240.真の主君
深夜の激闘を終え、捕虜たちはガロリオン軍の陣地へと護送された。
パージェニー以外で捕虜となったのは、二人の軍団長と約八千人の兵士たちで、彼らは拘束されることもなく、負傷者はすぐに治療を受けた。
パージェニーには専用の天幕が与えられた。
パージェニーを天幕まで案内してくれた兵士は入り口の垂れ布を持ち上げ、中に入るよう丁重にうながした。
中に入ると、中央には大きな木製のテーブルと、そのまわりに椅子が四脚、隅には大きな寝台が置いてあった。
テーブルの上には燭台が置いてあり、ロウソクの優しい光が室内を照らしている。他にもウォーターピッチャーとグラス、そして新鮮な果物を盛りつけた籠が置かれていた。
そして寝台の隣には、姿見があった。
(鏡まで用意してくれるとは。私が女なので気をつかってくれたのだろうか)
捕虜としては破格の待遇であることは間違いない。
ここでパージェニーは、まず軍医によって足の治療を受けた。思ったとおり、たいした怪我ではなかった。
軍医が退出するとルーチェが入ってきた。着替えを手伝ってくれるという。
「女の軍人はアタシたちしかいないからね」
ルーチェは、愛嬌のある笑顔でそう言った。戦場での荒々しさを思い出すと、とても同一人物とは思えない。
パージェニーは鎧を脱ぐのを手伝ってもらい、ゆったりした室内着に着替えた。ルーチェの甲斐甲斐しく世話をやく様子は、まるで従者のようだ。
「私は君にとって憎い敵のはずだが」
「敵だった、でしょう? 今はそうじゃないわ」
ルーチェは屈託のない様子で、そう答えた。「さあ、今はゆっくり休んで」
(これではまるで、貴人の客へのもてなしだ)
驚いたことに、寝台の脇には「元帥の剣」が立て掛けられている。武器さえ取り上げなかったのだ。
パージェニーが寝台に横になったのを確認してから、ルーチェはロウソクの火を吹き消して、天幕を出て行った。
目を覚ますと、すっかり夜が明けていた。
ルーチェが朝食をもってきてくれた。献立は蒸したパン、ミルク、ローストビーフ、目玉焼き、サラダ、海草のスープだ。
「捕虜の兵士たちにも、同じ食事を用意してあるわ」
ルーチェはそう言って、自分の食事もテーブルに置いた。ここで一緒に食べるようだ。
「それはありがたい。このようなしっかりとした食事ができれば、彼らは泣いて喜ぶことだろう」
(そしてガロリオン軍との食料事情の差を痛感するだろうな。これでは負けて当然だと思うかもしれない)
それからルーチェと雑談を交わしながら、食事を堪能した。
食後には、なんとコーヒーを出された。さすがにこれは、兵士には与えていないだろう。コーヒーは高級品とされており、パージェニーも飲むのは初めてだった。
「お好みで砂糖を入れてね。砂糖を入れる飲み方は、マサトが考えたんだよ」
そう説明するルーチェの顔は誇らしげだ。
(よっぽどマサトを愛しているのだな)
そのことを微笑ましく思うと同時に、いくらかの寂しさも感じた。
「今からマサトを呼んでくるわ。大事な話があるそうよ」
コーヒーを飲み終えると、ルーチェは配膳台車を押して天幕を出て行った。
しばらくして、政人とハナコが入ってきた。
彼らとは講和交渉のたびに会っていたが、こうして会うのは不思議な感じがした。
「元気そうで安心したよ」
政人はパージェニーの向かいの席に座り、そう言った。
心からそう言っているように見えた。講和交渉のときの厳しい表情とは全く異なり、優しい笑みを浮かべている。
「この部屋に鏡を置くように言ったのは我である。御主人様は男だから、そういうことには気が回らないのである。他にも欲しいものがあったら言うがよい」
ハナコも政人の隣に座り、優しい言葉をかけてきた。
「なぜ私を、このように手厚くもてなしてくれるのだ? 私は捕虜だぞ」
「捕虜とはいえ、元帥という高い地位にある人間を粗略に扱うわけにはいかない」
「私を殺そうとは考えないのか? 私は貴軍の多くの兵を殺したのだから、恨んでいるだろう」
「君を殺すだと?」
政人の顔色が変わった。「そんなことができるものか!」
強い口調で否定してきた。冷静な彼に似合わず、熱くなっているようだ。
「なぜだ?」
「君を愛しているからだ!」
(ひゃうっ!?)
男に愛していると言われたのは初めてである。士官学校でも、パージェニーは男たちから近づきがたい存在とみなされ、敬遠されていたのだ。
(なんとまっすぐで……そして熱い告白だ!)
