177.老将は衰えず
タンメリー女公の執務室から戻って一息ついていたところ、今度は慌てた様子の兵士が駆け込んできた。
「摂政殿下、演習場で陸軍大臣と陸軍大臣が喧嘩をしておいでです!」
「誰と誰だって?」
「失礼しました。ソームズ公と、もう一人は影の陸軍大臣のデルタドールという老人です。我々では止められそうにありません。どうか仲裁していただけないでしょうか?」
(あの、いかにも歴戦の軍人という風貌の老人か)
若いメンバーがそろっている影の評議会の中に、一人だけ老人がいたので印象に残っていた。年齢は六十四歳とのことだった。
政人はタロウと共に、急いで演習場へと向かった。
演習場に着いてみると、ソームズ公とデルタドールが口角泡を飛ばすようにして怒鳴り合っていた。いまにも相手につかみかからんばかりの勢いだ。
デルタドールはなぜか上半身が裸だ。六十四歳とは思えないほど、筋骨隆々で引き締まった体をしている。
二人のそばにはトラディスが立っていて、なんとかなだめようとしている。
その様子を、兵士たちが遠巻きにながめている。
「これは摂政殿下!」
政人に気付いたトラディスが向き直り、直立不動で敬礼した。
トラディスは、かつて政人が軍監をしていた軍の隊長だった男だ。政人の命令によってヴェネソンを斬ったのも彼である。
そのためヴェネソンの弟であるアモロは、事情は理解しつつも、彼に対して複雑な感情を抱いている。
今のトラディスは、兵士からの評判は悪くない。
ソームズ公に言われ、体罰を振るったり暴言を吐いたりすることをやめたからだろう。彼は根っからの軍人なので、上官の命令には従うのである。
ソームズ公による彼の評価は、「ギラタンのような才覚は無いが、堅実な用兵ができるので、安心して一軍を任せられる」とのことだ。
政人に気付いた兵士たちも、慌ててこちらを向いて敬礼をする。
だが問題の二人は、気付く様子もなく口論を続けている。
「いったい何があった?」
「それが……」
トラディスの説明によれば、兵士たちが訓練をしている所にデルタドールがやってきて、「どれ、わしが稽古をつけてやろう」と言って服を脱いだのだという。
兵士たちは戸惑っていたが、「どうした? 六十四歳の老人が怖いのか?」と挑発され、怒った兵士の一人がデルタドールにつかみかかった。
兵士は激しく体当たりしたにもかかわらず、老人を一歩も後ろに下がらせることができず、そのまま投げ飛ばされた。
老人はその後も「次、次」と言いながら、かかってくる兵士たちを投げ飛ばしていった。
そこへ、知らせを聞いたトラディスがやってきて「勝手なことをするな」と、老人を注意した。
だが、彼も投げ飛ばされた。
その後、今度はソームズ公がやって来て老人を注意した。
デルタドールはさすがにソームズ公を投げようとはしなかったが、相手が諸侯であっても一歩も引かずに言い返し、口論になった。自分も陸軍大臣なので、遠慮はいらないと思ったのだろう。
それから二人は、激しい言い争いを続けているのだという。
(ソームズ公も気性が荒い人だからなあ)
政人は二人に近付いていった。
「落ち着け二人とも。頭に血が昇った状態では、建設的な議論はできないぞ」
だが二人は政人に気付く様子もなく怒鳴り合っている。全く周りが見えていないようだ。
タロウが二人の間に割って入った。サッと手を伸ばし、右手でソームズ公の目を、左手でデルタドールの目を覆った。
「うおっ!」
「なんだ!?」
人間は視覚情報に頼る部分が大きいので、突然目をふさがれると驚いて何もできなくなるのである。
そこへタロウが、二人を一喝する。
「摂政殿下が落ち着けと言っている!!」
タロウのおかげで、ようやく二人とも冷静さを取り戻したようだ。
「兵士たちも見ている前で、上に立つ者が口汚く罵り合っていては、示しがつかないぞ」
政人が注意すると、二人は素直に謝った。
「おっしゃる通りです。殿下には御見苦しい所をお見せしてしまい、慙愧に堪えません」
「わしも、年甲斐もなく熱くなりました。お詫びいたします」
「デルタドール、なぜ兵士たちとレスリングを始めたんだ?」
「指揮官が兵士たちの心をつかむには、自ら体を張って彼らの中に飛び込む必要があるのです」
それを聞いたソームズ公は黙っていられない。
「あんたは指揮官ではなく、部外者だろうが! 訓練中に勝手なことをされては困る!」
「それでは部外者ではない閣下は、もっと兵士たちと話をするべきではありませんかな? 聞くところによれば、閣下は執務室にいることが多く、兵士たちの前にあまり姿を見せないとか」
「私の仕事は軍全体を束ねることなのだ。兵士たちと話をするのは、トラディスのような将官の仕事だ」
「デルタドール、これはソームズ公の言う通りだ。兵士を指導するのは将官の仕事であり、陸軍大臣は将官に対して指示を出すんだ。陸軍大臣が兵士と直接接する機会は、あまりないのが普通だ」
デルタドールがやったことは、日本で言えば防衛大臣が自衛隊員と相撲を取ったようなもので、まずあり得ない。
