119.雷獣の咆哮
丘の手前、敵との距離が二キロまで迫ったところで、ルーチェは最後の確認のため、斥候を出した。
もし、敵に備えがあるようであれば、奇襲は中止して引き揚げるつもりである。
彼女はこのまま突撃をかけようと思っていたのだが、ウェズリーの進言に従うことにしたのだ。
「ソームズ家では『勝っているときほど慎重に』という家訓があります。我々はこれまで何度も奇襲に成功し、被害も出していませんが、だからといって油断すると足をすくわれることになります」
「そういうものかしら」
確かに、今までは上手くいっていたので、負ける気はしない。
それが油断というならば、そうなのかもしれない。
斥候が戻ってきた。
「敵がこちらに気付いた様子はありません。多くの兵士は腰を下ろしています」
「わかったわ」
ルーチェはウェズリーを見た。
ウェズリーは同意するように、うなずいた。
ルーチェは掛け声の代わりに、槍を振り上げた。
そして、槍を振り下ろすと同時に、丘を駆け上がる。
配下の騎兵たちも、遅れじと後に続いた。
丘の頂上に着いた時、敵軍の姿を視認できた。確かに、座り込んでいる兵士が多い。
(いける)
そのままスピードを上げ、丘を駆け下りた。
お互いに顔が見える距離まで近づいた時だった。
「大盾、構え!!」
ギラタンが号令をかけると、座っていた敵がさっと立ち上がって整列し、大盾を構えて壁を作った。全身が隠れるほどの大きな盾である。
そして、盾と盾の間から、長槍を水平に突き出してきた。
この隊形は、横から攻められるともろいが、正面からの攻撃には鉄壁である。
左手は海、右手は林だ。横にまわりこめるスペースはない。
(やられた。敵には備えがあった)
「退却!」
仕方がない、今回は奇襲は失敗だ、と軍を反転させようとしたところ、右手の林から敵兵が飛び出してくるのが見えた。
振り返ると、敵はルーチェ軍の退路を塞ぐように軍を展開させていた。
ルーチェは罠にかかったことを悟った。
―――
ギラタン軍とルーチェ軍が戦闘中だとの報告を受けたダンリーは、すぐさま出陣を命じた。
ルーチェ軍が、万が一包囲を突破したとしても、逃げ道をふさぐためである。
ダンリーは、自家の兵を八百人以上討たれ、その後も散々悩まされてきたことで、ルーチェへの復讐の思いに駆られていた。
ギラタンから、ルーチェ軍を待ち伏せするために行軍を停止させると連絡を受けたときは、見事な作戦だと感心したものだ。
ルロア公もカルデモン公も、全く使えない。
自分の頭でモノを考えているのは、ギラタンしかいないと思った。
ダンリーはルロア軍の七千をアンクドリアへの備えに残し、残りのアクティーヌ軍とカルデモン軍、合わせて一万一千を出撃させた。
今度はカルデモン公にも文句は言わせなかった。
それほど、ダンリーのルーチェへの怒りの感情は強かった。
ここでルーチェを逃がすわけにはいかない。
ダンリーは戦場へ向かって、街道を急いだ。
―――
「みんな、諦めないで!」
後方からは隙間のない大盾隊が迫ってきている。これは突破できそうにない。
ルーチェは愛用の槍で、前から迫ってくる敵兵の首をはねた。
続けて、左から近づく敵の顔を、槍の石突で激しく打ち込んだ。敵は顔面を陥没させて倒れた。
なんとかアンクドリア方面へと脱出するべく、守りが薄いところを突破しようとするが、敵の数が多すぎる。
(ここで死ぬわけにはいかない。アタシが死ねばマサトはきっと、立ち直れないほどに悲しむ。マサトにそんな思いはさせられない!)
だが、気付けば、完全に包囲されていた。
騎馬隊は、動きを止められてしまえば弱い。
まわりを見ると、配下の兵士たちが次々と討ち取られている。
ウェズリーの肩から胸にかけて、深々と敵の戦斧が振り下ろされるのが見えた。
「ウェズリー!」
「ルーチェ殿、どうか、ここを突破し、閣下を……助けて……」
ウェズリーは力を失い、馬から落下した。
(ああ、あなたの言う事を聞いて、慎重になっていれば)
自分のせいで、ソームズ家の大事な騎士を死なせてしまったことが、申し訳なかった。
彼女は今まで、自分は強いと思っていた。
だが、違った。
多少槍の扱い方を知っているだけの、愚かな少女にすぎなかった。
自分の愚かさが、この上もなく悔しかった。
「ルーチェ、武器を捨てて投降しろ。そうすれば命までは取らん」
聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。
「ギラタンか」
「死んだら元も子もないぞ。勝ち目のない戦いでは、指揮官は一人でも多く部下の命を助けようとするもんだ」
(確かにそうだ。――みんな優秀な兵士たちだったのに、愚かなアタシについてきてしまったために、こんな目に遭ってしまった)
これ以上、部下を殺されるわけにはいかない。
そう思い、投降しようとしたときだった。
敵の槍が、部下の兵士の胸を貫こうとしているのが見えた。
「やめろ!!」
思わず叫んでいた。
戦場から、音が消えた。
敵も味方も動きが止まっている。
(これは……?)
