179.歴史家と政治哲学者
数日後、政人とアモロはルーガーの様子を見に、王の書庫を訪れた。
番兵に声を掛け、中に入る。
書庫の内部は細長い部屋で、狭い通路の両側に造り付けの本棚がズラッと並んでいる。
本棚には巻物もたくさん置かれていた。複数枚の紙を折って一方の端を綴じたもの、つまり「本」が発明される以前のものだ。歴史の重みを感じさせる。
他にも書簡や地図など、様々な形態の史料が時代ごとにまとめられている。
通路に無造作に置かれた脚立を避けながら奥へ進むと、やや開けた空間があり、そこにルーガーがいた。床の上に広げた巻物を一心不乱に読んでいる。
政人が声をかけると、彼は慌てて立ち上がった。
「これは摂政殿下! 気付かずに失礼しました。夢中になっていたもので」
番兵に聞いたところでは、彼はここで寝泊まりしているそうだ。
あまり眠っていないのか、目の下にクマができている。だが、疲れた様子は全くない。気力がみなぎっているようだ。
「ペイドリック王の日記は見つかったのか?」
「はい、全百五十二冊、完全にそろっていました! これは世紀の大発見ですよ!
そして、それ以外にも貴重な史料がたくさんありました。
歴代の王の事績、合戦の記録、失われた文化、怪しげな伝説。
中には、メイブランド教が誕生する以前の巻物もありました。これがそうです」
そう言って、床に広げた巻物を指差す。
「その頃、この国では火を信仰していたようです。ヴィンスレイジ王家の家紋はそれに由来するのでしょうね。クオン陛下を始め、歴代の王たちは火の神の加護を受けておられますが、何か関連があるのでしょうか?」
「なるほど、興味深い問題だな」
摂政としての仕事がなければ、政人もここで史料を読みふけっていたいところだ。
「殿下!」
「な、なんだ? 大声を出して」
「この書庫は、この世界の全ての人間にとって宝の山です。ここにある史料は王家が秘匿しておくべきものではありません。出版し、世に出すべきです! 知識は共有しなければなりません。そうしなければ学問は発展しません!」
「そ、そうだな。その通りだ」
ルーガーが言っていることはまさにその通りだ。今までそれをしなかったのは歴代の王たちの、さらには政人の怠慢と言ってもいいかもしれない。
「出版する前に、ここにある全ての本の内容を確認しなければなりませんね。僕一人ではさすがに無理なので、協力してくれる人員を貸して頂きたいのですが」
「僕一人では……って、ルーガーさんには仕事があるでしょう」
アモロが言うように、彼の本業は影の財務大臣であり、ここで本を読んでばかりいてはミーナは怒るだろう。
「あー」
ルーガーは困った顔をした。「ミーナさんには申し訳ないんですが、この部屋の史料を見てしまったからには、もう財務大臣どころではありません」
「では、どうするんですか?」
「影の財務大臣をやめて歴史家になります。もともと、それが僕の夢だったんです」
それがいいだろうと政人も思う。政治家よりも歴史家の方が彼には向いていそうだ。
(彼が一人前の歴史家になれば、正史を書く任務を与えてもいいかもしれないな)
「うん、素晴らしいことだと思う。俺もできるだけ協力しよう」
「ありがとうございます!」
「ただし、ミーナにはちゃんと説明しろよ」
「そうですね。ああ、ミーナさん、怒るだろうなあ」
政人としては、その怒りがこちらに向けられないことを願うばかりだ。
司法大臣のタンメリー女公から、またしても苦情がきた。
影の司法大臣のロットという男が、わけのわからないことを言ってくるのが、うるさいのだそうだ。
「私は相手をしたくありません。殿下、代わりにあの男の話を聞いてやってください」
女公はそう言ってロットを政人に押し付けた。
そして今、彼は政人の執務室にやってきて、熱弁をふるっている。
「国家における主権者は、王ではなく民衆なのです。王は主権者から行政を委託された公僕に過ぎません。
だから王がもしも民衆を不幸にするならば、主権者である民衆には王をやめさせる権利があるのです」
(ミーナは何を考えてこんな奴を影の司法大臣に任命したんだ?)