「すまん、言い間違えた。君の才能を愛していると言いたかったんだ。君は軍事において、百年に一度現れるかどうかという天才だ。そんな才能が失われることは、世界にとって大きな損失だ」
「な、なんだ、そういう意味だったか」
「御主人様、ひどい言い間違いであるぞ。ルーチェさんがいなくてよかったのである」
パージェニーはまだ胸がドキドキしている。
ひとつ深呼吸をして、心を落ち着けてから口を開いた。
「天才とはマサト殿のことだろう。レブーラの戦いで大敗していながら、今はこうして勝者となっている。これはおそらく、マサト殿の力によるものだと私は考えている。なぜこんなことになったのか、教えてもらえないだろうか」
「いいだろう」
政人は全てを説明した。
ローゼンヌ領内で食糧を買い占め、さらにウェントリー王国からの交易船を襲って、ローゼンヌ王国が食糧不足に陥るようにしたこと。
情報を操作し、世論を誘導したこと。
住民を扇動して社会不安を引き起こし、暴動や反乱を誘発したこと。
レガードがロンセルのような有能な者を遠ざけ、無能なイルシュを重用するように仕向けたこと。
女を使ってイルシュから情報を引き出し、さらにその行動を操ったこと。
グルフォードを人質にすることで、レガードの行動を制限したこと。
ローゼンヌ軍に粗末な食糧を提供することにより、戦意と体力を奪ったこと。
外交によってズウ王国を味方につけ、レガードを慌てさせたこと。
捕虜となっていたデルタドール軍団を、秘密の地下道を使って脱走させたこと。
タンメリー女公は、もちろん政人の指示に従って動いていること。
交渉を長引かせることで、身重だったルーチェが軍に復帰できる時間を稼いだこと。
話を聞き、パージェニーは打ちのめされた気分だった。軍人である彼女には思いもよらない戦い方だ。
「俺たちの間で講和が合意に達したとしても、レガードがそれに批准しないように仕向けていたんだ。だから俺たちの交渉は、中身のないものだった」
「そうだったのか……」
パージェニーにとっては屈辱だ。
彼女なりに懸命に知恵を振り絞って交渉に臨んでいたのに、政人はパージェニーではなく、レガードを相手にしていたのだ。
だからこそ、彼女は思う。
(なんとかしてこの男の目を、私に向けさせたいものだ)
「マサト殿は私の処遇について、どのように考えておられるのだ?」
政人はその問いに対し、真剣な眼差しで答える。
「君の力を見込んで頼む。どうか我が国に仕えてもらいたい」
そう言ってもらえるのではないかという期待はあった。
自分の力を評価してもらえたことには、喜びを感じた。
だからといって、簡単にうなずけるものではない。
「それはできない。私の仕える国はローゼンヌ王国だけだ」
「ローゼンヌ王国は君に何をしてくれた? 見事な勝利を挙げた君に対して、どうやって報いてくれた?」
「それは……」
「俺はレガードよりもはるかに、君のことを評価している。君を今と同じく『元帥』として迎えたい」
「ガロリオン王国の軍制には、元帥などという役職はなかったはずだが?」
「そうだ。だから君のために新しくつくる。
元帥はローゼンヌ王国では有事の際にのみ置かれる役職だが、ガロリオン王国においては常設とする。
任期はない。常に軍のトップとして指揮を執ってもらう。
さすがに海軍にまでは目が届かないだろうが、陸軍の全てを君に任せたい」
これには心を動かされた。
「そこまで私の事を……。だが、将軍や兵士たちは、私が元帥になることに納得しないだろう。私は彼らの戦友たちの命を、多く奪ったのだからな」
「将軍たちには、君を元帥として迎えることについて、既に同意を得ている。互いに死力を尽くして戦った結果だと、彼らは理解しているんだ。
兵士たちの中には、わだかまりを持つ者もいるかもしれない。だが、彼らにとって最も重要なことは、優秀な指揮官に率いてもらうことだ。そうでなければ自分が死ぬことになるからな。
だから、きっと君を受け入れるだろう」
「優秀な指揮官なら、すでにいるではないか。ギラタン、デルタドール、そしてルーチェ。彼らほどの指揮官は、ローゼンヌ王国にもいないと思う」
ギラタンが煙を見て、ローゼンヌ軍の撤退を看破した話は聞いている。
デルタドールほど武勇に優れる人間は、見たことがない。
ルーチェの恐ろしさは、身をもって体験している。
「彼らはもちろん優秀な将軍であり、一軍を率いて戦うことができる。だが、その将軍たちの上に立って、全軍の総司令官を務められるのは君だけだ」
「私は負けた人間だぞ」
「君が負けたのは、レガードが君を信頼せず、軍事に対する理解も足りなかったからだ。俺は摂政として、君が存分に力を発揮できる環境を用意することを約束する」
(確かに、政人のような優秀な政治家が軍を監督してくれるなら、兵糧不足で苦しむこともないし、余計な口出しをしてくることもないだろうな)
「そこまで私の事を評価してくれるのか」
「そうだ、俺は――」
政人は力強い声で言い放つ。「俺には君が必要なんだ!!」
「…………!」
(私が必要……? マサトが……?)