ソームズ公も初めの頃は直接兵士を指導していたのだが、自分の役割を理解してからは控えている。
「お言葉ですが殿下、それではいざという時に兵士は力を発揮できません。兵士が指揮官を信頼し、この人についていけば大丈夫だ、という確信を持ててこそ、戦場で勇気を奮って戦うことができるのです」
「戦場で指揮官となるのは陸軍大臣ではなく、将官だろう」
「しかし、陸軍大臣であるソームズ公閣下も、有事の際は戦場で指揮を執ることになっていると聞いていますが」
確かにそうなのである。
政人の考えでは、戦争になったときは、政治家である陸軍大臣は王都から指示を出すものだと思っていたのだが、第一回定例評議会で異論が出た。戦場からいちいち王都の政府に方針を問い合わせていては臨機応変な対応ができないので、現場の指揮官にも戦略的な判断を任せた方がいいというのである。
そこで陸軍大臣であるソームズ公が、現地で指揮を執るということに決まったのだ。
それどころか、政人やクオンも状況によっては出陣することになっている。
「確かにそうだが、その場合もソームズ公が指示を出すのは将官に対してであって、兵士に対してではない」
「ですが、ソームズ公閣下が従軍するのならば、その姿が兵士たちの目に触れることになります。その時兵士たちに『ソームズ公のために戦いたい』とか『ソームズ公を守らなければ』という思いを抱かせることができれば、軍はより大きな力を発揮するでしょう。そのためには、普段から兵士と深く交わっている必要があるのです」
「なるほど、一理あるな。ソームズ公はどう思いますか?」
「そうですな。私も時々顔を出して、兵士たちに激励の言葉をかけてやってもよかったかもしれません。いえ、最初の頃はそうしていたのですが、最近はなかなか時間が取れず、怠っていました」
無理もない。
陸軍大臣の仕事は多岐にわたる。広い視野から軍全体を見なければならないからだ。
デルタドールの場合は、影の陸軍大臣などといっても特に仕事はないので、自ら兵士を指導しようとしたのだろう。
彼は今まで、兵士たちと体をぶつけ合うことで、彼らの信頼を得てきたのだ。今回の件も、良かれと思ってやったことだろう。
だが、彼は軍にとっては部外者なので、それは越権行為にあたる。正規の訓練をしている兵士の邪魔をしたことになる。
王家の軍では将官が兵士とレスリングをする習慣は無いので、兵士たちも戸惑ったことだろう。
最初にトラディスから話を聞いた時は、「老害」という言葉が頭に浮かんだ。
人は年を取ると頑固になると言われている。
老いたからというよりも、今まで自分のやり方で成功してきたという自負があるために、時代が変わってそのやり方が通じなくなったとしても、改められないのだ。
時代に合わせられなくなったのならば、引退したほうがよい。
だが、デルタドールの場合はそうではない。
兵士たちと体をぶつけ合うという彼のやり方は、今の時代でも間違ってはいない。王家の軍でも、新しい訓練法として採用してもいいかもしれない(将官に、兵士になめられない程度の力があればだが)。
合っていないのは時代ではなく、役職だ。
現場の人間であるデルタドールを、「影の陸軍大臣」などという、政人にも何をするのかよくわからない役職につけたことが間違っていたのである。
合わない役職についていることは、本人にとっても周りの人間にとっても不幸なことだ。
上に立つ者が心掛けるべきは、部下が力を発揮できるように適材適所の人事をすることである。
(ミーナには悪いが、ここは摂政の強権を使わせてもらおう)
「デルタドール。あなたは影の陸軍大臣だ。所詮は『影』であって、軍にとっては部外者だ。あなたの仕事は、野党として政府の批判をすることなんだ」
「ミーナ殿に声をかけられたときは、そんな仕事だとは思わなかったのです。わしにはそんな仕事はできそうにありません。わしが現役に復帰したのは、批判をするためではないのです」
「その通りだ。六十四歳は老け込むような年齢ではないと思う。あなたの力は現場でこそ発揮されるものだ。俺は、軍人として四十年以上も実績を積み重ねてきたあなたの経歴に、敬意を表します」
「殿下にそのように言って頂けるとは、光栄です」
「あなたには、これからも兵士たちを指導し、戦場においては勇敢に戦ってほしい。だから、影の陸軍大臣はやめてもらう。ミーナには俺から言っておく。その代わり、あなたに新たな任務を与えたい」
「それは……?」
政人は厳かに告げる。
「ラグーザ・デルタドール。貴殿をガロリオン王国陸軍の将軍に任命する!」
将軍は一軍を率いる指揮官だ。ギラタンやトラディスと同格である。
デルタドールに異存はなかった。彼は政治家ではなく、軍人なのだ。
「はっ! 将軍として殿下のご期待に応えられるよう、力を尽くします!」
敬礼をして、辺りに響き渡る大声でそう答えた。
ソームズ公も、納得したようにうなずいた。
「万卒は得易く、一将は得難し」という言葉がある。
たくさんの兵士を集めることは簡単だが、一人の優れた将軍はなかなか見つからないということだ。
今、王家は優れた将軍を得た。