このロットという男は若く美男子であり、身なりも整っていて、態度も堂々としている。
だが、王家にとっては危険な、人民主権思想の持ち主だった。
世が世ならこんな過激なことを言えば処刑されかねないが、今は憲法で言論の自由が保障されているので、罪には問われない。
とはいえ、もし彼の考えに賛同する人間が増えれば革命が起きかねないので、政人としては放ってはおけない。
隣にいるアモロとタロウを見ると、驚きすぎてポカンと口を開けたまま固まっている。主権が民衆にあるなどという考え方があるとは、思いもよらないことだったろう。
王は王であるというだけで民衆よりも偉い。それがこの世界に生きる者の常識だ。
「今の立憲君主制で充分だろう。王の権力は憲法で制限されているのだから、王が好き勝手なことをして民衆の権利を侵害することはないはずだ」
「恐れながら、今の憲法をつくったのは、王に代わる行政担当者である殿下ではありませんか。
自分で自分の権力を制限するための憲法をつくろうとすれば、どうしても恣意的な内容にならざるを得ません。
しかも、統治者の行為が憲法に違反しているかどうかを判断する機関も存在しません。
これでは憲法で統治者の権力が制限されているとは、とても言えません」
「むむむ」
(この男は立派に野党だな)
だが、党の足並みはそろっていない。
政人が完成させようとしている政治体制は「立憲君主制」だが、ミーナはその立場と言動から察するに「絶対君主制」を目指していると思われる。
だから主権は民衆にあるというロットの考えは、ミーナにとっても到底受け入れられるものではないはずだ。
やはりミーナは影の評議会のメンバーを選ぶに際し、その人物の名声や成績だけを参考にしており、政策のすり合わせも行っていないようだ。
「歴史を振り返ってみれば、王の多くは主権者である民衆の利益ではなく、自分の利益のために政治を行ってきました。
そのような王には統治者の資格がありません。
主権者である民衆には、自分たちのために働かない王をやめさせる権利があるのです。
我々は、世襲ではない方法で王を選ぶ必要があります」
ロットの考えでは、王の存在自体は否定しておらず、主権が民衆にあるということが重要なようだ。
「王に統治者の資格がないかどうかは、誰がどうやって判断するんだ?」
「全ての国民による国民投票ということになるでしょうか。もちろん多数決では少数者の意志が反映されないという問題はありますが」
「大多数の民衆は教育を受けておらず、どのように行政が行われているかの情報も得ていない。そのような状態で国民投票をすれば、少数の人間のプロパガンダによって結果が左右されることになるぞ。それが主権者全体の意志と言えるのか?」
「うーむ、そうかもしれません。ですが、私は民衆の理性を信じたいと思います。全ての者が自由な考えで投票を行えば、出た結果は公共の利益に反しないものとなるでしょう」
「そうだろうか?」
政人には疑問に思えるが、どう反論しても彼の意見は変わらないだろうと思えた。
政人は地球の歴史において、民主政が衆愚政治に陥ってしまった例を知っている。
だがレンガルドでは、文明成立後に民主政の国家が存在した例がない。だからこの世界の人間は、過去の歴史に学ぶことができないのである。
「あの、もし王をやめさせるということに決まったら、どうやってそれを実現するんですか? 王だって、はいそうですかと退位したりはしないでしょう」
アモロが尋ねる。王は軍事力を持っているのだから、国民投票の結果など力で覆すことができるはずだ。
「王は主権者である民衆の意志には従わねばなりません。もし従わない場合は、民衆は武器を手に取り、王と戦うしかないでしょう」
「冗談じゃない、それじゃ内乱になる。王だけじゃなく、民衆も血を流すことになるぞ」
かつてシャラミアを武力で倒した政人だからこそ、それがいかに危険なことかはよくわかっている。
罪のない人まで内乱に巻き込まれて死んでいく姿を見て、胸を痛めたものだ。
まだ、王だけを暗殺する方がマシである。もちろん、そんなことは口に出せないが。
「私も心苦しいのですが、主権者の権利を守るためには、犠牲が出るのもやむを得ません」
(なっ……!)
聞き流せない言葉だった。
「ふざけるな!!」
「え……?」
普段は温厚な政人が怒鳴り声をあげたので、アモロやタロウも驚いている。だが、これは怒らずにはいられない。
シャラミアを倒した頃とは違い、今の政人は政治家だ。政治家ならば、暴力的な方法ではなく、政治的な方法で問題を解決しなければならない。
政人の政治理念は「無理はしない」である。
彼には、諸侯から領地を取り上げ、中央集権化を進めるという方針がある。
だが、それを強引にやろうとすれば間違いなく混乱が起き、国民の生命や財産が脅かされる。
だから、時間をかけてゆっくりやろうとしているのだ。
民主化を必ずしも否定はしないが、やるならば段階を踏んでやるべきだと思う。
フランス革命の歴史的意義は大きいが、その過程では大量の血が流れている。
ルイ十六世やマリー・アントワネットら王族だけではなく、多くの民衆も死ぬことになった。財産を失った者もたくさんいる。
ガロリオン王国をそのような状態にするわけにはいかない。
