187.青天の霹靂
政人は、執務室に届けられたローゼンヌ王国からの国書を読み始めた。
『クオン陛下、およびマサト摂政殿下に通告する。
我が国と貴国とは共に協力し合い、政治的にも経済的にも深い関係を築いてきた。だが、友好国同士といえども、領土をめぐる問題は曖昧なままにしておくことは許されない。
現在は貴国の領土となっているアドレーヌ地方は、グルドラース王の御代までは我が国の領土であった。それを当時のガロリオン王ミルグルが、アドレーヌの農民の一斉蜂起の混乱に乗じて掠め取ったものである。
私はローゼンヌ王として、そのような無法な状態を見過ごすことはできない。
よって私は貴国に対し、アドレーヌ地方の返還を要求する。
もし、この要求に応じぬ場合、我が国は武力による奪還も辞さぬものなり。
なお、この国書に対する返書は、青の月の一日までにローゼンヌ大使館に届けること。
それを過ぎた場合、もしくは我らの要求を拒否した場合、貴国は我らの兵に蹂躙されることを覚悟しなければならぬ。
ローゼンヌ王国国王 ジェイルバンカー・レガード』
政人は何が起こっているのか理解できず、しばし放心状態に陥った。
友好関係を築いていると思っていたローゼンヌ王国から、宣戦布告に近い内容の国書が届いたのである。
交渉などは全くする気がなく、ただ一方的に領土を返せと主張し、返さないなら軍隊を率いて攻め込むと宣言している。
(レガード王は、こんな無礼で理不尽なことを書いてくるような人だったのか?)
到底飲める要求ではない。
このような全く正当性のない要求に対して、言われるがまま国土を渡してしまっては、統治者の資格はない。諸侯は離反し、国民も愛想を尽かすはずだ。
国土と国民を守るのが国家の務めであり、そのために税を徴収して軍隊を組織しているのだから。
それに、ここで脅しに屈してしまえば、こちらが弱いと見た相手は、さらに無理な要求をしてくるだろう。
(突然こんなことになったからには、何か理由があるはずだ。その理由を探り、なんとか外交交渉によって問題を解決できないだろうか)
そう思ったが、この国書を早馬で届けてきたラントフォー大使は、自身による報告書を添えていた。
『この国書は開戦事由をつくるための形式的なものであり、ローゼンヌは既に戦争の準備を始めています。
このような事態に至るまで気付かなかった私の不明に対しては、伏してお詫び申し上げるよりほかございません。
この上は、なんとか王に翻意を促すために力を尽くしてみるつもりではありますが、事ここに至っては、戦いは避けられぬと覚悟したほうがよいでしょう。
すぐに戦争の準備を始めてください』
政人は頭を抱えた。
平和がいつまでも続くと思っていたわけではないが、まさかこんなに早く戦争が現実になるとは思っていなかった。
もちろん政人のみならず、誰もがパニックに近い様相を呈した。
「ど、ど、どうするのであるか?」
ハナコがその場でグルグルと円を描くように走り回っている。
「す、すぐに戦争の準備を」
そう言うアモロの声も震えていた。
「落ち着きなよ、二人とも」
さすがにタロウは取り乱すことはなかった。「御主人様、すぐにみんなに知らせましょう」
「そうだな」
クオンにも国書を読ませねばならないし、主だった者たちにも知らせなければならない。
だが、今から会議を開いて皆の意見を聞き、今後の方針を話し合っていては、対応に時間がかかってしまう。
今はスピードを重視すべきだ。政人一人で決められることは、先に決めてしまった方がいい。
ようやく落ち着いた政人は、矢継ぎ早に指示を出した。
まず陸軍大臣のソームズ公と海軍大臣代理のリンカを呼び出し、事情を話した。そして一刻も早く、戦争の準備をするように指示した。
それから、領地に帰っている諸侯たちに出陣命令を出した。
諸侯にはハルナケア山地を越えて王都に参集させる案もあったが、それでは時間がかかりすぎる。
それよりも、王国の北部に領地を持つ諸侯たちで連合軍をつくった方がよいと、ソームズ公が進言した。敵が北の街道から攻めてくる可能性もあるし、場合によっては、諸侯連合軍と王家軍が、北と南の二方向からローゼンヌ領に攻め入ることも可能になる。
そこで、タンメリー家、ルロア家、カルデモン家、そして領主不在のソームズ家の四家で北部諸侯連合軍を結成させることにした。
こうなってみると、ミーナが引き起こした混乱を収めるために、諸侯たちが領地に帰っていたことは、むしろ都合がよかったと言える。領主自らが指揮を執ることができるからだ。
連合軍の総司令官にはタンメリー女公を任命した。ソームズ公は彼女を嫌っているが、その実力は認めている。ルロア公やカルデモン公も文句はないだろう。
