教えてもらう時間は二時間程度だが――英樹はもっと時間を割こうとしてくれたが、彼の負担を考えて断った――それ以外の時間も、書庫にある本などで自習し、覚えた言葉は城の人間に対してどんどん使ってみた。
城の人間は面倒くさそうだったが、政人に協力するように指令が出ていたため、渋々相手をしてくれた。
政人は勉強が得意だと言うだけはあって、周囲が驚く早さで言葉を覚えていき、会話だけでなく読み書きもできるようになっていた。
メイドを帰した後、政人は書庫から借りてきた本をテーブルに置き、読書を始めた。人を殴り殺せそうなほど大きくて重い本なので、手に持って読むことはできそうにない。
読書を始めて三時間ほどたったころ、ノックの音がした。
「政人、入るよ」
「ああ」
今日の訓練を終えたらしい英樹が入ってきた。
「君はいつ来ても本を読んでるな」
「読書は俺の唯一の楽しみなんだ。それより今日の訓練はどうだった?」
「今日は風属性魔法の訓練をしていた。『風鎌刃』という魔法で、キラーバットという魔物を三十五体倒してきたよ」
風鎌刃は、鎌を持った風の妖精を呼び出して、敵を攻撃する魔法らしい。
「そりゃまた随分倒したもんだな。そのうちいなくなるんじゃないか?」
「それが迷宮内ではいつの間にかまた増えてるんだよ」
英樹は魔法が使えるようになっている。
このファンタジーのような世界でも魔法使いは少なく、レンガルド全体で五人にも満たないらしい。
その内の一人が、ここ神聖国メイブランドの女王レナで、英樹はレナから直接魔法を教えてもらっている。剣についてはこの城の騎士たちから教わっているようだ。
話に出てきた『迷宮』というのは、王都デセントから二キロほど離れた場所にあり、ぽっかりと開いた二メートル四方の入り口から、地下へと階段が続いている。
中は迷路のような構造で、深くまで階層が続いており、どこまで続いているのかはわからない。
「まさか僕が魔物と戦うことになるなんてね」
「それどころか、いずれ魔王とも戦うんだろ。まるでゲームのような話だな」
魔物とは魔王の眷属であり、迷宮内にのみ現れ、人間を見かけると襲い掛かってくる。
迷宮は、神聖国メイブランド以外にも何か所か存在するが、ここがもっとも規模が大きく、出現する魔物も強いらしい。近い将来、最深層で魔王が誕生するというのも、この迷宮である。
キラーバットは第一階層に現れるコウモリの姿の魔物で、この迷宮では最も弱い魔物だ。
ただし他の迷宮ではキラーバットはもっと深い階層で出現し、それなりに強い魔物と認識されている。この迷宮の魔物の強さがうかがえる。
「それにしても――」
英樹は政人が読んでいる本を見て、呆れたように言った。「百科事典を通読する人間がいるとは思わなかったよ」
「全部読んでるわけじゃない。役に立ちそうなところだけだ」
政人が読んでいるのは『レンガルド大百科事典』というもので、「歴史」「医療」「美術」など、あらゆる分野の知識をまとめた書物だ。全二十巻にわたる大部になっている。
文字だけでなく絵も豊富で、これを読めば異世界レンガルドの知識がかなり身に付く。
ちなみに活版印刷の技術はすでに存在する。
「今読んでいるのは『宗教』の巻で、なかなか面白いことが書かれているぞ」
レンガルド全土で信仰されている宗教は、教祖である預言者メイブランドの名をとって『メイブランド教』と呼ばれている。
メイブランドの血を引く者が代々、神聖国メイブランドの王として君臨しており、他の国の王と区別するため「聖王」と呼ばれる。
現在の女王メイブランド・レナは百二十二代目の聖王であり、特別に『神聖女王』と呼ばれているようだ。
メイブランド教の教義によると、世界は光の女神を頂点として、それに従う火の神、水の神、風の神、土の神の五柱の神々によって管理されているらしい。
「この世界についての知識は身につけておくべきだからな」
戦えない政人にできることはそれぐらいだ。
「それより、魔物と戦うなんて、ずいぶんハードな訓練だな。大丈夫なのか?」
「今はまだ迷宮の第三階層までしか下りていないから、弱い魔物しか相手にしていないんだ。それに、レナや屈強な聖騎士たちが隣でサポートしてくれるから問題ないよ。レナは回復魔法も使えるから、怪我をしてもすぐに治してくれるんだ」
ここメイブランドの騎士は「聖騎士」という特別な呼び名で呼ばれており、女王のためなら死を恐れない。
「いくら後で治してもらえるといっても、怪我をしたときに痛みはあるだろう。それに、死んだら女王でも治せないぞ」
「確かにそうだけど、魔王を倒さなければ元の世界に帰れないのならやるしかないよ」
魔王討伐という危険な仕事を、英樹一人に任せていることが申し訳なかった。
「何か俺にもできることはないか」
「こうして話相手になってくれるだけで十分だよ。もし僕一人だけだったら、孤独に耐えられなかったと思う」
「それは俺もだよ。だから気を付けてくれ。勇者といっても命が一つしかないことは皆と変わらないんだからな」
ゲームのように、リセットボタンを押してやり直すことは、できないのだ。