第三十二話 過去Ⅳ
「あのクソ女神……騙しましたわね……!」
この世界に着く成り、私は悪態を吐いた。
女神(あの女)の言っていた『適切な世界』とやらは、全くと言って良い程『魔素』が足りて居ない世界だった。大気中に漂う魔素が余りにも希薄過ぎる。竜としての巨体は疎か、効率が良い筈の人の体すら保つのも難しい量だ。
このままでは『適切』どころか、私は魔素不足で消滅してしまう。
そこで仕方無く私は『竜神教』と言う宗教を立ち上げ、人々を癒やし、信仰心を集める事にした。信仰心で力を得るのは、最初に居た世界でも出来ていた事だからだ。
それによって少しずつでは有る物の、私を維持する力を手にする事が出来た。
確かに、結果的には竜を崇める世界には成った物の、私の思い描いた『竜と人とが共存する楽園』とは似ても似つかない。少なくとも数多の異界に棲まう竜達に、この世界を『楽園』だと報告するのは恥ずかしい。
彼等も私の言う『楽園』など絵空事だと思って、全く期待せずに居るのだろうし、竜にとって一千年、一万年程度の年月は大した時間とは呼べない為、急いで報告する義務も無いのだけれど。
それから、また時が経つ。今度は僅か百年。
私の知覚の能力に反応が有った。何者かが《異界渡り》をしたようだ。
一人の人間が、異界よりこの世界へと渡って来た事が分かった。
召喚された勇者かと思ったが、そう言う訳でも無かった。
産まれ直したばかりのようだ。
その異界渡りの者の名は、『アリサ』と言うらしい。
私以外で、この世界に異界渡りをした唯一の存在。
違う世界から渡った者同士、今度こそ『お友達』になれるかも知れない。
そう言った淡い期待を持ってしまう、弱い心が私にもあったようだ。
私は時折、知覚の能力で彼女の成長を観察していた。
そんな十八年目のある日、彼女の方から私の居る国へと近付いて来た。
ならば、私自らが赴き、彼女を試そう。
久々に重い腰を持ち上げ、彼女の居る国へと旅を始めた。
§ § § §
そして、彼女に護衛の依頼と言う態で近付き、彼女と行動を共にする事にした。
実際に見た彼女は、知覚で観た彼女よりも真面目で、素直で可愛らしく、やや単細胞で愉快な少女だった。一緒に居れば居る程、暖かい気持ちが込み上げた。
僅か一週間を共に過ごしただけで、彼女は私の中で大きな存在になってしまっていた。
このまま『お友達』になって貰える様、お願いすれば受け入れて貰えるかも知れない。だが、『リサ』の時の様に私の正体を知られてしまったら、怖がられ、裏切られてしまうかも知れない。
今、私に尊敬の眼差しや屈託の無い笑顔を向けている『アリサ』も、私の正体を知れば、私に石を投げ、私から離れて行くかも知れないのだ。
そう考えると、強く心臓が締め付けらる思いがした。
やがて二人での旅が始まり、最初の村から街への道中で、その事ばかりを考えていた。旅を続ける程に、日を追う毎に苦しさが募る。
仄かに芽吹いた筈の胸の中の暖かな想いは、例え様も無い恐怖や不安、痛みへと取って替わられて行く。もう、こんな想いを続けるのは嫌だ。
いっそ、殺してしまおう。
それだけで、私は一切を諦める事が出来る。
そしてもう一度、独りに戻るのだ。多少辛いけれど、ずっと裏切りに怯え続ける事に比べれば幾分増しだ。そこで私は策を弄し、幾度も彼女を殺そうとした。
悉く策を退ける彼女。私の胸の痛みは、限界に達した。
こうなれば、私自らの手で!
§ § § §
彼女が寝ている隙に、何千回目かの世界で手に入れた武器で殺す。
地球と呼ばれる世界の、日本と言う島国の武器だ。
しかし、その一撃も失敗する。
彼女の殺気に対する反応が、余りに良過ぎたのだ。
「ちっ……起きてしまいましたのね……。このまま死んでいれば、幸せなまま女神……いえ、女神の下へと旅立てたものを……」
彼女が助かって良かった。
助かって良かった? 私は殺そうとした筈なのに、何故?
「なんで、私の命なんか……」
「狙ったのか――ですの? それは貴女が『剣聖』だから、ですわ」
嘘。
「『剣聖』は女神教のシンボルの一つですの」
これも嘘。
本当は私が苦しいから。貴女と一緒に居ると、こんなにも苦しいから!
「孤児院で子供たちにお菓子を配ったり、目を治したりしてたじゃない――」
「あれは、貴女が依頼から帰って来るのを見計らって、見せつけてやっただけですわ」
そして、これもまた嘘。
あの時の治癒は純粋な善意。でも、貴女に憎まれる為には、こう言うしか無い。
憎まれる為? 私は何故、貴女に憎まれようとしているの?
こんなにも暖かな心をくれる貴女に、私は何故こんな嘘を?
あれも嘘、これも嘘。全部、嘘。
『……っ! 嘘つきっ!!』
嘘だらけの私の心に、あの時のリサの声が蘇る。
苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい!
もう、終わりにしよう。
私は全力で、彼女を殺しに掛かった。否、殺されに。
最後の闘いを挑んだ。
§ § § §
結局は彼女を殺すのも、彼女に憎まれて殺されるのも、全て失敗に終わった。
全てが決した後、彼女は私に優しく微笑み手を差し伸べた。
「……だから、仲間に……友達になりましょ……?」
悍ましい竜の姿を見ても、まだ仲間だと言ってくれた。
どころか、私が一万年間、焦がれて、求めて、欲し続けていた『友達』と言う言葉をくれた。
苦しみでは無く、喜びで胸が一杯になる。
彼女はそのまま倒れたが、再び目を醒ました時、もう一度私に言った。
「じゃあ、友達。いいでしょ? ……ね? ジル」
その一言を聞いて、胸がとても熱くなった。
遥か昔に感じた暖かな思いとは違う、もっと強く、熱い気持ち。
これだけの長い年月を生きて来た私に、初めて芽生えた新たな感情。
再び差し伸べられた手を握り返し、この生涯で二度目の涙を流す。
気高き竜が人間に涙を見せるなんて恥ずべき事だと感じながらも、私の瞳からは止め処無く涙が流れ続ける。
彼女は泣き止むまで、ずっと私の手を握ってくれていた。
この感情が何なのか、これから彼女と一緒に確かめて行けば良い。
そして私は彼女と、彼女に与えられた新しい名と共に生きる決意をした――。