228.苦境に立たされるパージェニー
「――というわけで、軍への兵糧の輸送が滞っていたことに、陛下は大層ご立腹でして……」
また『王女の隠れ家』にやってきたイルシュは、王に叱責されたことをトルセアに話した。
「何それ!? 王様だって軍が兵糧不足なことを知らなかったんだから、人のこと言えないじゃないの。それに官僚だって、アンタに指示される前に自分たちで判断して兵糧を送るべきだったわ。アンタ一人に責任を押し付けるのは、おかしいわよ」
出会ったばかりの頃のトルセアなら、「アンタが悪いんだから叱られて当然でしょ。アタシに愚痴ってどうするのよ」とでも言って、突き放していただろう。
しかし、今はイルシュの気持ちに同調してくれるようになった。
会うたびに彼女と親密な関係になっていることが、イルシュはたまらなく嬉しかった。
「それで、もう兵糧を輸送する指示は出したの?」
「出しましたが、どうもまだ時間がかかるようです」
「なんで? 急ぐように言われてるんでしょ?」
「兵糧の準備はできているんですが、輸送隊の護衛のために軍の協力を得る必要があるそうなんですよ。軍は各地の治安維持のために出払っていて、すぐに動かせる軍がないんです」
「護衛なんて必要なの? 今は休戦中だから、ガロリオン軍に奪われることなんてないでしょ?」
「はい、ガロリオン軍に奪われる心配はしていません。危険なのはローゼンヌ領内です。食糧不足の影響か、各地で盗賊団や反乱軍が出没しはじめたんです。軍が出払っているのも、それが理由です」
盗賊団や反乱軍の出現の理由は食糧価格の高騰に加えて、マローリンの部下たちが各地で扇動を行っているからである。
食糧不足を引き起こして民衆の反乱を誘発するという政人の戦略は、早くも実を結ぼうとしていた。
「まったく、あんなに治安が良かったこの国が、護衛なしじゃ荷物を運べなくなるなんて」
トルセアはイルシュのグラスにワインを注ぎながら、吐き捨てるように言った。その表情に浮かぶ感情は、怒りとも呆れとも読み取れた。
「情けない話ですが、今はガロリオンの方が治安は良いようです」
「ねえ、その盗賊団や反乱軍って、活動場所は陸上だけよね」
「そうですね、奴らは船を持っていませんから」
「だったら、海上輸送という手段があるんじゃないの?」
イルシュは「あっ!」と声を上げた。
「おっしゃる通りです! 海からなら、護衛などなくても安全に輸送できるでしょう。近海に海賊などはいませんので」
「一番早く輸送できるのは、アデルマ港を出港して海岸線に沿って進み、ガロリオン王国のエウトリピア港に入港するルートね。そのあとはフェルベ川をさかのぼっていけば、ローゼンヌ王国軍の陣地に着くわ。
今は休戦中だから、ガロリオン王国は港を使わせてくれるはずよ」
「おお! トルセア様はガロリオンの地理についても詳しいのですね」
「ふふん、アタシを誰だと思ってるのよ」
トルセアは得意気に胸をそらした。
もしもイルシュがガロリオン王国の沿岸部、あるいはウェントリー王国に諜報員を送り込んでいれば、最近になって海賊がさかんに出没しているという情報はつかんでいただろう(その海賊の正体がガロリオン王国海軍であることまでは、わからないとしても)。
情報というものは、何もせずに入ってくるものではない。
情報を得ることができるのは、情報を得ようとした者だけである。
イルシュやレガードには、その認識が欠けていた。
「トルセア様、その案を採用させていただきます。それに、アデルマ港に海軍の船が停泊していれば、護衛船団を付けてもらえるかもしれませんね」
「護衛船なんていらないでしょ。休戦中とはいえ、軍船がガロリオン王国の領海に侵入したら問題になるわ。グルフォード殿下が捕虜になってるんだから、相手を刺激しないほうがいいわよ」
「なるほど、そのとおりです」
イルシュはすっかりトルセアを信頼していた。
その日の深夜、マローリンは海軍に緊急の使者を派遣した。
使者に持たせた書状の内容は、以下のようなものである。
『兵糧を積んだローゼンヌ王国の輸送船団が、エウトリピア港に向かった。護衛船団はいないと思われるが、油断なく襲撃されたし』
―――
玉座の間に呼び出されたローガンは、レガードから回答を聞かされた。
「やはりこの条件で講和を結ぶわけにはいかぬ。再度交渉するよう、戻って元帥に伝えるがよい」
その回答は、講和の拒否だった。
(元帥殿の苦境を、わかってはいただけなかったか……)
ローガンは王の言葉に失望した。とはいえ、このまま帰ってはパージェニーに合わせる顔がない。
「残念ですが、陛下がそう決められたのであれば仕方がありません。ですが、それならばお願いがございます」
「なんだ? 言ってみよ」
「講和交渉を打ち切り、ガロリオン軍を攻撃することをお許しください。そうなれば、今度こそ元帥殿はガロリオン軍を完膚なきまでに撃ち破り、ローゼンヌ王国に完全な勝利をもたらすことでしょう」
