214.王女の隠れ家
レガードは、パージェニーから届けられた講和条約の文書を読み返した。
(さて、どうしたものか)
玉座の背もたれに体を預け、考え込む。彼がこれに批准すれば、この戦争は終わる。
「陛下、私は悪くない条件だと考えます。ラウスウィード殿下を始め、多くの王族が捕虜になっている現状を考えれば、充分ではないでしょうか」
宰相のロンセルは条約に批准することを勧めた。
「国民に範を示すべき王族が、戦争中だというのにのん気にバカンスを楽しんでいたとは」
王太子のグルフォードは苦り切った表情だ。「父上、こうなったからにはやむを得ません。宰相殿の言う通り、この条件で講和を結んで戦争を終えましょう。これ以上国民に負担をかけることは避けるべきです」
ロンセルとグルフォードは講和を結ぶことを勧めるが、レガードはうなずけない。
「だが、この条件では国民が納得しないだろう。受け取る領土がアドレーヌ地方だけだし、賠償金も取れない。おまえがガロリオン王国の摂政になると、国民は期待しているんだぞ」
「とんでもない話です。敵国の王太子である私が摂政になっては、ガロリオン王国内で強い反発が起こるでしょう。安定した統治など、できるわけがありません」
グルフォードははっきりと拒否した。ロンセルも続ける。
「ローゼンヌ王国の威を示し、アドレーヌ地方を奪い返すことができれば戦果としては充分だと、陛下はおっしゃっていたではありませんか」
「だが、ここで戦争を終えては国民には不満だけが残るぞ。それではこの戦争を始めた意味がないだろう」
「陛下のおっしゃる通りです」
イルシュが同調した。「元帥に交渉をやり直すように命令しましょう」
ロンセルとグルフォードはイルシュをにらみつけた。二人とも、レガードの機嫌を取ることばかり考えているこの男を軽蔑している。
「それでは陛下が現地に出向き、直接マサトと交渉されてはどうでしょうか。それで陛下の望んでいる条件を存分に主張なされませ。そうすれば何日もかけてパージェニー元帥と無駄なやり取りをする必要はなくなります」
煮え切らない王の態度に業を煮やしたロンセルは、そう提案した。
(私がマサトと交渉か……)
レガードは気が進まない。
以前にグルシウスの葬儀で政人がこの国を訪れた時、「両国の友好のため力をお貸しください」などと言って頭を下げたのは自分である。今さら会わせる顔がない。
「考えておこう」
やる気がないのは明らかである。
「それでは、やはりこの条件で講和を結ぶべきかと」
ロンセルは苛立ちを抑えながらメガネの位置を直し、そう進言した。
(しかし、それでは国民は間違いなく反発する)
城下でどんな会話が交わされているかについては報告を受けているし、目安箱の投書でも、大きな戦果を望む意見が多いのを目にしている。
だからレガードは、この条件で講和を結ぶ気にはなれない。とはいえ、ロンセルとグルフォードが反対するので、すぐにその意見を退けることにも抵抗があった。
「しばらく考えてみよう」
とりあえずそう答え、玉座の間を退出した。
やはりレガードは即断が苦手な人間なのである。
―――
戦争中とはいえ、今のところローゼンヌ王国の民衆は普段通りの生活を送っている。
王都エルムーデは、夜でも女性が一人で街を歩くことができるほど治安が良い。その繁華街は各所で明かりが灯され、多くの人でにぎわっていた。
イルシュは一人、夜の街を歩いている。王族でも貴族でもない彼は自分がVIPだという認識はなく、付き添いなどつけずに一人で外出するのを好んだ。
客引きの呼びかけを無視して彼がやってきたのは、まるで貴族の邸宅のような壮麗な外観の建物だ。
ここは日本で言うところの会員制高級クラブで、店名は『王女の隠れ家』という。
別にいかがわしい店ではない。ただ女の子が一緒に酒を飲んで会話をしてくれるだけの、いたって健全な店である。
重い扉を押し開けて中に入ると、すぐに顔なじみの店員が近寄ってきて、個室に案内してくれた。
