198.老将の戦争哲学
ソームズ公は、激痛と共に目を覚ました。
目に映るのは、雲一つない青空。どうやら、地面に仰向けになっているようだ。
(私は……まだ生きているのか?)
痛いと感じるという事は、生きているのだろう。起きようとするが、体に力が入らない。
「じっとしていてください! 今止血しています!」
そう言ったのは、ガロリオン王国軍の軍装の兵士だ。どうやら、治療をしてくれているようだ。
(ここはどこだ?)
周囲には、兵士たちの雄叫びや剣戟の音が飛び交っている。まだ戦場にいるのは間違いない。
「敵は……?」
「今、わしの軍団が敵を押しとどめています。閣下には、その間に戦線を離脱して頂きます」
答えたのは先ほどの兵士ではなく、老人の声だ。
「デルタドール、来てくれたのか」
声の方に頭を向けると、白髪頭のデルタドールが、ソームズ公の傷の具合を確かめるように、片膝をついていた。
間一髪のところで、デルタドール軍団が救援に現れたようだ。
「当然です。だが、わしらが来た時はもう、本隊は壊滅寸前でした。ここも長くはもたないでしょう」
総司令官のソームズ公が倒れたことで、敗戦は決定的となった。味方の士気は大きく下がり、敵はさらに勢いを増したことだろう。
そのような状況で、デルタドール軍団は逃げずに戦い、敵の進撃を止めている。驚くべきことだ。兵士たちはよほど、指揮官であるデルタドールを信頼しているのだろう。
「さあ、一刻も早く逃げてください。急造の担架を用意してあります」
「いや、総司令官である私が逃げるわけにはいかん。私の剣はどこだ」
言ってから、自分の右腕の肘から先がないことに気付いた。左腕も動かない。剣を振ることは無理そうだ。
「閣下の剣は拾ってあります。右腕は諦めてください。応急処置は施しましたが、閣下は未だ危険な状態です。このように話をしているのもよくない。どうか、後方へ下がって治療に専念してください」
「いや、この体ではもう戦えないが、それでも総司令官として兵士を鼓舞することはできよう。私はもう、ここで死んでも構わない。陛下と殿下が逃げる時間を稼げるならば、本望だ」
そう言うと、デルタドールの顔色が変わった。それまで神妙だった顔つきが、見る見るうちに赤くなり、今にも殴りかかってきそうな、ものすごい面構えになった。
そして、鼓膜が破れるかと思うほどの大声で、ソームズ公を怒鳴りつけた。
「バカモン!! 自ら死のうとするのは最低の指揮官だ! それは、兵士を死に追いやる指揮官だ!」
ソームズ公が唖然とするほどの、すごい剣幕だ。
「兵士は生きるために戦っているんだ! だから指揮官は兵士を死なせないため、自分が死んではならんのだ! 死ぬために戦うのは戦争じゃない、生きるために戦うのが戦争だ!! それを理解できん者が戦場にいるな! 出て行けっ!!」
ソームズ公は、この老人を誤解していたことに気付いた。
六十四歳にして、悠々自適な隠居生活を捨て現役に復帰したのは、死に場所を求めてのことだと思っていたのだ。
そう思っていたのはソームズ公だけではない。多くの兵士も話していた。「きっとデルタドール将軍は、ベッドの上で死ぬことは恥だと思っているのだろう」と。
そう思わせるほど、彼の生き方は苛烈に見えた。
だが、そうではなかった。彼が戦うのは生きるためだ。戦争で勝つというのは、生きて国を守ることだ。
それが、デルタドールの戦争哲学だった。
「上官に対して、無礼な口を利きました。申し訳ありません」
デルタドールは謝罪した。
「いや、君の言う通りだ。私は指揮官失格だ。出て行くことにしよう」
「それがよいでしょう。生き残っている本隊の兵士と共に、退却してください」
「なあ、デルタドール」
ソームズ公は、言わずにはいられない。「そう言うからには、おまえはこの状況でも、絶対に生きなければならんぞ」
デルタドールは黙ってうなずくとソームズ公に背を向け、巨大な戦斧を手に、兵士たちの元へと向かった。
―――
ローガンは敵の奮闘ぶりに対し、同じ軍人として尊敬の念を抱いた。
ソームズ公が倒れたことで、敵軍は今にも総崩れすると思われた。だが、第五軍団と戦っていた軍団が救援に現れ、ローゼンヌ軍の前に立ちふさがった。
彼らの戦いぶりは勇敢で、統制が取れている。そして個々の兵士の戦闘技術が、今まで戦っていた相手とはまるで違っていた。
「あれは敵の最精鋭軍団だな。見事なものだ」
パージェニーも同じ感想を抱いたようだ。
「はい。特にあの老将の戦いぶりは、凄まじいです」
指揮官は六十歳を過ぎているように見えるが、巨大な戦斧を振り回して戦うその姿は、周囲を圧倒していた。
重い鎧を着て、あんな大きな斧を振るなどは、普通の人間には不可能だ。よほど並外れた体力と腕力を持っているのだろう。
敵兵は指揮官の戦う姿に励まされ、闘志をみなぎらせている。
「うむ、ガロリオン王国にあんな将軍がいるとは知らなかった。ゴルバーの代わりの軍団長として、スカウトしたいものだ」
「しかし、このままでは敗走する敵を追撃することができません。我々は、完全に動きを止められています」
老将が率いる軍団は、前に出るでもなく下がるでもなく、全くその場を動こうとしない。絶対に動かないと、心を決めているようだった。
パージェニーが率いる第二、第六、第九軍団は、前に進めなくなっていた。別動隊の第十四、第十五軍団だけでは、クオンや政人を逃がしてしまうかもしれない。
