第三話 赤の森
『赤の森』――私の家名と名を同じくする森。
その名の理由は当然、紅葉が綺麗とか、幹の赤い木が生い茂っているからではなく、この森に入った者は血まみれの死体になって帰ってくる……そういう言い伝えがあるからだ。
ここは、領の西から南西にかけて広がる巨大森林地帯で、中には沢山の魔物が潜んでいる。さらに南西へ行くと、魔物の中でも特に強い力と、人以上の知性を持った種族『魔族』の領土、『魔族領』が広がる。
ただでさえ凶悪な魔物が蔓延る場所となっており、それが数十年前までは魔族と人間の戦争の舞台だったというのだ。
そんな森に迷い込んで、無事に済むはずがない。
だから、『赤の森』
今でこそ、魔族と人間の間に和平協定が結ばれ、魔物も数を減らし、森の入り口程度なら危険という程ではなくなっているものの、用心に越した事はない、そんな場所。
入り口であってさえ、二十メートル近い巨木が点在し、昼でもあまり日が届かず、薄暗い。奥に行けば密集している木や蔦、岩山まであって、自然の迷路となっていると聞く。
レッドヴァルト城は、そういった魔の森の肥大化をせき止め、人間の領域を守るように建っていた。
その城の裏口から出ると、すぐそこは人々が恐怖する血の森。
私はその入り口に立っている。
本当に暗いし、ちょっと怖い。
でも、行くのをやめようとは思わなかった。それまで毎日やっていた事をやらないというのは、どうしても落ち着かなかったから。
せめて、魔物が出ませんように。
高校生だった頃の私ならともかく、六歳で魔物と戦えと言われてもちょっと……いや、大分無理な話だと思うから。
なるべく奥に行かないように、城の壁が見える範囲だけで落ち枝、私の剣に丁度良いものがないか探した。
小さいもの、大きいもの。目に付く所に枝が沢山転がっている。
その中から、木刀替わりにするのに丁度いい枝を一振り拾って、振ってみる。
久しぶりの、剣を握る感触。
ただの木の枝だけど、それでも十分稽古になる。
何度か振ると、懐かしさと一緒に、昔の感覚が戻ってきた。
正面素振りに、斜め素振りに、早素振り。
小さな喉が枯れてしまうくらい何度も面と叫びながら振る。
少し疲れて一息ついたら、また振り始める。
何本素振りをしたか数えるのも忘れて、ひたすら枝を振っていた。
素振りがこんなに楽しいって思った事はない。
その日は結局遅くなってしまって、父上に怒られた。
ジーヤがさっき話してくれたみたいに「こっぴどく」
城を抜け出すのを手伝っていた事がばれて、ジーヤまで一緒に怒られたのには、少し申し訳ない気もしたけど。
昔――生まれ変わる前に戻った気がして、気分はとても晴れやかだった。
§ § § §
次の日も丁度いい事に、大人くらいの太さと高さの立ち木を見つけた。
相手が動かない事には少し不満だけど、これで打ち込み稽古が出来る。
体力が尽きるまで、素振りと打ち込みを繰り返した。
体にのしかかる疲労が、心地よかった。
その次の日も城を抜け出して、剣の練習。
枝や立ち木がボロボロになったら、新しい枝や木を探して、また振り続けた。
来る日も来る日も、毎日鍛錬をした。
それから数ヶ月。
私はあの頃の――生まれ変わる前のような素振りが出来るようになっていた。
同じ本数をこなすのも時間がかからなくなり、鋭くなった風切り音が森を木霊するようになった。
そんなある日、私はそれまで使っていた打ち込み用の立ち木が壊れたため、手頃な木を探して森の奥まで入り込んでしまう。木は密度を増し、迷路のようになって暗くなり、さまざまな方角から何の動物か分からない鳴き声が聞こえてくる。
私は森の変化に気付かず、奥へ奥へと足を踏み入れた。奥とはいっても、まだ城の壁が見えていて迷いはしない程度の距離。しかし、その油断が失敗を招く。
森の奥、そこでばったりと魔物に出遭ってしまった。
魔物――とは言っても、角が生えただけのウサギ。
大きさも子供である私の両手で十分抱える事が出来る程度。
小学校で飼育していた白ウサギを思い出すサイズで、その額から十センチにも満たない角が一本、天に向かって生えている。
赤い瞳は狂気を孕んでらんらんと輝き、口からはプシュウ、プシュウと乱暴な呼吸音を上げていた。この森では、一部の知性がある魔物を除いて、ほとんどの魔物は人間を見ると襲ってくる。
たとえそれが可愛らしいウサギの魔物であっても、その習性は変わらない。
そういった魔物は常に魔力が暴走してしていて、そのために理性を失って凶暴化している。
ウサギは私を見つけるなり、襲いかかってきた。
死角からの奇襲ではなく、遠くから跳ねて来ての攻撃だから躱す事は出来た。しかし……。
出来ない――!
