第五十五話 カナ
ヘッダの奴隷市……そこで見たものは、変わり果てたカナの姿だった。
体中、鞭や鈍器で打ち据えられた痣だらけ、可愛らしかった笑顔も、透き通った声も、見る影もない程にやせこけ、枯れてしまい……何より、あの月光に照らされて淡く輝いていた綺麗な角が無残に手折られ、奴隷として売られていた。
首にはめられた鋼の輪と、腹に刻まれた奴隷の刻印が痛々しい。
女の子なのに裸で衆目の前に立たされるという辱めを受け、今も好奇の目で見られ続けている。
カナリア……その昔、鉱山で人々の替わりに生贄にされていた小鳥の名前。
彼女はその名の通りに命の尊厳を奪われ、そこに立たされていた。
一体、どうしてこんな事に……。
私は、そんなにいいとはいえない頭を全力で回転させて考えた。
……急激に国内で出回りだした『ゾディアック帝国』の『魔導具』
その『魔導具』の中に魔力源として込められていた、魔族の角。
忽然と姿を消した、どこの森にもいるはずの『魔族』の狩猟者たち。
私の故郷の森、『赤の森』を守る狩猟者だった、カナ。
魔法でしか傷付かない『魔族』であるカナに付けられた無数の傷跡。
《電撃》などの魔法を容易に放つ事が出来る『魔導具』の威力。
そして、目の前でカナを捕らえている『ゾディアック』の奴隷商……。
――全てが繋がった時、これまでカナがどんな事をされてきたのか、私の脳裏に生々しく浮かび上がった。帝国の狡猾な罠に捕らえられ、むりやりに角を折られ、奴隷として酷い仕打ちを受けてきた光景が……。
カナの痛み、苦しみ、悔しさが、まるで私自身が背負わされたかのように、私の心の中で再現される。親友をこんな目にあわせた『帝国』が、『ゾディアック』が許せない。
何より一刻も早く、カナを助けないと。
そう思って一歩を踏み出そうとすると、左右から私の首元に剣が伸びる。
この奴隷市の客の半数以上は、カットマン兵。
頭に血が上っていた私は、そんな簡単な事すら忘れて隙を晒してしまっていた。
二人の兵を皮切りに、次々と兵たちが私に切っ先を向ける。指一本動かせない程、剣に囲まれてしまう私。
兵たちは皆、あの模擬戦で打ちのめした私に対して怯えてはいるものの、月に一度の楽しみを邪魔されたくないという一心で、私に剣を向けていた。
私の首筋に当てられた二本の剣こそぴったりと止まっているが、それ以外で私に向けられた剣の内のいくつかは、彼らの腕の震えが伝わって小刻みに揺れていた。
大怪我になるのを承知でやるなら、ここで大暴れする事は出来るかも知れない。けれど、怒りに任せて戦ってしまったら……さっきジルが言っていた通り、罪のない市民まで蹴散らしてしまう事になる。
思わず飛び出してきてしまった私だけれど、それだけは避けないといけない。
ジルの言葉となけなしの理性が、私の荒れ狂った怒りをかろうじて止めていた。
それに、今はカナを人質に取られているも同然の状態。私が下手な事をして、カナの身に何かがあったら……私は悔やんでも悔やみきれない。
結局、私はただ耐える事しか許されなかった。
「おやぁー? この魔族女のお知り合い、ですかぁー?」
私の様子を見て、わざとらしく挑発する奴隷商、ワルザック。
「お涙頂戴の、感動の再会……と言ったところ、ですかねぇー? 残念っ! この女はこれから売り飛ばされて、新しいご主人様の慰み者になるんですよぉー? はーっはっはっは!」
「くっ……!」
悔しがる私に対して、ワルザックは追討ちをしかけた。
私自身に……ではなく、よりによってカナに。
「ご覧の皆様、魔族は女であっても、この通り頑丈なのです! ……殴ろうが!!」
カナの腹に思い切り拳を叩きこむワルザック。
殴られた衝撃で、カナの体がくの字に折れ曲がる。
魔法でしか傷つかない……といっても、きっと痛みは感じている。
「蹴ろうが!!」
今度は後ろに回りこんでカナを蹴飛ばした。やせ細って体力もなくなっていたカナは、抵抗も出来ずに前のめりになって倒れてしまう。
