278.ナローラ覚醒
『エルリカノカイセンハ、ウェントリーグンノタイハイ。マホウノアメデ、ヒゼメシッパイ。ヒガイジンダイ。オルダグンノコンゴノコウドウハ、フメイ』
――エルリカの会戦はウェントリー軍の大敗。魔法の雨で火攻め失敗。被害甚大。オルダ軍の今後の行動は不明。
政人は摂政の執務室で、「腕木通信」で送られてきた文書に目を通していた。
腕木通信は、十八世紀末のフランスで発明された通信手段である。
腕木と呼ばれる三本の木の棒を組み合わせた構造物を建物の上に設置し、その腕木の形状を遠隔地から望遠鏡で読み取り、それをバケツリレー方式で伝えることで、情報を伝達するものだ。
腕木は建物の中から操作することができ、腕木の形状と文字コードを対応させれば、簡単な文章を送ることができる。
今までの狼煙を使った通信よりも、はるかに詳細な情報を送ることができるのだ。
通信基地をいくつも設置すれば、広い範囲で通信ネットワークを築くことができる。あのナポレオンも、この腕木通信を使ったネットワークを活用していた。
腕木通信は日本では使われなかったので知名度は低いが、後に電信が登場するまでは、高速通信手段として世界各地で利用されていたのである。
腕木通信を本で読んで知っていた政人は、摂政就任直後に導入しようとしたのだが、腕木の組み合わせを操作するには意外に複雑な機構が必要だったため、技術的な問題で開発が遅れていた。
その後優秀な技師たちの努力によって、ようやく実現にこぎつけた。現在は王領内に十二ヶ所の通信基地が設置されている。
通信基地は今後もどんどん増やしていく予定で、いずれは諸侯領やローゼンヌ王国領とも、情報のやり取りができるようになるだろう。
情報の伝達手段を、時間のかかる騎馬の伝令や、情報量の少ない狼煙に頼っていたレンガルドにおいて、通信革命と呼べるほどの優れたシステムを、ガロリオン王国は手に入れたことになる。
「御主人様、ウェントリー王国が大きな会戦で負けて、これからどうなるんでしょうか?」
秘書のタロウが、不安そうに聞いてきた。
「被害が大きかったのなら講和ということになるだろうが、ゲロリーが王都デブールまで攻め落として、完全勝利を目指すこともあり得る」
「防御力が高い王都を、攻め落とせるでしょうか?」
「死者の軍団は攻城戦においては最強なんだ。ハシゴを登って城壁を越えようとする力攻めは、攻撃側の人的被害が大きくて普通なら難しいが、死者の軍団ならそれができる。上から矢や石で攻撃されても、高所から突き落とされても、生ける屍はすぐに復活して、ひたすらハシゴを登り続けるからな」
「怖ろしいですね。火攻めが通用しないなら、対抗手段がありません」
「ああ、ガロリオン王国が巻き込まれることはないとは思うが、備えはしておかないとな」
政人はそう言ってから、タロウに命令した。
「パージェニーを呼べ」
―――
ワルブランド公とムリースが、公都バリアーダに帰ってきた。
――物言わぬ死体となって。
ズィーガー城塞前の広場には、棺に納められた二人の死体が並べられている。
どちらの死体も、全身に深い傷をいくつも負っており、いかに激戦だったかが察せられる。
まだ十二歳のナローラは、二つの棺を前にして言葉を発することもできず、呆けたように立ち尽くしていた。あり得ない光景を目にして、理解が追い付かないのだ。
「我ら一同、主君を討たれていながら、おめおめと生きて逃げ帰ったこと、慙愧にたえません」
軍の上級将校だったドリアーという騎士が、悲痛な表情でナローラに報告した。「ですが我らが落ち延びることが、主君であるムリース閣下のご命令でありました」
「主君? 閣下? お兄様が?」
