280.プートン、立つ!
プートンの目の前には書見台があり、その上にはオルダ王国から渡された降伏文書が載っている。
これに署名すれば、戦争は終わる。そしてウェントリー王国はオルダ王国の属国となり、ほとんどの領地を失うことになる。
(仕方ないわよね。余にできることは、もう何もないんだから)
ここは王の私室だ。プートンのベッドの周りには、この国の主だった者たちが集まっている。
宰相のグレド、王太子のランスター、その息子のレイン、プートンの娘のマリーナ、その他の重臣たちが、プートンの一挙手一投足を見守っていた。
今まさに、ウェントリー王国の運命が決しようとしているのだ。
「陛下……あの、考え直すわけにはいきませんか?」
おずおずと発言したのは、レインだ。「こんな条件で降伏すれば、勇敢に戦って死んだワルブランド家の者たちが浮かばれません」
レインはワルブランド家のムリースに命を救われている。そのためにムリースは戦死した。そのことに、強い負い目を感じていた。
「降伏しなければ、レイン様を含めて王族の方たちは皆殺しにされます。そしてウェントリー王国は消滅します」
グレドが諭すように告げた。「王家への忠義に厚いワルブランド家の英霊たちは、そのようなことを望まないでしょう」
「レイン、これはもう決まったことだ」
ランスターも息子に言い聞かせた。「もちろん私も無念だが、死者の軍団を擁するオルダ王国軍を撃退する手段がない以上、どうしようもないのだ」
「父上……! 僕は自分の無力さが、悔しいですっ……!」
レインは震える声で言った。
「ううっ……」
マリーナは泣いていた。立っているのもつらいのか、その太った体を壁に預けて、しゃがみこんでしまった。
(マリーナ……。ごめんなさいね)
愛する娘にかけてやる言葉が何も思いつかないのが、情けない。それでもプートンは、王としての責任を果たさねばならない。
プートンは愛用の万年筆を手に取った。そして、筆先を署名欄に下ろそうとしたところで――、
「失礼いたします」
文官が部屋に入ってきて言った。「陛下、ワルブランド女公より、手紙が届いております」
「ワルブランド女公? 誰のことだ、それは?」
グレドがいぶかしげな表情で問いただした。
「戦死した領主の娘のナローラが、ワルブランド家を継いだそうです」
「ナローラはまだ子供だろう」
「十二歳だと聞いております」
新しい領主が十二歳だという事実は、一同の哀れみを誘った。この大変な時に、形だけの領主として、大人たちから無理やり担ぎ上げられたのだろう。
「それで、とうとうワルブランド家も降伏したってわけね。まあ、仕方ないわ」
プートンは萎えた気分で手紙を受け取ると、開封して読み始めた。
『ウェントリー王国の巨大なる王、ランティクル・プートン陛下。私はワルブランド家の領主、ナローラと申します。
私の父ゴーディガン、そして兄ムリースはエルリカの会戦で戦死しました。他の諸侯たちがみんな逃げたのに、最後まで戦場に残って、雄々しく戦って死んだのです。
私はそんな父や兄とは比べ物にならないバカですが、この危機を乗り切るために、ワルブランド家を継がせていただきました。
陛下の許可を取らないで勝手に家を継いだことを、許してください。
先ほどオルダ王国から貧弱な男がやってきて、降伏しろなどとふざけたことを言ってきましたが、もちろんすぐに叩き出しました。
降伏などクソくらえです。ワルブランド家は、どんな時でも王家の盾なのです。
オルダ王国軍が王都を目指して進軍しているようですが、陛下は何も心配せず、食べて飲んで寝ていてください。
公都バリアーダは鉄壁の防御を誇る城郭都市です。私たちはバリアーダで防戦に徹し、敵を一兵も王都へは通しません。
ワルブランド家の兵士たちは見事に狂っています。死者の軍団ごときを恐れるような腑抜け野郎は、一人もいません。
食糧や物資の備蓄も充分にあります。父は常に戦いに備えていたからです。
でも残念なことに、守っているだけでは勝てません。
どうかお願いします。憎きオルダ王国軍を撃滅するための援軍を送ってください。援軍が来るまで、私たちは何百年でも耐え続けます。
もう一つ、お願いがあります。
万が一、私が死んでしまった場合は、ワルブランド家の血を継ぐ者がいなくなってしまいます。
でも王都の修道院には、祖父ブリアンの庶子であるレズリーという者が、修道士として生活しているそうです。
私が死んだ時はレズリーを無理矢理還俗させ、彼を領主としてワルブランド家を再興してください。そうすればワルブランド家は今後も、王家を守る盾であり続けるでしょう。
ウェントリー王国は、必ず勝ちます!