部屋の中央にはガラスのテーブル、その周りにソファーが置いてある。窓はなく、天井から小さなランプがぶら下がっているが、室内は薄暗い。
しばらく待っていると、この店のオーナーが挨拶にやってきた。
「まあ、イルシュさん。お待ちしていましたわ」
オーナーは顔も体も丸くふくらんだ中年女で、名前はチノチェンタという。
「ママ、フローラ様はいるかい?」
フローラは、イルシュの最もお気に入りのホステスだ。
この店には王女がお忍びでやってきて客の接待をする――という設定があるので、そこで働くホステスは様付きで呼ばれている。もちろん実際は王女でもなんでもないことを、客は承知している。
「ごめんなさいね、フローラ様は今日は城を抜け出るのに失敗したらしいの」
チノチェンタはそんな言い方をした。「その代わり、今日はぜひイルシュさんに紹介したい王女様がいるのよ」
「ほう、それは楽しみだな」
「トルセア様、入ってらして」
チノチェンタが部屋の外に声をかけると、一人の少女が入ってきた。
その姿を一目見た瞬間、イルシュは言葉を失った。
(なんと……美しい)
気の強そうな鋭い目つき、かわいらしく上を向いた鼻、弾力のありそうな白い肌、長身でスラっとした体型、金色の髪を高い位置で結んだポニーテール、どれを取ってもイルシュの好みにぴったりだった。
その少女は右手を腰に当て、不敵な表情でソファーに座るイルシュを見下ろしている。
「この方はトルセア様。まだ十八歳です。イルシュさんのことを話したら、ぜひ会って話がしたいとおっしゃるの」
「ほう。トルセア様、私に何か聞きたいことがあるのですか?」
トルセアはフンと鼻を鳴らした。
「別にアンタに聞きたいことなんてないわ。ただアンタが王様に対してもズバズバ意見を言えるって聞いたから、どんな奴なんだろうって興味を持っただけよ」
初対面で、しかも客であるイルシュに対して無礼な口の利き方だが、王女様(という設定)なのだから仕方がない。それにイルシュは彼女のように気が強く、自分に対しても上からモノを言う女が好みだった。
(さすがにチノチェンタは、私の好みの女のタイプをわかっているな)
「それでは私は退散しますから、二人でゆっくりしていってください。今、飲み物を持ってきますね」
チノチェンタが部屋を出て行くと、トルセアはスタスタと歩いてイルシュの向かいのソファーに腰を下ろした。その身のこなしは、本当に高貴な身分の女性のように洗練されていた。
「アンタ、戦争中だっていうのに、こんなところで遊んでていいの?」
またしてもトルセアは失礼なことを言った。だが、イルシュは不愉快な気はしない。むしろ、自分に対してあけすけに話す彼女に好感を持った。
「どんな時でも人には娯楽が必要なんですよ。気持ちに余裕が無ければ、陛下に有用な助言をすることもできませんからね」
「なるほどね」
酒が運ばれてきたので、トルセアはワインのボトルを持ち上げ、こぼれないように慎重な手つきでイルシュのグラスに注いだ。
(ほう、なかなか丁寧な注ぎ方だな)
口調はきついが、仕事はちゃんとするようだ。
「ねえ、アンタ王様とどんな話をするの?」
「例えば、戦地から届いた講和条約案に批准するかどうかという話です」
「講和条約? ねえ、それってどんな内容だったの?」
イルシュは、政人とパージェニーの間で合意に達した講和条件を話した。
「何それ!? そんなつまらない条件で講和するなんて、納得できるわけないでしょ!」
「私に怒っても困りますよ。私はそんなものは突っぱねるように進言したんですから」
「それで、王様はなんて?」
「まだ決断できないようです。おそらく本心では拒否したいんでしょうが、ロンセル殿とグルフォード殿下が講和に賛成していますからね」
「冗談じゃないわよ! アンタ、アタシの代わりにその二人を怒鳴りつけてやりなさい!」
トルセアは御立腹の様子だ。
「そうは言っても、相手は宰相と王太子ですし」
「アタシだって王女よ!」