まるで、土下座のような姿勢で四つんばいになる。
「踏みつけようが!!」
上から何度もカナを踏みつけた。背中を、頭を執拗に踏むワルザック。踏まれるたびにカナの顔は床に擦り付けられ、無残なまでに歪む。そんなカナの惨状を気にも止めず、尚も背や頭を踏み、脇腹を蹴りつける。
助けようと動いた私の首の皮が切れ、血が滲んだ。助けたいのに動く事が出来ない。その間にも、カナは踏まれ、蹴られ続けていた。私は、何も出来ない自分の無力さを心の底から恨んだ。
「この通り、傷一つ付きません!」
今度はワルザックが腰にかけていた鞭を取り出すと、床を叩く。
激しい打撃音が広場中に響き、その威力の凄まじさを皆に伝えた。
「ですが、この魔法の鞭なら……」
下卑た笑いを浮かべながら、鞭でカナを打ち据える。鞭が一振りされるたび、カナの背中に赤く太い筋が走る。同時に、カナの枯れてしまっている喉からかすかな悲鳴が漏れ、カナの涙が床を濡らす。
鞭が振るわれ、赤い痕が背中に残り、カナの悲鳴が上がる。また鞭が振るわれ、赤い痕が背中に残り、カナの悲鳴が上がる。また鞭が振るわれ……。何度も何度も、カナが鞭によって傷つけられていく。
その間中、カナは胸元の首飾りを庇うように握りしめ、必死に耐えていた。
「はーっはっはっは。魔族とはいえ、流石は少女です。いい声で鳴きますねぇ!」
その残虐な鞭打ちショーは、悲鳴が出せなくなり、鞭の痛みに体が反応出来なくなるまで……文字通り、カナが壊れる寸前まで続いた。
親友が感じているであろう痛み、苦しみを思って……そして、親友の危機を見ているだけしか出来ない自分への怒りに、私の瞳からも止めどなく涙があふれ出ていた。
「……魔族ですので餌さえ与えれば、人間よりも強靭で、力仕事も男以上! ……ほら、立て! この、汚らわしい魔族女が!」
ワルザックがまたカナを蹴りつけると、カナはふらつきながら立ち上がった。
「非常に珍しい『珍品』ですので、金貨五十枚からの始まりとなります! この鞭もセットで、金貨五十枚からです! さあ、さあ!」
手のひらを大きく広げて、観衆に強く主張するワルザック。
「……おっと、その前に……この邪魔者をどっかにやって下さぁーい」
その一言で、私は剣を突きつけている二人とは別の、もう二人の兵に腕を左右から掴まれ、広場から追い出された。
§ § § §
カナと引き離されて放り出された私は、途方に暮れて立ち尽くしていた。
私を追いかけて、ジルが駆け寄る。
ジルは棒立ちになっている私の手を握り、心配そうな声で囁いた。
「……大丈夫でしたか? アリサさん」
ジルの手のぬくもりを感じた時……安心感と一緒に、何も出来なかった私自身への悔しさがこみ上げてきて、大粒の涙となって溢れ出した。
「ジルっ……」
悲鳴のような嗚咽が喉を突く。
「カナが……カナがぁ……っ!」
「彼女が、アリサさんの大事な『お友達』……ですのね?」
「うん……うん、カナ……っ、私の、親友。……カナ、カナぁっ……!」
もう、私は私自身、何を言っているのかすら分からない。
ただひたすら激情に任せて、めちゃくちゃに泣き叫んでいた。
次から次へ、止めどなく涙が零れて落ちてくる。
ジルは私を優しく抱き締め、何度も頷きながら聞いてくれた。
「……どうして彼女は、あんな所に?」
「分からない……分からない……でも、ほら……これ!」
私は、肌身離さず着けているカナとお揃いのペンダントをジルに見せる。
「これ……! カナとお揃いのっ……。だから、カナなの……。あの子は絶対、私の……カナなの……っ! なんで……どうして……っ!」
おそらくジルが全く知らないであろうカナの名前を何度も連呼している私に、止めるでもなく、無理になだめようとするでもなく、ただ頷いて、聞き続けてくれているジル。
「カナっ……カナぁっ……カナあぁっ……!」
私は顔をくしゃくしゃにして、みっともなく大声で泣き喚いた。
ジルは、そんな私が泣き止むまで、ずっと優しく抱きしめてくれていた。