プートン陛下に、栄光あれ!』
読み終えたプートンは、目頭が熱くなった。ナローラは自らの判断で、当然のように戦うことを選択したのだ。幼い筆跡の文字からは、ナローラの忠義と健気さが伝わってきた。
(ナローラ……。確か、以前に会ったことがあるわ)
七年前、ワルブランド公は二人の子供を連れ、王都を訪れたことがあった。
十歳になった長男のムリースを、王に紹介するためだ。まだ五歳だったナローラも一緒だった。
プートンは当時の記憶を思い起こした。
―――
七年前もプートンは今と変わらず、歩行が困難なほど肥え太っており、ベッドで横になって過ごすことが多かった。
謁見も、プートンの私室で行われた。
「あ、あの、僕はワルブランド・ムリースといいます。十歳です」
当時のムリースはほっそりとした体格で、風が吹けば倒れそうなほど弱々しかった。
「ふふ、ちゃんと挨拶できて偉いわねえ」
プートンはムリースの頭をなでてやった。「お父さんのように、強い男になるのよ」
「それは無理で……い、いえ、が、がんばります」
ムリースは緊張でカチコチになっていた。それもまた、微笑ましかった。
まだ五歳のナローラは、そんな兄の後ろに隠れていた。
「さあ、ナローラも陛下に御挨拶しなさい」
父親にそう言われても、ナローラは兄にすがりついて動かなかった。
ワルブランド公は、ため息をついた。
「申し訳ありません、陛下。どうも人見知りな娘でして」
「うふふ、いいのよ。とってもかわいい子じゃないの」
プートンはそう言うと、体の上の掛け布団をめくりあげた。そこには、山のように巨大な腹があった。
ナローラは、目を丸くしている。
「おっきなおなかー!」
プートンは自分の腹に自信を持っていた。マリーナが泣き出した時も、この腹をなでさせてやると機嫌がよくなったものだ。
「ナローラちゃん、さわってみる?」
「いいの?」
「どうぞどうぞ」
ナローラはベッドに向かって、とてとてと歩いてきた。
「うわあ! ぽよんぽよんだあ!」
プートンの腹は、綿のシャツ一枚だけで覆われている。その腹を、ナローラは小さな手でぽんぽんとたたいた。
「お、おい、陛下に対して失礼なことを――」
「いいのよ、ワルブランド公」
プートンは慌てた表情のワルブランド公をなだめ、ナローラの好きにさせてやった。
「なんでこんなにおっきなおなかなのー?」
「たくさん食べて、よく眠るからよ」
「すごーい!」
ナローラはベッドによじ登り、全身で腹にしがみついてきた。
「ふっかふかでいいにおいがするー!」
「まあ、嬉しいことを言ってくれるわねえ」
それからナローラはプートンの腹の上で、揉んだり、顔をこすりつけたり、跳びはねたりして、思う存分に大きな腹を堪能していた。
ワルブランド公とムリースがオロオロしているのをよそに、プートンはナローラの無邪気さに目を細めていた。
―――
(あのかわいかったナローラが、こんな手紙を書くようになったのね……)
「陛下、ナローラはなんと書いてきましたか?」
プートンはランスターに手紙を渡して、読ませてやった。
読み進めるうちに、ランスターの表情が厳しくなっていく。
ワルブランド家は降伏を拒否したことで、完全にオルダ王国を敵に回してしまった。もし王家が降伏しても、ゲロリーはワルブランド家を許さないだろう。
その他の者たちも、手紙を回し読んだ。誰もが胸を打たれていた。十二歳の少女にこんなことを書かせてしまった責任を感じていた。
「陛下、お願いいたします!」
レインは泣きながら言った。「どうかワルブランド家を、助けてあげてください! 僕はムリースに助けられたんです! せめて彼の妹を守ってやらなきゃ、僕はムリースに顔向けできません!」
「レイン、私も同じ気持ちだが、しかし――」
「レイン、よく言ったわ。あなたは正しい」
ランスターの言葉をさえぎり、プートンは言った。「ここでワルブランド家を見捨てたら、もう余は王などと名乗れないわ」
そして書見台の上の降伏文書を手に取り、ビリビリと引き裂いた。
「陛下!? な、なんてことを!」
グレドが悲鳴のような叫びをあげるが、プートンは意に介さない。掛け布団をはねあげ、ゆっくりと体を動かした。
「グレド、すぐに馬車を用意させなさい! マリーナ、あなたは余と一緒に出かけるわよ!」
「出かける? どこへですか、お父様?」
「ガロリオン王国よ」
「陛下、何を考えておられるのですか!? ガロリオン王国に行ってどうしようと?」
「決まってるでしょ。バリアーダに援軍を送ってもらうように頼むのよ。王が頭を下げれば、マサトも無下にはできないわ」
「無理です、兄上!」
ランスターが叫んだ。「いくらガロリオン王国軍が強くとも、死者の軍団には勝てません! 実際に戦った私には断言できます!」
「そもそもこの状況で、援軍を出してくれるはずがありません」
グレドが続けた。「いくら陛下が頭を下げようと、あの冷徹なマサトが他国を助けるために、自国を危険にさらすような選択をするはずがありません」
「いいえ、土下座をしてでも助けてもらうわ」
プートンは、床に裸足の足を下ろした。そしてゆっくりとバランスを取りながら、体を起こしていった。
「兄上、危な――」
「触らないで!」
プートンは、自分を支えようとするランスターを怒鳴りつけた。「自らの足で立って歩かない者が、どうやって国を守ると言うの?」
「兄上……」
十二歳の少女に戦わせておいて、「食べて飲んで寝ている」など、できるわけがない。戦う姿勢も見せずに、ベッドに寝たままで戦争を終わらせるなど、許されることではない。
プートンは、立った。
二本の足でしっかりと体重を支え、直立していた。
「さあ、ガロリオン王国に行くわよ! そして余が自ら摂政のマサトと交渉する!」
プートンは、右足をゆっくりと前に踏み出した。続けて、左足を慎重に前に動かした。
おぼつかない足取りではあるが、体重が三百キロを超え、一日のほとんどをベッドの上で過ごしていたプートンが、自分の足で歩いていた。
「絶対に……援軍を出させてやるわ!」