「今の君は在野の学者ではなく政治家だろう! 政治家には国民の生命と財産を守る責任があるんだ。だから犠牲者を出さずに主権者の権利を守る方法を考えろ! 主権者は民衆だと言うなら、目的を達成するためであっても、民衆を害するような方法を選択するな!」
その言葉を聞いたロットは、自分の非を悟った。
「確かにその通りです。政治家としての自覚が足りませんでした。私は暴力ではないやり方を考えなければなりませんでした。申し訳ありません!」
素直に謝られたことで、政人は怒りを鎮めた。フランス革命の指導者にロットのような理性と謙虚さがあれば、もっとスムーズに民主化を実現できたのではないか、と思えた。
「まあ、主権は民衆にあるという君の考えはわかった。だが、その考えはこの国では受け入れられないだろう。王が民衆を支配するのは当然のことだと、皆が思っているんだ」
「承知しています。私の考えを理解してくれる人は誰もいませんでしたから。誰もが私を頭がおかしい人間だと決めつけました。だからこの考えは、胸に秘めていたのです」
「ミーナにも言わなかったのか?」
「彼女は魅力的な人間ではありますが、私の考えを理解できるほどの教養はないようでしたので、黙っていました」
(言ってくれれば、ミーナも君を連れてきたりはしなかったろうに)
ただ、ロットは一人の人間として見た場合、面白い男ではある。
まさかこの世界に、ルソーのような異端者がいるとは思わなかった。
話していてわかったが、彼は変人ではあるが悪人ではない。
そして、政人は変人が嫌いではない。
常識人である(と自分では思っている)政人にとって、世間の常識にとらわれずに自分を貫ける人間というのは尊敬の対象である。
変人が、新しいアイデアを生み出し、世を動かすということもあるのだ。
「君に提案があるんだが」
「なんでしょうか?」
「俺にはモリサワ・ヒデキという親友がいる。俺と同じく異世界から来た人間だ。そして彼は、光の女神の加護を受けた勇者だ。今は神聖国メイブランドの王都デセントにいる」
政人は自分が異世界人であることを隠すのをやめている。そのほうが人々から畏怖され、統治者として都合がいいからだ。
人は平民に統治されるよりも、権威のある人間に統治された方が納得できるものだ。
異世界からやってくるなどという奇跡は、神の御業でしかあり得ないことなのだから、これ以上の権威はない。
「勇者ですって!?」
「会ってみないか? 彼なら君を変人扱いせず、しっかりと話を聞いてくれると思う」
英樹は、「デセントの人間は信心深い者が多く、神や信仰の話ばかりするので退屈だ」と手紙に書いてきていた。
ロットと話をすれば、彼の退屈がまぎれるのではないかと思ったのだ。こんな面白い人間はそうはいないだろうから。
もちろん、厄介払いの意味もある。彼の考え方を否定はしないが、やるなら他所でやってほしい。
「異世界の方なら、私の考えを理解してもらえるかもしれませんね。私も勇者という存在には興味があります」
「よし、では紹介状を書いてやろう。ヒデキは君を大切な客人として扱ってくれるはずだ。デセントまでの旅費も出そう」
「わかりました。ではミーナさんに辞表を出しましょう。改革のためなら犠牲もやむなしと考えてしまう私は、きっと政治家には向いていないのです。ここで影の司法大臣として働くよりも、神聖国メイブランドで私の考えを広める方が意義がありそうです」
「あ、いや、ヒデキ以外の人間には君の考えを話さない方がいいぞ。処刑されかねないから」
(あの国は神々と『神聖女王』が絶対の国だからな)
「そうですか、仕方ありませんね。私も死にたくはありませんから」
「あの、殿下」
アモロが心配そうに言う。「さすがにミーナが怒るんじゃないですか?」
これで影の評議会は、陸軍大臣、財務大臣、司法大臣がいなくなったことになる。ミーナがいないところで、政人が彼らに働きかけた結果だ。
(俺はミーナの代わりに適材適所の人事をしただけなんだが、それを説明するのも面倒だな……)
政人はアモロの肩をぽんと叩いて言う。
「アモロ、君に任せた」
「…………え?」
―――
「マサトさんはどこよ! あの腹黒男はどこにいるの!!」
「自分を見つめ直すと言って、滝に打たれに行きました!」
般若のような形相のミーナが、摂政の執務室に飛び込んできた。そのあまりの迫力に、アモロもタジタジになる。
「あのマサトさんが、そんな無意味なことをするはずがないでしょうが! 逃げたんでしょう? せめてもっとマシな嘘をつきなさいよ!」
「ま、まあ、そんなに熱くならずに。まずは話を聞いてくれ」
アモロはデルタドール、ルーガー、ロットが影の評議会を抜けるに至った経緯を説明した。
「――と、いうわけで、ミーナの邪魔をする意図はなかったんだよ。殿下は人事能力が高い方だから、人材が活用されていないのを見ると、改めずにはいられないんだ」
「うー、……たしかに私が連れてきた人物に問題があったようね」
(……これじゃあ、私のやっていることは政治ごっこだと言われても仕方がないわね)
とはいえ、これ以上影の評議会のメンバーを引き抜かれるわけにはいかない。
ミーナは組織の引き締めを行うことにした。




