第四話 出逢い
「きゃあああぁっ!!」
悲鳴を聞いて、森を駆ける。
この森で悲鳴。きっと誰かが魔物に襲われている。
木々の隙間を抜け、邪魔な枝をいくつも払い除け、岩を蹴り上げ、声の方へと走っていく。
生まれ変わる寸前のあの時の全速力と同じ……いや、それよりももっと本気で。
何度も転びそうになって、立て直し、それでも声の聞こえた方向へ。
§ § § §
大急ぎで駆けつけて、なんとかその場に到着した。
目の前には、巨木に背を預けて座り込み怯える女の子と、巨大な熊。
女の子は私と同じくらいの背格好で、五、六歳といったところ。
頭に大きな飾りのようなものを付けて、髪はやや短め。暗い森の中では、顔までは確認出来ない。
何よりも、いつまでも女の子を見ている暇はない。
問題は、目の前にいる大熊。
巨大な……昔、動物園で見た熊よりもさらに大きい。四メートルはあるだろうか。私や女の子と比べて四倍近い高さがあった。
ほとんど日が差さない魔性の森の中にあって、それでも尚、真っ黒な体。
胴が、首が、腕が、足が、その全てが華奢な私の体とは比べ物にならない程、がっしりとしていて巨大だった。
太く逞しい両腕から生えた鋭い爪は、一薙ぎで私達の命を奪うのに十分な凶器に見えた。……そして、血のように赤い眼が獲物――女の子を捉えて鋭く光り、今にも襲い掛からんとしている。
このまま逃げてしまいたい衝動に駆られながらも、それを押さえ込んで私は必死に声を張り上げる。
「そこまでよ!」
私の声に気付き、対峙していた二つの対照的な影がこちらを向く。
「お待たせ! 間に合った?」
さらに声を上げる事で、熊、それも血走った眼や凶悪に伸びた爪、牙、大き過ぎる体から魔物だと分かるそれの注意を私に向けさせる。
お待たせは、女の子に向けた言葉だけど、声は震え、彼女を安心させようと作った笑顔は多分引きつっていたんだと思う。
余計不安にさせてしまったかもしれない。
それでも私は剣――太さや長さは確かに剣だけど、本当は頼りないただの木の枝。その剣先を熊に向けた。
「私が時間を稼ぐから、あなたは逃げて、早く!!」
女の子に怒鳴りつける。
「早く!!」
もう一度言い放って逃げるように促し、熊と正面から向き合う。
大きい。でも足を竦ませていては、私があいつの餌食になってしまう。
動いて……私の足!
熊を強く見据えながら、少しずつ、少しずつ後ずさりをする。
熊もじりじりと私との距離を詰めようと近付いてくる。
何秒、何分――どれだけ睨み合っただろう。何時間にも感じる長い静寂。
痺れを切らして動いたのは熊の方だった。
唸るような咆哮を上げて腕を高く上げた後、屈み込みながら小さな私にその爪を振り下ろす。
迫る大きな鋭い爪。その大きさ鋭さは、私どころか大人でも簡単に引き裂けそう。掌も大きく届く範囲が広いため、ただ躱そうとするだけでは当たってしまう。
木剣を立てて、爪へと当てる。その刹那、それの方向をそらすようにして受け流す。重さを流し切るために私の体も横へと跳ばす。
初撃は何とか外す事が出来た。
ほっと一息つく間もなく、相手は両腕を振り乱して第二、第三撃を放ってきた。
同じように素早く、それでも丁寧に、外していく。
外した先から、また二撃。それも外す。
そんな左右からの攻撃を何度か受け切ると、業を煮やした熊は一際高く吼えて立ち上がり、右腕を高々と上げる。……ほんの一瞬、止まったかと思うと、地面ごと私を叩き潰すように上から腕を振り下ろしてきた――!
大きく横に跳んで避けて、その勢いを殺さずに一足飛びで熊の脇を抜けながら、木剣を叩き付ける。
当たったという手応えはあっても、有効打となった感触が全く無い。分厚い毛皮、その下には人間とは比べられない程の脂肪と筋肉。
熊という生物の持つ天然の鎧が、木剣の打撃を完全にゼロにしてしまった。
振り返る間に、もう一度打ち込む。
……が、全く効いていない!