ルーチェは気付いた。これは、自分の声の力だと。
今までは隠密行動を取っていたため、戦場で大声を出すことはなかった。
そのため、この力のことを忘れていた。
動きの止まった敵兵の間に、一か所だけ隙があるのに気付いた。
「突破する! アタシに続け!」
「おう!」
ルーチェと配下の兵士たちが、まだ呆けている敵の間を縫って、囲みを突破した。
「逃がすな! 追え!」
いちはやく立ち直ったギラタンが兵士たちに号令をかけるが、すぐには動けない。ルーチェの声に、完全に気を飲まれてしまっている。
ようやく後を追い始めた時は、ルーチェ軍の姿は遠く離れていた。
―――
ダンリーは、前方から凄まじい勢いで近づいてくる騎馬隊に気付いた。
「旗印は『虎』! ルーチェ率いる騎馬隊です!」
遠目の利く兵が大声を上げた。
(ギラタンの奴、逃げられたのか。念のため、僕たちも出陣して正解だったな)
ルーチェ軍は先ほどの戦いで数を減らし、二千人ほどになっている。対する連合軍は一万一千人だ。
正面からぶつかれば、数に優る連合軍が負けることはない。
ルーチェ軍はまっすぐにこちらに向かってきた。
「弓兵隊、構え!」
ダンリーは、敵が射程に入ったところで弓兵隊に号令をかけた。
「放て!」
上空に放たれた矢が、放物線を描いて敵に襲い掛かる。
だが、ルーチェ軍の騎兵の進軍スピードは、ダンリーの予想を上回っていた。
ほとんどの矢は敵の後方へと落ちた。
「長槍隊、構え!」
横一列に並んだ長槍隊が、槍を水平に突き出す。
だが、ルーチェ軍はそれが目に入らないかのように突っ込んでくる。
(玉砕する気か?)
そう考えた次の瞬間、あたり一帯に雷のような怒号が轟いた。
「死ね! 死ね! アタシに続いて死ねええええ!!」
合戦において、勝敗はどのように決まるのか。
そのルールは、単純なものだ。
先に戦意を失った方が負けるのである。
例え数で上回っていようと、戦意を失えば負けだ。
戦意を失った兵士は、指揮官の命令を聞かずに逃げ出す。これを「潰走」という。
兵士たちはパニックに襲われ、逃げることしか考えられなくなるのである。
いったん潰走を始めた軍は、どんな名将であっても立て直すのは無理だ。
ルーチェの「死ね」という声を聞いたルーチェ軍の騎兵たちは、勇壮な気分が高まり、興奮状態になった。
誰一人死を恐れず、これ以上ないほど士気が高まっている。
それに対して、同じ声を聞いた連合軍の兵士たちは――、
名状しがたい恐怖に襲われ、恐慌状態に陥った。
恐怖の感情は本能的なものだ。恐怖に支配されてしまった人間は、思考ができなくなる。
連合軍は、算を乱して潰走し始めた。
ダンリーは、それを止めることができない。それどころか、彼自身も馬首を返して逃げ始めた。
「死ね! 死ね!」
誰もが、逃げることしか考えられなくなっている。
視界の端で、カルデモン公の太った体が、血を噴き出しながら舞い上がるのが見えた。
「死ね! 死ね!」
だが、もうそんなことはどうでもいい。とにかく逃げねばならない。
ルーチェの声は、一万一千の兵を圧倒した。
後に、十キロ以上離れたアンクドリアの住民にもその声が聞こえた、などという嘘のような噂が広まった。
このオルティニア街道の戦いこそが、「ガロリオンの槍」と呼ばれ、戦場では無敵を誇ることになるルーチェの、歴史の表舞台に登場した最初の戦いである。
彼女が戦場で轟かせる声は、雷が落ちたかのように聞こえることから、人々から畏怖をこめて「雷獣の咆哮」と呼ばれた。
「逃げるな、ダンリー!」
ルーチェがダンリーの姿を視界にとらえた。
(ひいいぃぃっ!)
ダンリーは生きた心地がしない。
彼の馬はかなりの名馬なのだが、前が詰まっていてなかなか進むことができない。
ぞわっ
背筋から脳天にかけて、雪女に息を吹きかけられたかのような、冷気を感じた。
「ダンリー」
振り返ると、ルーチェがすぐ後ろにいた。槍を振り上げるのが見えた。
「アタシの勝ちだ」
それが、ダンリーがこの世で聞いた最後の声だった。




