第五十六話 再び
『残念っ! この女はこれから売り飛ばされて、新しいご主人様の慰み者になるんですよぉー?』
――真っ暗な部屋の中、奴隷商ワルザックの笑い声が木霊する。
ワルザックの言っていた『ご主人様』の手が、逃げるようとするカナを掴まえて、弄び、虐げていた。私はカナに向かって手を伸ばすけど、どんなに必死に伸ばしてもこの手が届かない――。
§ § § §
「あああああぁぁぁぁぁっ!!!」
……私は叫びながら飛び起きた。気がつくと何故かベッドの上。
「……あれ……ここは?」
「宿屋、ですわ。あの後、貴女は泣き疲れて路上で寝てしまっていたんですの」
「じゃあ……どうして……」
「私がここまで運んで差し上げたんですわ」
自慢げに胸を張るジル。
「二度目ですわね。大変だったんですのよ?」
「うん……ごめん、ありがとう……」
「構いませんのよ! だって、私たち『お友達』……ですもの。『お友達』なら、助け合うのが当然、ですわ……」
両手の指をもじもじと絡ませて、照れながらジルは言った。
そう、今はカナだけでなく、ジルも友達なんだ。
申し訳ないような、ありがたいような、気恥ずかしいような。救われた気持ちになって、私は改めてお礼を言った。
「うん……そうね。でも、ありがとう」
ジルのおかげで、さっきまで見ていた悪夢は綺麗さっぱり忘れる事が出来た。
ジルも嬉しそうに、私に向かって微笑んだ。
「それはそうと、貴女の『お友達』……」
「カナ?」
「そう、カナさんですわ」
――カナだ。あの奴隷市で売られていたのは、間違いなく私の親友、カナ。『魔導具』の材料として捕らえられ、綺麗だった角も折られてしまい、そして奴隷となって酷い目に遭わされていた。
あれは、夢じゃない。まぎれもない現実だった。
私はベッドから身を乗り出してジルの両肩を掴み、激しくジルを揺さぶりながら聞いた。
「ねえ……! どうなったの!?」
「ちょ……ちょっと、落ち着いて下さいな」
「あ……ごめん」
ジルから手を離して、一言謝った。
ジルも肩を痛そうにさすっている。
「でも……カナは……カナは一体、どうなったの?」
「あの後、すぐに雨が降り出してオークションは中止。結局は明朝、領主に売られると言う事になりましたわ」
「領……主?」
私は、その言葉にぞっとした。カットマン男爵だったら、カナは助かるどころか夢の通りにされてしまう。カットマンは街で捕らえた側室や、毎月のように買った奴隷たちに何十人もの子供を産ませていた、そういう貴族だった。
私の頭の中で、忘れたはずの悪夢がフラッシュバックした。
カナも同じ目にあうと思ったら、居ても立ってもいられなくなり、また声を荒げてしまう。カナの事になると、冷静ではいられない。
だって、大切な親友だから。
「じゃあ……、このままじゃカナは……!」
「噂通りでしたら、あの領主の手篭めにされる未来しかあり得ませんわね……」
「どうしよう……! ねえ、どうしたらいい? ……ジル!」
カナを早く助けたい。心ばかりがはやるのに、何をすればいいか分からない。八つ当たりをするように、ジルに無茶な問いかけをぶつけてしまう。彼女だって、どうすればいいかなんて知らないはずなのに。
私の悲痛な問いに、ジルは落ち着き払って一息ついた後、平然とした表情でこう答えた。
「そうですわね。とりあえずは、逢いに行ってみましょうか?」
「逢いに、って……」
「お気付きになりませんの? 今はもう夕方。あと少しもすれば、こっそり逢いに行けますわよ?」
私に向かって片目を閉じて微笑むジル。
部屋を見渡すと、辺りは夕陽でオレンジ色に染まっていた。
幼い頃、カナに逢いたくて泣き叫び、やっとの事で再会を果たしたあの夕暮れと同じ色だった。
§ § § §
それから深夜になり、誰もが寝静まった頃。
ジルが胸から取り出したランタンに火を灯し、私たちは夜の大通りへと向かっていた。
カナに逢うために。
細い下弦の月が照らす暗い夜道を、あの噴水広場まで急ぐ。
広場に到着すると、すでに何もかもが消えてなくなっていた。
あれだけ騒いでいた兵士や商人たちだけでなく、奴隷たちが囚えられていた沢山の檻も、ワルザックが乗っていた演台も。無論、カナも……。
あるのは枯渇して水が出なくなった噴水だけ。
「もう、何もないね……」
「まあ……当然、撤収しますわよね……」
泣きそうになる私の肩に手を置き、なぐさめるようにジルは言った。
「でも、カナさんを領主に売る訳ですから、きっとどこかの宿……いいえ、あれだけの沢山の檻、それに来る時は何台も馬車を使ったいたでしょうから……広い倉庫か集会所を探せばきっと見つかりますわ……」
その言葉に少しの希望が湧いて、もう一度二人でカナを探すことにした。
§ § § §
ジルの言った通りだった。
街外れの倉庫の前に、奴隷商たちのものと思われる複数の馬車が停まっていた。
ランタンのシャッターを下ろし、光量を最小に絞って倉庫の中に忍び込む。
小さな明かりを頼りに、ほとんどが空になった沢山の檻を一つ一つ確認しながら、檻で出来た迷路を進む。
いくつもの檻を抜けると、その先にカナの閉じ込められている檻があった。
その鉄格子の向こうには、首飾りがなければカナだと分からない程、やつれてぼろぼろになったカナが力無くうずくまって眠っていた。
「カナ……」
同じ建物で寝ている奴隷商たちを起こしてしまわないように、小さくカナに声をかける。最初は気付かなかったカナだけど、何度か呼びかけると、私に気付いてふらふらと立ち上がり、弱々しい足取りで近付いた。
「ア……リ……サ……」
カナが、私の名前を呼ぶ。
間近で聞いた三年ぶりのカナの声は、枯れてしまってはいたけど、私の記憶の中にある、高くて、可愛らしい小鳥のような声だった。
その懐かしいカナの声に、私は優しく語りかけた。
「そう、アリサだよ。カナ……!」
カナが私を、私がカナを呼ぶ。
昔はそれが当たり前の事だったのに、こんなにも嬉しく、大切に感じるなんて。呼び合えるという、たったそれだけの事で私の胸が熱くなった。
「ア……リサ……」
「ごめんね……迎えにくるのが遅くなったね……カナ……」
「アリ……サ……アリサ……!」
「カナっ……! カナぁっ……!!」
私たちは何度も呼び合い、鉄格子の隙間から指と指を絡めあって、互いの手と手を握りしめた。そのほんの小さな面積から伝わるぬくもりを感じて。
私とカナ、二人の瞳から涙が零れ落ちていく。
一粒、また一粒と頬を伝う涙は少しずつ増えていき、いつの間にか、お互いの顔が見えない程になって、声を上げて泣き崩れていた。
やっと逢えた事、長い間ずっと逢いに行けなかった事、こんな姿にさせてしまった事……嬉しさと後悔と苦しさが入り乱れた感情で、私はぴったりと鉄格子に体を添わせ、カナを抱きしめた。
「絶対……絶対! 必ず助けにくるからね? カナ」
どうすればいいかは分からない。でも、きっと必ず。
「……待っててくれる?」
「ああ……アリサが……言うなら、アタシ……信じるよ……」
私たちは互いの首飾りを小さく首元で掲げあって、約束した。
今度こそ、絶対に破らない――約束。