第二十六話 月下
私は震える足を叩いて、気を引き締める。
そして、巨大な白銀の竜に変貌した聖女様を見上げて懇願する。
「……聖女様、優しかった聖女様に戻ってよ、ね?」
あまりの恐怖に敬語すら忘れてしまっていた。
「孤児院で子供たちにお菓子を配ったり、目を治したりしてたじゃない――」
私が村での話をすると、聖女様――白銀竜は前脚を振り上げ、力強く地面を踏みつけた。丸太のような脚が私の脇をすれすれで横切り、すぐ隣で大地が唸る。
当たっていたらひとたまりもなかった。私の背筋を冷たい汗がよぎる。
「あれは、貴女が依頼から帰って来るのを見計らって、見せつけてやっただけですわ。そうすれば、貴女は私を信用するでしょう?」
「『構わず、逃げて』と言った、あれは?」
「盗賊と一緒に一芝居打っただけですわ。ああ言えば、お人好しな貴女は自ら死を選ぶと思いましたの。……とんだ邪魔が入りましたけど」
「……そんな……」
「分かりまして? では、このまま女神(あの女)の下へと送って差し上げますわ……!」
脚をもう一度振り上げ、今度は横薙ぎに払うように叩きつけてくる。
今度は当てるつもりだ。
私は魔法剣で、私の体よりも大きな手のひらを受け止め、その振られた勢いに合わせて横に飛んで、衝撃を和らげた。
「私が今まで闘ってきた大抵の冒険者は、この一撃で沈みましたのに……流石は『剣聖』ですわね」
着地に合わせるように、逆の脚でもう一度薙いでくる。
剣は間に合わない。腕全体でその脚を受け止め、即座に反対へと跳ぶ。
「では……もう少しだけ、本気を出しますわ。《加速》……!」
白銀竜の足元に魔法陣が現れると、その体が魔力の光でまばゆく閃く。
「先程の攻撃、目で追うのもやっと……だったのでしょう? これで、確実に仕留めますわ」
「聖女様……聖職者以外の魔法も使えたの?」
「『真竜』としての嗜み、ですわ」
魔法によって加速された、私にすら見えない攻撃がおそらく左からやって来る。ここまで速いと、もはや勘に頼るしかない。
あらかじめ剣を置くようにして受けの姿勢を取り、触覚で剣に脚が当たったのを感じ取ったと同時に跳ぶ。
「……これすら受けてしまいますの……? それなら……!」
悔しいというよりも、少し嬉しそうな声音で竜が呟き、その長い首をもたげると、巨大な口を天空へと向けた。
「これで、消し炭になっておしまいなさい!」
胸と喉の間、人間ならば天突のあたりが膨れ上がり、その盛り上がりが下から上へと動く。すると、口の端から少量の赤い光――炎が漏れ出し、その鱗に覆われた顔を照らす。
両の前脚で地面をしっかりと掴み、大地を抉り取りながら首を下ろすと、閉じていた口を大きく開いた。その口腔からは、紅蓮、その言葉にふさわしい真紅の炎が吹き出した。
首を大きく左右に振り、地面ごと私を焼き払おうとしている。
一通り炎を吐き終わると、勝ち誇った声で死体になったであろう私に、白銀竜が尋ねる。
「これで、どうですの?」
次の瞬間、勝利を確信していた瞳が驚愕へと変わった。
「……この吐息を受けて……どうして、生きてますの!?」
そこには焼け焦げながらも、まだ倒れずにいる私がいた。
目を見開いて言葉を失っている彼女に、私は答えた。
「さあね。多分……『剣聖』の力じゃない……?」
痛みと熱さで気を失いそうになりながら、私は精一杯の強がりをぶつけた。
そして、懐からあの小瓶……『魔法薬』を取り出して、一息に飲み干す。
私の体が淡く光ると、吐息によって出来た重度の火傷も、先程の殴打と地面への激突によって出来た骨折や打撲も、痛みと一緒に全て消え去るように治ってしまった。
「魔法薬……! ちっ……先払いなんてするんじゃありませんでしたわ!」
「『竜神様』の奇跡は本物ね……。こうなる事が分かってたら、偽物を渡しとけばよかったのにね」
「……偽物でしたら、そもそも信用して戴けなかったでしょう?」
「その通りね」
「忌々しい! ……ですが、もう回復の手段はなくなったんですもの。後は私になぶり殺されるだけですわ!」
その言葉から間髪を入れずに、右の一撃。
受けて跳ぼうとすると、受けたと同時に魔法剣が折れてしまった。
強い衝撃と共に私は吹き飛ばされ、また地面に何度も打ちつけられた。
激しい痛み、そして肋骨も間違いなく何本か折れている。
「また、火を吐く前のダメージに戻ってしまいわましたわね」
爬虫類の顔面でにやりと笑い、楽しそうに告げた。
「その体で、あと何回耐えられますの?」
魔物らしい残虐さを発露し、聖女様だったその怪物は、もう一度私に向かって爪を立てる。無詠唱で繰り出した魔法剣で、その左腕の一撃を受け、痛みのある体に鞭打って大きく跳ぶ。
そうして、右、左、巨体を捻っての尻尾を受けると、また剣が砕け散る。
一度折れてしまっているので、今度は警戒が出来た。
次はみっともなく吹き飛ばされるような事はなく、折れた剣の衝撃すらも利用して防ぎきった。
そのまま飛来してくる来る左右の豪腕。それを受ける。
剣が折れ、新しい剣を出して、次の攻撃を受ける。
何度も受けては跳び、何度も剣が折れる。
何本、何十本も剣を折られ、地面に捨てているうちに、私も次第に慣れてきて、その強大な攻撃を受けたと同時にその場で体をそらすだけで、躱す事が出来るようになった。
「――!」
圧倒的な質量差があるはずの腕が、ちっぽけな人間に弾かれてしまっている事実に驚愕する白銀竜。……そのわずかに出来た隙を見逃さず、私は竜の腹へと潜り込み、刃を突き立てた!
耳をつんざくような激しい衝突音が鳴り響く――。
しかし、私の剣は、鱗にわずかな傷をつけただけで、本体には届かず、たったの一太刀で砕け散ってしまう。
普通の剣より切れ味も鋭く、頑丈な魔法剣のはずなのに。
これが、人間と『真竜』との、圧倒的な差……?
懐に潜り込んでしまった私に攻撃を当てるため、立ち上がろうとその巨体を持ち上げる竜。《加速》の魔法がかかっているとはいえ、その大き過ぎる体を動かすのに、手間取っている。
そこに、私の持つ最強の一撃を叩き込む。
「《剣創世・大斬刀》っ!!」
叫び、巨大な剣を生成し、すぐさま振り下ろす。
おそらく全力での一撃を与える事が出来るのは、この一度だけ――!
しかし……。
金属同士がぶつかり合う轟音が響き、鱗に大きな傷をつけたものの、その一撃は本体へと届く事なく弾き返された。その激しい衝突に私の両腕は痺れ、大斬刀まで取り落とす。
……敵わない……!
真竜相手に何一つ人間が敵う要素はない。
圧倒的な差を見せつけられ、私は絶望してしまっていた。