「お父上が討ち死にした後、我らはムリース様を新たな領主として、忠誠を誓ったのです」
「あなたたち、お兄様のことをバカにしてたんじゃないの?」
ナローラがそう言うと、ドリアーは恥ずかしそうに顔を伏せた。
「私は自らの不明を恥じております。ムリース様があのように強く、勇敢な方だとは思っていませんでした」
「お父上の武勇はすさまじいものでしたが、ムリース様はそれ以上でした」
別の兵士が言った。「槍を振っては生ける屍をまとめてなぎ払い、馬を御しては立ちふさがる敵を踏みつぶしていました。向かうところ敵なしの強さでした」
「ムリース様は、お父上の仇であるライス公を、自らの手で討ち取りました」
また別の兵士が言った。「さらには、ランスター王太子の息子であり、王位継承順位第二位のレイン様を、命をかけて救い出されました。レイン様を無視して逃げていれば、今ごろは生きてここにたどり着いていたでしょう。ですがワルブランド家の領主として、王家に対する忠誠を示されたのです」
「オルダ王国の有力な諸侯であるグレッセン公は、ムリース様に対し『無双公』の名を与えました」
さらに別の兵士が言った。「グレッセン公はムリース様の強さと気高さに感動したからこそ、遺体をここまで届けてくれたのでしょう」
(お兄様が……)
あの優しかった兄から、そのような武勇伝を想像することは難しい。しかし事実なのだ。
ナローラはムリースの棺にフラフラと歩み寄り、その遺体を見下ろした。
目は固く閉じられている。
上半身が裸なのは、鎧が棺に入らなかったからだろう。ムリースの太った体には棺の横幅が小さすぎるようで、ぎゅうぎゅうに押し込まれていた。
肩から胸にかけて大きく切り裂かれており、横腹にも深い刺し傷があった。どちらの傷も縫合されている。グレッセン家がやってくれたのだろう。
ナローラはかがみこみ、その大きなお腹に手のひらをのせた。毎日のように、ぽよんぽよんと、なでさせてもらったお腹である。
今は、そのお腹は堅く、そして冷たくなっていた。
「いやああああああっ!!」
今まで押し殺していた叫び声が、ついに口から飛び出した。こらえていた涙が決壊し、目からあふれ出た。
「嘘! 嘘! 約束してくれたのに! 必ず無事に帰ってきて、またナローラと遊んでくれるって、約束してくれたのに!」
ナローラはこれまでの人生、蝶よ花よと大切に育てられ、何不自由なく暮らしてきた。幸せな日々が永遠に続くことを、全く疑っていなかった。
それが突然、とんでもない不幸が自分の身に降りかかってきた。
信じられない。あり得ない。
「勇敢じゃなくてもよかったのに! 強くなくてもよかったのに! ナローラのそばにいてくれるだけでよかったのに!!」
泣き叫ぶ少女を、大人たちは痛ましそうにながめている。
もちろん悲しいのは、ナローラだけではない。
家臣、兵士、使用人、そして領民にいたるまで、ワルブランド家の悲劇を嘆かない者はいなかった。
「私たち、これからどうなるの?」
「明日にも敵が攻めてくるかもしれないわ。今のうちに逃げた方がいいんじゃ……」
「どこに逃げるって言うのよ!」
ナローラの侍女たちは、不安を隠せないでいた。
「降伏すれば、命だけは助けてもらえるんじゃないか?」
「領主様がいないのに、誰が降伏するという決定を下すんだよ」
「それは……みんなで話し合って……」
「そもそも、降伏したら助かるという保証はないぞ。相手は狂王なんだからな」
戦闘狂と呼ばれる兵士たちでさえも、その勇気を失っていた。
ワルブランド家の兵士が、一人で十人分の働きをすると言われるのは、勇敢なワルブランド家の領主に率いられていたからなのだ。
(逃げる……? 降伏する……? みんな何を言ってるの?)