王が講和を拒否した場合は、そう願い出るようにパージェニーに言われている。
レガードは怪訝そうな表情になった。
「だが、グルフォードが捕虜になっているではないか。こちらから一方的に交渉を打ち切って攻め込めば、殺されるかもしれぬぞ」
(ここが正念場だ。逃げるわけにはいかぬ)
「事ここに至っては、我々は覚悟を決めねばなりません。
時間が経てば経つほど、我が軍の士気は低下し、敵軍の戦意は高まっていきます。
そうなれば、元帥殿の力をもってしても勝つのが難しくなるでしょう。戦うなら、今しかないのです。
誉れ高きグルフォード殿下ならば、自分の命よりも国の勝利を願うでありましょう」
言い終えたローガンは、王の様子をうかがった。
レガードは激情を抑えかねるかのように、体を震わせている。優しげだった顔はゆがみ、見る見るうちに赤くなっていった。その形相は悪魔のように恐ろしい。
ローガンは、自分が失敗したことを悟った。
「この痴れ者がっ!! 我が息子が死んでもよいとぬかすか! その汚い口を閉じろ! 貴様ごときがグルフォードの心を推し量るな!!」
「まったく、許しがたいことを言うものですな」
イルシュが王に同調した。「おい貴様、その案は元帥が考えたことなのか?」
(はいと答えれば、元帥殿が罪に問われてしまう)
ならば、ローガンの言うべきことは決まっている。
「いえ、自分の独断であります。現在の状況を判断して、それしかないと愚考いたしました」
「おのれ、副官の分際で勝手なことを!」
レガードはローガンに指を突きつけた。「衛兵、こいつを牢にぶちこんでおけ!」
(元帥殿、申し訳ありません)
ローガンはうなだれたまま、衛兵に引き立てられていった。
―――
「ローガンが投獄されただと!?」
パージェニーは予想外の知らせに、目を見張った。
「ええ、殺されなかっただけ、ありがたく思うべきでしょうな」
王の使いと称する男がやってきて、そう告げた。腹の出た中年男で、暗い目つきで蔑むようにパージェニーを見ている。
「そうそう、申し遅れました。私はこの軍の副官として派遣されたミレグロと申します」
「副官だと?」
「ええ、陛下がそうお決めになりました」
(こいつは何を言っている?)
「そんなバカな話があるか! 元帥は軍における全ての権限を持っている。もちろん人事もだ。たとえ陛下といえども、それは越権行為にあたるぞ!」
「陛下は心配なさっておいでなのです。元帥殿が勝手に交渉を打ち切って攻め込み、グルフォード殿下を死に追いやるのではないかと。今後、軍事行動を起こす場合は私の許可を取っていただきます。これも陛下の御命令です」
(こんな男の許可がなければ軍事行動を起こせないとは……。陛下は元帥の権限を、大幅に削ろうとしているのか)
そのことを抗議するべきだが、その前に聞いておくべきことがあった。
「ローガンはいったい何の罪があって投獄されたというのだ? 彼ほど、この国に忠誠を捧げている人間はいないぞ」
「奴は講和交渉を打ち切って開戦するべきだと主張しました。そのためにグルフォード殿下が死んでも構わない、とまで言ったのです。あまりにも不敬な発言です」
「それはローガンの考えではなく、私が――」
そう願い出るように命じたのだ、と言おうとしたところで、パージェニーはローガンの意図に気付いた。
(私に罪が及ぶのを恐れて、自分一人が罪をかぶろうとしたのか)
「どうかされましたか?」
ここで真実を告げればパージェニーは解任され、ローガンの心意気を無駄にすることになる。
彼はパージェニーこそがこの国に勝利をもたらしてくれると信じて、自分が犠牲になろうとしたのだ。
(すまないローガン、私のせいだ。陛下のグルフォード殿下に対する愛情を、軽く見積もっていた。正論を言い立てれば聞き届けてもらえると考えた私は、甘かったのだ)
政人が同じ立場だったなら、事を運ぶにあたって慎重に根回しをしただろう。
これはパージェニーの政治能力の欠如が招いた失策である。軍事の才能と政治の才能は違うということだ。
「ローガンは……今までよく私を支え、軍に大きな貢献をしてくれたのだ。その功績に免じて、寛大な処分をしてもらえないだろうか」
「ふん、ずいぶんお優しいことですな。まあ、今の言葉を陛下にお伝えしてあげてもいいですが、その代わり、私の立場は認めてもらえますね?」
「わかったミレグロ。君を副官として受け入れよう。軍事行動を起こすには、君の許可を取ることにする」
「それでよいのです。いいですか、私はあなたの部下ではありますが、陛下から直接命令を受けてここにいるのです。それを忘れないでください」
ミレグロはふてぶてしい態度で、そう言った。
(ローガンがいなくなり、代わりにこんな奴が来るとは……)
何一つ好転しない状況に、パージェニーは希望を見出せなかった。