いくら魔物でも、反撃でウサギを叩くのはどうしても可哀想だった。
体当たりを避け、角が当たりそうになったら木剣で受け流し、いなす。
ウサギは尚も突進してくる。それをまた、身を翻して躱す。
何度か攻防……いや、ウサギの一方的な攻撃が繰り返される。
本当の実戦と呼ぶには相手が小さくて可愛過ぎるし、練習と呼ぶには当たれば無事では済まないこの戦い。
日本とこの世界……合わせて二十三年を通して、初の命がけの実戦。
避け、受け流し、距離を取る。相手は追って、跳んで、本気で刺しにくる……。延々とそれを続ける事になった。私は、こんな状況に立たされても尚、眼前の敵に木剣を叩き付ける事が出来ないでいた。
結局最後は、ウサギが疲れてふらついた隙に逃げ帰ってしまった。
慌てて城に戻って扉を後ろ手に閉め、その扉にもたれかかると、厨房ではジーヤが待っていた。
「珍しくお帰りが遅かったので、お迎えに上がろうかと思っておりました」
「ジーヤ、遅くなってごめん……」
稽古に慣れ、いつしか私の帰りが遅くなるのが珍しい事になっていた。
私は、今までの経緯、森の奥に入ってしまった事、魔物に出遭った事、魔物を叩く気になれず防戦一方だった事、それらを全てジーヤに話すと、ジーヤは一息ついて私に語りかけた。
「それは狩るべき……でしたな」
「どうして?」
私はジーヤに尋ねたけど、正しい答えが何かなんて分かってる。
分かっているけど、それを認めるのは辛い。
あんな小さな命を苦しめてまで、私だけが助かりたくはなかったから。
「逆に伺いますが、お嬢様は剣の練習をしておられるのでしょう? それは何のためですか?」
「いつか剣で、人を……護りたいから」
「でしたら、魔物の命を殺める事に躊躇してはなりません」
「……」
「お嬢様が魔物を倒すか、倒さないか迷われている間に、簡単に人は死にます。……魔物とはそういうものです」
「ごめん、ジーヤ」
「私こそ、出過ぎた事を申しました。お許し下さい」
私は、ジーヤの胸に飛び込んで泣いた。
人々を護る冒険者になると決めたのに、自分の覚悟の足りなさが嫌だった。ジーヤに言われても尚、魔物を討つ事が出来そうにない私の心の弱さが許せなかった。
私がひとしきり泣いた後、ジーヤは優しい声でこう言った。
「お嬢様。次は迷わないで下さい。人を護るためにも、お嬢様自身を守るためにも。私はお嬢様が心配なのです」
§ § § §
それから数日は、魔物を倒す……その覚悟が出来ないまま、逃げ回るように、森の中を転々としながら木剣を振り続けた。
何本素振りをしたところで、何回立ち木に剣を打ち付けたところで、気の抜けた打ち込みでは稽古にならない。全然、剣に身が入っていない気がした。
剣を振るたびに、あの時のウサギが脳裏をちらついて、雑念ばかりが募ってゆく。それでも本数だけはこなした後、座り込んで持って来たタオルで汗を拭き、一休みした。
……こんなんじゃ、だめ。
人心地ついた安堵の息ではなく、溜息が漏れ、また気が滅入る。
そんな折、木々がざわめくような気配を感じた。
何か悪い予感がする。
「きゃあああぁっ!!」
途端、森の奥から聞こえてくる叫び声。
多分、声からして小さな女の子だ。私とたいして変わらない年齢と思える高い声。可愛らしい小鳥のような声が、助けを求めている。
なんで森の奥から? どうして女の子が?
疑問に感じながらも、それより先に助けなきゃという気持ちで、私は暗い森の奥へと走っていった。