「ローガン、逆に考えよう。我々の動きが止められているのではなく、我々が、敵の最強の軍団をここに足止めしているんだ」
「たしかに、考えようによってはそうですが」
「この敵は強いが、機動力には欠けるようだ。第九軍団にこの敵の相手をさせ、第二、第六軍団は回り込んで、クオンとマサトを追う」
パージェニーは、デルタドール軍団の兵士が全員、重武装の歩兵であることを見て取っていた。
そして、状況に応じて作戦を変えるのが、パージェニーのやり方である。
「なるほど、最強の敵を主戦場から遠ざけておくのですね。見事な策です」
すでにこの戦いは、逃げるガロリオン軍に対する追撃戦に移っているため、ここは主戦場ではない。
デルタドール軍団をここに釘付けにしておくことで、大きな働きをさせないことに意味がある。
パージェニーは第九軍団の軍団長のサニードに声をかけた。
「サニード! 第九軍団は単独でこの敵の相手をせよ! 勝てずともよい。敵が前に出てくれば後退し、退こうとすれば追いすがれ。そして敵をこの場から動かすな。その間、第二軍団と第六軍団は残りの敵を追撃に向かう」
「はっ! 第九軍団はここで敵の足止めをします。お任せください!」
すっかりパージェニーの指揮能力を認めているサニードは、力強い声で復唱した。
パージェニーとローガンは、残りの軍団を率いて追撃に向かった。
デルタドールはそれに気づいたが、どうしようもなかった。第九軍団はまともにぶつかろうとせずに、まとわりついてくる。それを振り払うことはできなかった。
―――
(俺は何のためにここに来たんだろうな)
政人はソームズ公に言われたとおり、クオンや親衛隊と共に逃げている。逃げるしかない自分の無力さが悔しかった。
それでもここで死ぬわけにはいかない。政人は摂政として、敗戦処理をしなければならないからだ。
残念ながら、この「レブーラの戦い」はガロリオン軍の完敗だ。まだ被害の程度はわからないが、この敗北は「炎斧戦争」の帰趨を決定づけるものとなるだろう。
だが、負けたからといって、国がなくなるわけではない。できるだけ有利な条件で講和条約を締結し、クオンと国民をなんとしても守らなけらばならない。それが政人の仕事だ。
出陣式では「勝利を!」などと威勢のいい演説をしたが、それでも政人だけは、負けた場合の想定をしておかねばならなかった。
そんなことは会議で話し合うこともできないし、誰かに相談することもできない。政人が負けた時のことを考えている、などと伝われば、国民の士気を下げ、不安を高めることになるからだ。
だから全国民が勝利だけを考えている状況で、政人はひとりで、自分の頭の中だけで、負けた場合の方策を考えていた。
そんな政人が死んでしまっては、敗者であるガロリオン王国は、勝者であるローゼンヌ王国にいいようにされてしまうだろう。
だから今は恥も外聞も捨て、ひたすら北へ向かって逃げている。
だが、北へと向かう進路は、味方の兵士の群れで塞がっていた。なぜかジスタス軍の兵士たちが、その場にとどまっているのだ。
そのせいで政人たちは、それ以上進むことができなくなった。左右は切り立った崖になっており、迂回して進むことはできそうにない。
そこへ、ギラタンの傭兵軍団と、指揮官を失ったトラディス軍団の兵士たちがやってきた。彼らも逃げてきたのだ。
「おい、何をしてる! 邪魔だ、どけ!」
「さっさと逃げろ、死にたいのか!」
ジスタス軍に向けて、怒声が浴びせられた。
(何をやってるんだロッジは! まだ戦う気でいるのか!?)
そうではない。ロッジは撤退するように命令を出している。だが、民兵が言う事を聞かないのだ。
民兵は、先ほど本隊を救援に向かえという命令を出した時も、なかなか動こうとしなかった。もう少しで第五軍団を壊滅できるという未練があったからだ。
そのせいで本隊の救援には間に合わず、その後、全軍の敗勢が明らかになった。
そこでロッジは、改めて退却命令を出したのだが、またしても民兵は言うことを聞かず、逃げようとしない。戦う事しか考えていないからだ。彼らは新たに現れた伏兵とは戦っていないので、負けたという実感がないのである。
勇敢なのはジスタス公領の男の気質であるが、今はそれが悪い方向に出ていた。
そして彼らは、戦闘中だというのに信じられないことをしていた。
隠し持っていた酒を、ぐいっと飲み干したのである。
一人の民兵が「劣勢を挽回するため、今こそ闘志を高めなければならない!」と言って酒を飲み始めると、他の者も続いた。誰もが即効性を期待して、特別に強い酒を持ち込んでいた。
酒におぼれるのはジスタス公領の男の悪癖であるが、それにしても戦場にまで酒を持ってきていたとは、ロッジでも予想できなかったことだ。
酔った兵士はさらに戦意が高揚し、敵に向かって行こうとした。ロッジはそんな彼らをなんとかなだめて退却させようとしているところに、政人たちがやってきたのである。
ちなみに正規兵は、別の将軍に率いられ、すでに退却を始めている。
「おい、道を開けろ! クオン陛下が来ておられるんだぞ!」
親衛隊長のマニッサがよく通る声で怒鳴りつけるが、酔っ払い軍団は興奮していて聞き入れようとしない。
そうこうしているうちに、敵の第十四、第十五軍団が近くまで迫っていた。
さらには、味方の優勢に勇気づけられ、息を吹き返した第五軍団も向こうからやってくる。まだ残っていた戦象部隊が、ドスンドスンと重い地響きを立てながら近づいてきた。