ナローラの耳に、侍女や兵士たちの言葉が聞こえた。そして彼らに戦う気がないことに、ショックを受けた。
(王家のために最後まで戦うのが、ワルブランド家なんじゃないの? 四百年以上続いてきたワルブランド家は、一度も逃げたり降伏したりしたことはないのに)
彼女は幼いころから、ワルブランド家の輝かしい歴史を聞いて育ってきた。自分にもそんな偉大な先祖の血が流れていることを、誇らしく思っていた。
忠義に厚く勇敢なワルブランド家は、父と兄が死んだ時点で終わってしまったのだろうか。
(ナローラが子供で弱いから、みんな戦おうとしないの? そうよね……泣き叫ぶしかできない女の子に、みんなついてくるわけがないよね)
ナローラはムリースの顔を見た。その顔は、誇らしげに笑っているように見えた。最後まで勇敢に戦った戦士の顔だ。
(お兄様の勇気を、ほんの少しでいいからナローラに――いえ、私にわけてください)
ナローラは立ち上がり、袖で涙を拭いた。
そして、降伏を話し合っている兵士たちの所へ歩み寄った。
「その腰に差している剣を貸しなさい」
「え? お嬢様、何を言ってるんですか?」
「戦わない者には武器なんて必要ないでしょ? 私に貸しなさい」
「しかし、お嬢様――」
「よこせ!!」
ナローラの怒声に驚いた兵士は、慌てて剣を差し出した。
(重い)
剣を受け取ったナローラは、そのあまりの重さに驚いた。しかし、落とすわけにはいかない。ワルブランド家の領主が剣すら持てないなど、あってはならないことだ。
ナローラは剣を鞘から引き抜くと、その刀身を自分の髪に押し当てた。
「お嬢様! 危ないです! 剣を捨ててください!」
侍女の叫び声を無視して、ナローラは剣で自分の髪を引きちぎった。長い髪が、バサッと地面に落ちた。
(大人なら、ツインテールなんて子供っぽい髪型をしているわけがない)
呆気に取られる家臣たちをよそに、ナローラはツインテールのもう一つの束も切り落とした。
これは、かつて純真な少女だったナローラとの、決別の儀式である。
ナローラは十二歳にして、子供であることをやめた。なぜなら、子供では家を守れないから。
「お嬢様! なんてことを!」
「うるさい!!」
ナローラの気迫に、広場にいた者たちは一斉に動きを止めた。
ナローラはゆっくりと剣を鞘に収めた。そして元の持ち主の兵士に向けて差し出した。
「まだ戦う気があるなら、受け取れ」
兵士は十二歳の少女を恐れるかのように、震える手で剣を受け取った。
「お嬢様、あなたは――」
「お嬢様じゃない。私のことは――」
ナローラは兵士の顔をキッとにらみつけて、言った。「閣下と呼べ!」
「…………ハッ! 閣下、失礼いたしました!」
兵士はナローラの威に打たれ、その場にひざまずいた。
幼くても、体が小さくても、確かに彼女はワルブランドだった。
「私が新たなワルブランド家の領主、ワルブランド・ナローラだ!!」
ナローラは周囲に向けて、高らかに言い放った。その覇気は、とても十二歳の少女のものではなかった。
広場にいた者たちは、次々とひざまずいていった。
ここにナローラは、ワルブランド女公となった。
「ワルブランド家に臆病者は必要ない! 逃げたい奴は逃げろ! だが、その心にひとかけらでも勇気が残っているのなら、その勇気をふりしぼってから死ね!
私はワルブランド・ナローラ! 『沈勇公』と称されるワルブランド・ゴーディガンの娘! そして『無双公』と称される世界最強の戦士、ワルブランド・ムリースの妹だ!
もしもこの先、私が敵を前にしておびえる様子を見せたなら、その場で私を殺せ! そしておまえらも死ね!!」
そこまで言うとナローラは、ハアハアと荒い息をついた。
その気迫に押され、誰も顔を上げることができない。
ナローラは、高々とひるがえるワルブランド家の旗を振り仰いだ。
「ワルブランド家は盾なり!」
ありったけの大声で、ワルブランド家の標語を叫んだ。それだけで、自分が全能を手に入れたような気がした。
「ワルブランド家は盾なり!!」
ひざまづいていた者たちは立ち上がり、ナローラに続いて叫んだ。
ナローラは、さらに声を張り上げる。
「千の敵から王家を守る盾なり!」
「千の敵から王家を守る盾なり!!」
ワルブランド家は、まだ終わらない。