政人のすごさは、嫌というほど思い知らされた。
そんな相手に自分が必要とされていることが、この上もなく誇らしかった。
(しかし今の言い方は、まるで愛の告白のような……)
「すまん、また言い間違えた。俺たちには君の力が必要だ、と言いたかったんだ」
「そ、そうなのか」
「御主人様、わざとやっているのではあるまいな」
パージェニーの心は、はっきりと政人に傾いていた。
確かにレガードには強い不満を抱いている。自分は信頼されていないとも感じていた。
もし解放されて国に帰ったとしても、レガードはパージェニーを敗将として扱うだろう。処罰されることもあり得る。
それに対し政人は、自分を必要だと言ってくれた。
「士は己を知る者のために死す」という言葉があるように、人は自分の真価を知ってくれる人のために、命をかけて働きたいと考えるものだ。
(主君が私を信じてくれるなら、私は決して負けない。私を信じてくれる方のために、私は自分の力を使いたい)
覚悟を決めた。
「わかりました、マサト殿。私の力でよければ、喜んでお貸ししましょう」
「そうか、ありがとう!」
政人は満面の笑みを見せた。
その笑顔を見て、自分の判断は間違っていないことを確信した。
「ただし、お願いがございます」
「なんだ?」
「やはり私は、祖国に対して弓を引くことには、どうしても抵抗があるのです。国には家族もいますので。勝手なお願いとは承知しておりますが、ローゼンヌ王国との戦いにおいては、私は力をお貸しすることができません」
「もっともなことだ」
政人はうなずいた。「それで構わない。この戦争が終わってから、君を元帥に任命しよう」
「御主人様、よいのであるか? ローゼンヌ王国にはまだたくさんの軍団があるし、王都エルムーデは堅城として知られているのである。パージェニーさんに、残っている敵を倒してもらったほうがよいのではないか?」
「大丈夫だ、もう俺にはこの戦争の終わりが見えている」
(マサト殿がそう言うのなら、そうなのだろう)
政人が大言壮語を吐く人間でないことはわかっていた。
「マサト殿、これを」
パージェニーは寝台に立て掛けてあった元帥の剣を手に取り、政人に差し出した。
「これは?」
「この剣は元帥の証としてレガード王より拝領したものです。ガロリオン王国の元帥となるからには、持っているわけにはいきません」
「そうか、では受け取っておこう」
「その代わり、マサト殿から元帥の証を頂けないでしょうか?」
「元帥の任命式において、改めて別の剣を授けようと思っているが」
「いえ、ガロリオン王国からではなく、マサト殿から頂きたいのです。マサト殿が私を認めてくださったという証を頂きたいのです」
パージェニーはガロリオン王国に対する思い入れは全くない。だから愛国心をもつまでには、時間が必要だ。
パージェニーの認識では、忠誠を捧げる対象はガロリオン王国ではなく、政人なのである。
「うーん、そう言われてもなあ……何かあるかな」
「御主人様、パージェニーさんに名前をつけてあげてはどうであるか?」
ハナコが提案した。
「名前?」
「イヌビトは飼い主に名前をつけてもらうことで、その人を主人と認識するのである。我は『ハナコ』という名前をもらって、とても嬉しかったのである」
「パージェニーはイヌビトじゃないぞ。彼女にはすでにパージェニーという立派な名前が……ん? そうか、名前か」
政人はなにか思いついたようだ。「パージェニー。君に、俺のことを敬称なしで呼ぶ権利を与えよう」
「え? それはどういうことでしょうか?」
「ガロリオン王国では、俺のことを公の場では『殿下』と付けて呼ぶことになっている。君は特別に、俺の事を呼び捨てで呼んでもいい」
「ええっ!? さすがにそれは……」
「君に対しては、特別な扱いをするべきだと俺は思う。軍事行動の全てを任せる元帥という役職は、この国では例がないことだからな」
(そんなことが許されるのか?)
軍という上下関係の厳しい世界に身を置いてきた彼女には、抵抗がある。
だが、そう呼んでみたい気持ちもあった。確かに特別感がある。
「で、では失礼して……」
パージェニーは一つ咳ばらいをしてから、呼びかけた。「マサト、あなたに忠誠を捧げると誓います」
「よろしく頼む、パージェニー」
(無理だ! 私には無理だ!)
抵抗があるというより、恥ずかしかった。
「も、申し訳ありません! やはりそんな失礼な呼び方はできません!」
「そうか」
それから三人で話し合った結果、政人のことを「殿下」ではなく「様」付きで呼ぶことになった。
パージェニーは席を立ち、政人の前に片ひざをついた。
「マサト様、今後倒すべき敵が現れたならば、私にお命じください。それがどんな強大な敵であろうとも、私の持つ戦術の才の限りを尽くして、撃ち破ってご覧に入れましょう」
「ああ、頼りにしている。パージェニー、君を得たことは百万の味方を得たに等しい。いや、それ以上だ」
「はっ! ありがたきお言葉です!」
パージェニーは、深々と頭を垂れた。
ついに、真の主君を見つけたのだ。