そう力強く言ったと思いきや、急に声のトーンを下げてつぶやいた。「まあ、ホントは王女じゃないけどね」
「トルセア様、ここでそれを言うのは野暮ですよ」
「だって王女のはずなのに、アタシには何の力もないんだもの。いくら講和に反対だと思っても、政治に口を出す権限なんてないし」
トルセアはさっきまでの高飛車な態度が嘘のように、力なくうなだれている。
(これは、なんとかしてやりたいな)
トルセアはホステスと客という立場を捨て、素の自分をさらけ出してくれている。イルシュはそう感じた。彼女がこの上もなく、いとおしく思えた。
「よし、私がなんとかしましょう」
「えっ? なんとかできるの?」
「もちろんですとも。陛下は私を信頼してくれていますからね。私が言えばきっと聞き入れてくれます」
トルセアの顔が輝いた。
「すごいじゃない!」
トルセアは席を立ち、テーブルをまわりこんでイルシュの隣に座り、体を寄せてきた。
「おや、私を気に入っていただけたのですか?」
「か、勘違いしないでよね。ただ、アンタも少しは頼りになりそうだって思っただけだから」
「はは、それほどでもないですよ」
「ねえ、もっと面白い話を聞かせなさいよ」
トルセアはイルシュのグラスにさらにワインを注いだ。
イルシュはご満悦だった。
酩酊状態のイルシュは、トルセアに体を支えられながら部屋を出た。もうすでに日付も変わっていた。
「ちょっと、しっかりしなさいよ。アンタ、いくらなんでも飲み過ぎよ」
トルセアもかなり飲んでいたはずだが、特に酔った様子はない。かなり酒に強いようだ。
「いや、面目ありません。トルセア様がどんどん酒を注いでくださるものですから、つい」
「何よ、アタシのせいにしないでよね。……ねえ大丈夫? 一人で帰れる?」
「大丈夫です、それほど酔ってはいませんよ」
「酔っ払いは、みんなそう言うのよ!」
きついことを言いながらも、優しく気遣ってくれるトルセアがかわいくて仕方がない。イルシュはすっかり彼女のとりこになっていた。
店を出ようとしたところで、トルセアはイルシュを引き留めようとするかのように、服のそでをつかんできた。
「トルセア様?」
「また……来なさいよね。そして、必ずアタシを指名しなさい」
トルセアは顔を赤らめて、そんなことを言った。
必ずそうすると、イルシュは約束した。
―――
「イルシュは今夜も予約を入れたと『王女の隠れ家』のママから連絡がありました。トルセアのことをすっかり気に入ったようですね」
ペントスはニヤニヤと笑いながら言った。
「ふふ、彼女にはよくお礼を言っておかないとね。協力者は本当にありがたい存在だよ」
それに答えるマローリンも愉快そうだ。
「それにしても王女様が接待してくれるとはねえ。あっしでさえ、そんな妙な店があるとは知りませんでしたよ」
マローリンたちはイルシュの身辺調査を行い、彼が『王女の隠れ家』の常連であることを突き止めていた。その店のオーナーから彼の好みの女のタイプも聞き出すことができた。それが今回の計略のタネである。
「会員制で、客層も限られてるみたいだからね。それにしても、イルシュの女の好みは変わってるね」
「金髪で長身で色白で、十八歳で……容姿や年齢はともかく、生意気で気が強い女が好きな男は珍しいですね」
「まあ、他人の趣味に口を出すのはやめておこう。彼はレガードを説得してくれたようだしね」
王は講和を拒否したと発表していた。民衆はもちろん、それを支持した。
「別にイルシュが説得しなくてもレガードは拒否したと思いますがね」
「今回はそうだろうね。でも今後は楽観できないな。ロンセルとグルフォードの存在はなかなか厄介だよ」
「ええ、グルフォード殿下はともかく、ロンセルも戦争を終わらせようとするとは意外でした」
「好戦的な人間だと思ってたけど、しっかりと現実を見てるね。摂政くんに報告した方がいいな。ロンセルとグルフォードには注意した方がいいってね」
それから二人はイルシュから聞き出した情報をもとに、今後の方策を話し合った。