動揺する私の隙を突かれ、そのまま攻守が入れ替わってしまった。
熊の一方的なサンドバッグショーが始まる。
受け流すたびに、木剣からミシミシと強すぎる力を受け切れずに痛んでいく音が聞こえる。何度受けたか数え切れない程の重撃を受けた木剣に、とうとう限界が来た。
命を預けるには頼りなかった、それでも私の持てるただ一つの武器が乾いた音を立てて折れ、そして吹き飛ばされてしまった。
やがて、熊の最後の一撃、渾身の右腕が振り下ろされる。
勝てない!
そう悟ってしまった。
私の二度目の人生は、たったの六年で終わりなんだ……あの女の子は無事に逃げ切れたかな?
……そう思った瞬間、大きな声が聞こえた。
§ § § §
「――受け取れ!!」
小鳥のような透き通った声。
さっきの悲鳴と同じ声だ。
声の方向を見ると、女の子。まだ逃げていなかったんだ。
……早く逃げて!
そう叫ぼうとした時、女の子の両手から長い何か……剣。鞘のついた長剣が投げられた。
宙を回りながら、私へと向かって飛んでくる長剣。
命の危機を感じていた私には、その軌跡がスローモーションのように見えた。
とっさに剣を受け取り、熊の斬撃を受け止める。
そして、その長く鋭い爪を捌いて、回転した勢いで鞘から剣を抜いた。
城の倉庫にあったものと同じ西洋風の両刃の長剣。
城の長剣とは違い、持った感触はとても軽かった。
軽いのに、その黒い刀身は切れ味の鋭さ、打突の重さを感じさせる。
――不思議な剣。
剣についてそれ以上考える暇はなかった。
熊に出来た隙は、この一瞬だけ。少しでも躊躇すれば返す左の餌食になって、この長剣を受け取った事が無駄になってしまう。
それでも、目の前の命を刈り取ってしまう事に戸惑いを感じる。
そんな時――。
『お嬢様。次は迷わないで下さい。人を護るためにも、お嬢様自身を守るためにも。』
不意にジーヤの言葉を思い出した。
私は思いきって地を蹴り、腰を落としている熊の頭めがけて跳んだ。
全力を込め、刃先をその喉元に突き立てて――薙いだ。
長剣の切れ味が鋭過ぎるのか、手応えを感じる間もなく熊の首が寸断された。
勢い余って私の体は熊の後ろへと飛んでいき、受身も取れないまま盛大に地面に激突する。
それに少し遅れて、宙を舞っていた熊の頭も落ちて転がった。
「勝て……た……?」
一瞬の事で、まだ実感が伴わない。
起き上がって、少しの間呆然として……主を失った熊の体を見た時、やっと勝ったという実感が湧いてきた。
助かった――。
まず、私が最初に感じたのは安堵感。
そしてすぐに、魔物とはいえ命を殺めてしまった罪悪感が押し寄せる。
それでも、初めて……二度の人生で初めて。本当の意味で人を護れた――!
私は憧れたヒーローになれたんだ!
そんな感動が胸を打った。
§ § § §
色々な考えが渦巻いていたのは、ほんの数秒かその程度だと思う。
勝てた事よりも助かった事よりも殺してしまった事よりも、そしてヒーローになれた事よりも。……もっと大切な事を思い出す。
女の子は無事だろうか。
いつの間にか夜になってしまった森の中、彼女が座り込んでいた巨木に視線を移すと……。
――いた。
震えてはいるものの、怪我はないみたいだった。
その時、ようやく彼女の姿をしっかりと確認する事が出来た。
華奢で幼い少女。私より少し背は低そう。
濃い褐色の肌に、深く輝く赤い瞳。幼いながらも整った目鼻立ちの美少女。
その端正な顔立ちとは対極なぼろのローブ。
切り揃えられた髪は金髪……と思ったけど、金ではなく鮮やかな黄色。
まるで黄色い鳥の、その羽のような黄色。
そしてその頭には、角。
髪飾りだと思えていたものは、角だった。
二対四本の波打つような形の角が頭から生え、ようやく差し込んできた月の明かりに反射して、淡い光りを放っていた。
――魔族。
褐色の肌と角を持った、人間の敵。
森の南西に居を構える、獰猛で野蛮で人を食い物か玩具程度にしか思っていない、怖ろしい種族。
何千、何万という命が、この種族に弄ばれてきた。
それでも。たとえそれが誰であっても、弱き者を助けるのがヒーローの使命。
初めて私が助けた相手。
私は彼女に手を差しのべて、語りかけた。
「――大丈夫? 私はアリサ。アリサ・レッドヴァルト――あなたは?」