ジスタス家だけは領地がハルナケア山地の南側にあり、王領に隣接しているので、ロッジには王家の軍と合流するように命令を出した。
また、外務大臣のマッツをウェントリー王国に派遣した。
援軍を出してもらうため、ではない。ガロリオンとウェントリーは同盟を結んでいるわけではないので、それは難しい。
ローゼンヌ王国への食糧の輸出を止めてもらうように交渉させるのだ。
人口が多く耕地が少ないローゼンヌは食糧の自給率は低く、その多くは輸入に頼っている。
輸入先はウェントリー王国とペトランテ王国、そして最近はガロリオン王国からも輸入しているのだが、圧倒的に多いのは『世界の穀倉地帯』と呼ばれるほどの農業国、ウェントリー王国である。
ウェントリーから小麦などの食糧を輸入できなくなれば、ローゼンヌは戦争どころではなくなるはずだ。
だが正直、期待はできない。ウェントリーにとってローゼンヌは、大事な交易相手なのだから。
せめてローゼンヌに肩入れせず、中立でいてくれれば、それで十分かもしれない。
薬の行商を隠れ蓑にして、各国の情報収集を任せているマローリンには、政人自らが出向いて指示を与えた。
「マローリン、君にはローゼンヌの王都エルムーデに行ってもらいたい」
「ボク自身がかい? 既にローゼンヌの領内には、行商人兼諜報員を多数派遣してあるけど」
「戦争が始まっても国境が完全に閉ざされることはないと思うが、それでも本国との連絡は難しくなるだろう。君自身が現地で指揮を執り、独自の判断で適切な行動を取ってほしいんだ」
「適切な行動って、具体的に何をすればいいんだい? さらに深い敵の情報を探るのかな?」
「もちろんそれもあるが――」
政人は自分の考えを話した。マローリンはうなずきながら聞いている。
「摂政くんはすごいことを考えるなあ。行商と情報収集だけがボクらの任務だと思っていたよ」
「非常事態だからな、何でもするさ」
国の存亡がかかっている場合は、どんな手段も、その目的のために有効ならば正当化される、とはルネサンス期のイタリアの思想家、マキアヴェッリの言葉だ。
「なるほど、それでボクがローゼンヌに行く必要があるんだね」
「ああ。戦況が変わった場合、俺からの指示がなくても、即座に判断ができる人間が現地にいることが必要なんだ」
「ふふ、摂政くんにそこまで信頼してもらってるなら、期待に応えなきゃいけないね。わかったよ、ボクだってこの国の国民だ。勝利のために力を尽くすさ」
「助かる」
青の月の一日になっても、返事は出さなかった。あのような無礼な国書に返事をする必要はない。
ヴィンスレイジアに駐在していたローゼンヌ大使館の職員たちは全員、本国に帰って行った。
これで、開戦は決定的になった。
主だった人物を集めて、戦略会議をすることになった。
会議に使用されるのは、いつも評議会会議を行っている会議室よりも、かなり大きな部屋だ。
部屋の中央にある大きな長方形のテーブルの上には地図が広げられ、そこに碁石ぐらいのサイズの丸い石がいくつも置かれている。石は赤と黒の二種類があり、それぞれガロリオン王国とローゼンヌ王国の軍隊を表している。
これが戦争のための会議であることを、実感できる光景だ。
そのテーブルを囲むように、参加者が席についている。
まずはクオンだ。その後ろには親衛隊長のマニッサが直立不動の体勢で控えている。
そしてクオンの隣にはミーナ。
ミーナら影の評議会のメンバーは会議に呼んでいないのだが、彼女は当然のようにそこに座っていた。
(確かに、この非常事態に与党も野党もないな。挙国一致で戦争に協力させる必要がある)
それから政人と、その護衛のタロウ。
政人は兵士の士気を高めるため、自身が戦場に出る覚悟を決めている。すると当然タロウも、政人に付き従うことになる。
イヌビトを戦争に参加させてはいけないという条約があるが、護衛が目的ならば問題は無い。その結果として、敵兵を倒すことがあってもだ。
その条約は本来、イヌビトのみで部隊を組んで戦うことを規制するためにつくられた条約なのだ。
政人がいない間の留守政府を運営する者として、官房長官のハナコと政人の秘書のアモロ。そして内務大臣のキモータがいる。
王都にいない大臣たちの代わりとして、司法省、財務省、外務省から官僚のトップも顔をそろえていた。
陸軍からは陸軍大臣のソームズ公。将軍のギラタン、トラディス、デルタドール。そしてルーチェに代わって遊撃隊の隊長代理を務めるリンドが出席している。
現在妊娠六か月のルーチェは、もうはっきりとお腹がふくらんでおり、自分も戦いたいとはさすがに言わなかった。
海軍からは海軍大臣代理のリンカ。そして三人の提督が出席している。
「それでは全員そろったようなので、始めよう」
政人が宣言し、会議が始まった。




